優しい雨・8
軍用空港の片隅に小型ジェットは到着した。そこから降り立った人影は姿がいい。逆光に黒々と浮かぶシルエットは長身で頭が小さく手足が長くて、そして身動きにしなやかさとキレがある。荷物は持たない。両手はいつでも自由にしておく主義。懐に入るものだけが自分の持ち物と決めている。
現実はそうそう甘くない中、格好つけのスタイルを貫き通せるのは本人に実力があるからだ。彼の着替えや整髪料、身の回りの品が入った小さなボストンバッグは機内に同行していた世話役から出迎えのお供へ渡されて本人が触れなくても本人の部屋へ届く。
「よぉ。豪勢なお迎えだなぁ」
銀色の髪を揺らしながら美形は仲間に声をかけた。駐機場の近くに停まっている車は五台。ヴァリアーの幹部二人が動けばまあこんなものだ。うち一台はザンザス専用のマセラティ。迎えを差し向けた人物の、何が何でも真っ直ぐつれて戻って来いという意図が見える。
スクアーロ、と、レヴィが歩み寄り腕をとるより先に、姐御と称されるルッスーリアが帰着した美形を呼ぶ。呼ばれた銀髪は今にも笑いかけそうな上機嫌で目を細め見返す。その表情でルッスーリアには分かった。自ら車のドアを開け、そこへ招く。反対側のドアからレヴィが乗った。
「同乗させてもらうわよ」
「大袈裟じゃねぇかぁ?」
「ボスの命令よ」
形式は辛うじて連行ではなく出迎え。けれど後部座席の真ん中に押し込められ左右から警戒される待遇は罪人の護送に近い。好きにしろ、と仲間に挟まれながらスクアーロは、今度は我慢できずに笑った。
「意地悪ね、あなた」
その上機嫌さに何もかもを察した姐御が非難がましい声を出す。
「夕べから、ボスはお酒も飲まないで」
「肝休日かよ。アイツも歳だなぁ」
「部屋は一晩中あかりがついていて、眠ってないかもしれないわ」
「たまには仕事もさせねぇと頭が錆びるぜ」
「どうしてこんなことをするの」
姐御の真っ直ぐな問いかけに、
「生ぬるいのは、好きじゃねぇからだ」
何もかもを切り落としてきた美形はあっさりと答える。
「あんなにボス、スクちゃんに優しくしてくれたのに」
ボスにとってこの美形は首筋の細い青臭い時期から、怒鳴りあいどつきあながらも絡みあって生きてきた長年の情人。それが何かの理由で寝室に行きたがらなくなった様子を幹部連中は知っている。いざこざの気配が数度あって、男がとりあえず妥協して手を引いたことも。
美形の好きなようにさせている今の状態には優しさと呼ばれる価値がある。殴る蹴る凄むというコミュニケーションしか知らないあの男の場合は。仕事や生活上で必要な接触、会話や物のやり取りの都度、『あの』ボスがこの美形の様子をちらりと見るのは存在への飢えだ。それをルッスーリアは、可愛いけれど可哀想だとも思っていた。
「面倒くせぇんだよ。正直、うぜぇ」
ルッーリアは横を向いた。間近で見ると本当にキレイな顔だ。細面を彩る銀髪が更に商品価値を高めている。あの気まぐれな男に十何年も愛されてきたのも当然という美貌だった。とくに最近、肌の艶が恐ろしいほど冴えて手がつけられない。目尻の翳は明らかに誘惑を仕掛けている。拒んでいる筈の男を。
「壁に投げつけられたいの?」
「あっさりヤって貰いたくはあるなぁ」
「スクちゃんが何をそんなに怖がっているのか分からないわ」
視線を前へ戻す姐御は少し寂しそうに言った。
「何処から見てもあなたのものよ。大事にしてあげればいいのに」
ルッスーリアの嘆きには笑うだけで答えなかった美形は。
「同感だ」
反対側から呟かれたレヴィの言葉には少しだけ表情を動かした。
「何が欲しいの。ボスをどうしたいの?」
「……」
姐御の言葉を考える風情で美形は長い足を組む。組むときにつま先がレヴィの膝に当たったが文句は言われなかった。ボスがこの美形と一緒に九代目に与えられた私邸から出て以来、レヴィの態度は明らかに変わった。張り合う意地は欠片も見せず、常に背後に半歩控えている。その仕えかたはマフィアの世界ではボスに準じる相手、主人の妻に対する部下の行儀。
養父である九代目が選んだ正妻を棄てて私邸を出るということはつまり、そういう風に、周囲には認識された。やっぱそっちを選んだか、と、皆がそう思った。ボスに配されたのもたいそう美しい女だったが、十分張り合って有り余る麗質と長年かけて馴染んだ振る舞いは同盟ファミリーの令嬢という出自のよさを補って余った。
もっとも、スペルピ・スクアーロ自身、イタリア北部を本拠地とするボンゴレ系列の中堅ファミリーもと幹部を父親に持って生まれた。父親は現役を引退したが姉兄は父親の補佐を経て現在はそれなりの地位に居る。子供の頃から素晴らしく腕のたつ末っ子を、マフィアの師弟が多く集まる特殊な意味だが『名門』の学校へ行かせてやれた程度には裕福。その名門で才能を発揮してヴァリアーