「……」

 男は眉を寄せた。けれども何も言わなかった。

「ちょーど良かった、頼みがあるんだぁー。灯油買って来てくれよぉーッ!」

 それにも否を口にしなかったのは、弱みがあったから。

「あとなぁ、オマエが飲む酒があんま残ってねーからそれと、肉と野菜と、チーズとミルクと、パンと……」

 次々に告げられる買出しの品目を聞きながら、抜きかけたスノーもビールのキーをもとに戻す。扉の内側へ招きもしないで麓へ一度もどれと、そんな要求をされるのに文句は言わない。

 ただ一つだけ、どうしても気になることがあって、男は雪の照り返しを防ぐサングラスを外した。

「なんだぁー?」

 指先でチョイチョイと銀色を呼ぶ。雪かきの間に踏み固めたアッ説の上を歩いて、銀色の鮫は気軽に近づく。

「お、っ、わ……ッ!」

 手が届く位置まで近づいた瞬間、シートに股がる男の腕の中に捕らえられる。

「わー、ぅわーっ!」

 反射で一瞬、暴れかけたけれど。

「黙って逃げたのは?」

 何故だと尋ねられて、途端に静かになる。

「言いに行ったら、オマエが寝てたからだぁー」

 その答えを聞いて、男も口を閉ざした。

「……」

「……」

「……」

「……」

 じっと二人、至近で見つめあう。

「な」

 なんにもしてねぇぞ、と、男は言いかけた。珍しく銀色より先に口を開こうとした。

「別にオマエが浮気したとか思って怒ってんじゃねぇぞぉー?」

 けれど遅れた銀色の、ハキハキとした声の方が、とおる。

「思ってねーが、アッシュグレイに聞かせンのはちょっとまじぃワケアリだったからよぉー、抱き合って寝てるオマエのことも起こせなかったんだぁー」

「……」

 抱き合って、という、単語に男は表情を強張らせた。そう形容されても否定できない状況だったのは間違いないが、言葉にされてしまうと生々しい。

「まー、とにかく、灯油買ってきてくれぇ。日が暮れちまうと木に衝突とかしそーで危ねぇから。オレぁその間、水、なんとかしとくからよぉー」

 飲料水は20リットル入りのボトルが何本もあって問題ないが、生活用水は雪を溶かすか水路を掘り出すかして、確保しなければならない。

「……アッシュグレイに聞かせられない理由ってのは?」

「後でな。大したことじゃねーよー。いや、けっこー大事かもしんねーけど、まー、笑い話だぁー」

 家の中が寒いんだ早く買って来てくれよと催促されて男はスノーモービルのエンジンを掛けた。

「事故るなよーっ!」

 山に雪崩を起こしそうな大声に送られて麓の村へと斜面を降りていく男は、内心でほっと、していないでもない。

 暗い顔をしていなくて良かった。

 そうして『アレ』を責められなくて、よかった。

 本当に心から安堵している自分を自覚する。こんなにキモチを情婦に引き摺られるのはどうかと我ながら思うほど。

 春のはじめの圧雪を蹴りたてながら、男は本当に上機嫌だった。

 

 

 

 

 日暮れ前に戻ってきた男は荷物用の橇を引いていた。

 橇には灯油のポリタンクが三つ、それに酒と生鮮食料品がダンボールに煎れられて積み込まれている。

「おぉーっ!すげぇ!ありがとよぉーっ!」

 銀色の鮫は屋外に出ていた。スコップ片手に建物の前の広場を雪かきしていたらしい。前庭はちょっとした広場になっていて、山からの湧き水が貯水槽に流れ込むようになっている。

雪は深いが、気温は既に流れる水が凍りつくほどではなく、雪の下から貯水槽を掘り出し、渓谷に設置したバルブを開くと、水が流れ込んだ。

「中に運ぶぞ」

「おー、頼まぁー!」

 運動している銀色は汗をかいている。スキーウェアの上着は木の枝に掛けられ、顔色に血の気がさして血色がいい。男が橇から灯油のポリタンクと食料を下ろす。扉を開けると部屋の中はうす暗く、寒い。

「すー、すー」

「ぐー、ぐー」

 そんな中から寝息が聞こえてきて男は眉を寄せた。リビングと食堂を兼ねる一階の広間には、夏にレヴィが眠ったマットレスが置かれ、ふかふかのダウンのコートがその上に掛けられている。ダウンには盛り上がりが二つあって、下では銀色の鮫が『連れて逃げた』子供が眠っているらしい。

 寒くないのかと男は思った。ダウンのコートに触れるとソレは意外なほど暖かい。

「張るホッカイロって知ってっかぁー?」

 男に続いて部屋に入ってきた銀色の鮫は、にこにこしながら男に尋ねる。ご機嫌の理由は、男が荷物を床に置き、子供たちの眠る場所に座り込んでコートに手を当てていたから。

「ニッポンってすげぇよなぁー。コートの内側に貼り付けられてよぉ、十時間ぐれーポカポカ、あったけーんだぜぇー。ヨーロッパじゃ見かけねぇけど、ロシアとアメリカじゃ大人気だってよぉー。空港の薬局で山ほど買い込んだんだぁー」

 冬の屋外だけでなく、冷え込む寒い夜の毛布に貼り付ければ一晩、ほかほかと幸福に暖めてくれる。だから夜も心配するなよと、言いながら銀色の鮫はランプとストーブに灯油を給油してマッチを擦る。

「汗を拭け」

「おぉ」

 男の指示に素直に従い、銀色はバスから持ってきたタオルで額の汗を拭う。背後で纏めていた長い髪を、といてばさりと肩に流す仕草に男は今更ドキリとした。

「オレに言いたいことは?」

「別にぃ」

「うそをつくな」

「ついてねーよ。なぁに気にしてんだぁ、ボスさんはよぉー」

 銀色はケタケタと笑う。男は笑わず、銀色をじっと眺めている。

「食い物、なに買って来てくれたんだぁー?」

 腹が減っているらしい銀色は段ボールはこの中の紙袋を漁る。中にはそのまま食べられる鴨のパストラミの薄切り、シーフードの揚げ物、サラミと野菜を挟んだバニーニ、ジャガイモとルッコラとソーセージのサラダといった惣菜がパックに入れられ、詰め込まれている。

「麓の村でかぁ?よくこんなの買えたなぁー?」

「……肉屋でな」

 男は短く答える。どんな田舎街でもパン屋と肉屋は必ずあり、肉屋は精肉の他に惣菜屋を兼ねていることが多いのを男は知っていた。幼児期を下町で過ごした経験から。

 生母は娼婦で、料理というものを殆どしなかった。幼児期の男は朝から硬貨を持たされて朝食の甘いクロワッサンをパン屋に買いに行った。

ボンゴレ御曹司としてではなく『本来の』生まれ育ちでいえば自分の方がずっと庶民の一般人だと、男は時々、思うことがある。言わないでおくのは自分を『お坊ちゃん』として扱いたがる銀色の情婦のため。

「寒かっただろ。ストーブの前に来いよ。いま、湯も沸かしてやっからよ……」

 部屋の中央に置かれただるまストーブの、耐熱ガラスの内側でオレンジの焔が燃える。赤外線を発するストーブは暖かく、天板にヤカンを置く銀色の背後に男は立ち、そっと抱きしめた。

「あはは……、なんだぁ、どしたぁー?」

 男の、珍しく殊勝な態度に銀色の鮫は笑う。

「なんにも怒ってねーし誤解もしてねーよ。ってーか、オマエもアッシュグレイも服着たマンマだったしなぁー。ナンかあった気配があったらぁ、ヤマモトにバレる前にオマエのことも、連れて逃げてるぜぇー」

 はきはきと喋る銀色は凛々しくて優しい。自分をぎゅっとする男の腕に手を添えて、安心させるように撫でる。

「黙って出てった、ワケ話してなかったなぁー。オマエにそっくりでメンクイなガキが十年後から来やがってなぁー」

「……ガキが?」

 男は視線をマットレスに向ける。コートの下に推定される体積は、十年後の少年が寝ている大きさではない。

「オマエが来たらさっさと十年後に帰りやがった。怒られるって思ったのかもなぁー。そりゃもう、すっげぇ要領がいいヤツだったぜぇー。まー、悪いよりゃ安心だけどよぉー」

 最後の言葉には『親』らしい愛情が篭っている。

「そのガキが、オヤジによく似て、あのアッシュグレイが好きらしくってよぉー」

「オヤジって言うな」

「山本の寝込み襲いに、行きやがった」

「……あ?」

 疑問の声を上げた男に、プッと銀色が噴出す。

「その寝込みじゃねぇよ」

 ゲラゲラと、また上機嫌に笑う。

「物陰に隠れて襲い掛かったらしーけどなぁ、もちろん負けて、肩外されて逃げ帰りやがったんだぁー」

「……そうか」

 アレを相手に、逃げて帰れただけでも大したものだと、男は心の中で考えた。十年後ならばまだほんの少年の筈なのに。

「いくら十年後でも、色恋沙汰が動機でも、ウチのガキがサワダツナヨシの守護者を襲撃したとかっては、連中に知られたらマジイだろー?だからよぉ、ヤマモトが騒ぐ前に、さっさとガキ、連れて逃げたんだぁー」

「……そうか」

 聞けば確かに、この銀色が失踪を選んだのも当然の事態。襲撃者が師匠でないことは、刃を合わせたのならばアレは分かっているだろう。子供を連れて『家出』したことで犯人との関わりを疑われていたとしても、はっきりとした証拠がなければ糾弾は出来ない。

「心配させて悪かったなぁー。納得したかぁー?」

「まぁまぁだ」

 この銀色が出て行った、理由は分かった。

「何がまぁまぁだぁー、まだナンかあんのかよぉー?」

「要求を言え」

「あぁー?何の要求だぁー?」

「なんでもいい」

「はぁー?ワケ分かんねーぞぉー?」

「いいから、言え」

「だーからぁ、なぁに言えってんだぁー?」

「何か要求しろ。何でもいい」

「あぁー?」

 男が何を言っているのか銀色し理解できずに困った顔。けれど、ぎゅっと抱きしめられているうちに、ふっと叡智が、その形のいい額の下に宿った。

「おまぇえ、もーしかしてー」

「……なんだ」

「オレがまだ、オマエのこと怒ってるとか思ってんのかぁー?」

 疑い深いヤツだなぁオイ、と、不満を表明されて男は銀色のオンナを抱きしめる腕の力を強くした。

「テメェじゃねぇ。オレの落とし前だ」

 二日ぶりに抱きしめるオンナの手ごたえを味わいながら、そう、告げる。怒っているから詫びているのではない。悪いことをしたという反省を表明しているだけ。

「んだよ、そんなに、甘やかすなぁー」

「うるせぇ。オレの好きなようにさせろ」

「あー、もちろんこの世は、全部オマエの思い通りだぜぇー」

 と、銀色の鮫は笑う。

 そんなことはなかった。

 不本意な挫折と従属ばかりを強いられてきた。自我も自尊心も何度も地に叩きつけられてザクザク。酷い裏切りにばかり出会ってきた。ろくでもないことばかり起こる人生だ。

 だけど、でも。

 かすかな救いがあるとしたら今、腕に抱いているオンナがソレ。このオンナの声で、オマエが世界の中心だと言われるとそんな気になってしまう。

 何度も潰されながら、それでも生きてこれたのはコレが居たからだと、最近なんとなく男は分かってきた。失いかけた恐怖は尋常ではなくて、それは何故かというと自我の崩壊に繋がるからだと、聡明に理解した。

「のぞみを、言え」

 男は繰り返す。願いを叶えてやりたいのではない。叶えてやることで自分が安心したいのだ。悪いことをした埋め合わせをして、失うかもしれないという不安から逃れたい。

 この銀色のオンナはあのアッシュグレイの美形をずいぶん気にしていた。あれにだけは手を出さないでくれと願われていたのに、嫉妬されるのが珍しくて面白くて構ってしまい、余計なストレスをかけた。

 その上、客間のソファで、一緒に眠ってしまった。冗談では済まない真似だった、やり過ぎた、と、男は反省している。気にしていないと言われて男は安堵したが気持ちが晴れないままなのは自責の念が消えないから。悪いことをしたと自分で思っている、から。

「のぞみ、かぁー。そーだなぁー、実はオマエとアッシュグレイがネンネしてんの見て、ちょっと、羨ましいなっては、思わないでもなかったなぁー」

「……そうか」

 抱きしめて、ゆっくりとなでてやって、ようやく表面を融かして本心を喋りだした銀色に、男はかえって安堵する。

「オマエがアッシュグレイのことをよォ、ただ気に入って可愛がってるだけなのは見てて、オレだって分かるんだぁー。ヤル気とかはなくって、構ってんのが、面白いんだろぉ?」

「そうだ」

 と、男は率直に事実を認めた。あの美形は魅力的だがセックスしたいと思っているのではない。セックスのドコがいいのか分からない教えてくれと、真顔で言うような青臭いガキはもう、自分の守備範囲ではない。

「いいよなぁ、アイツ。オマエにあんな、可愛がられてよぉ」

「てめぇほどじゃねぇ」

「オレと比べてンじゃねえよ」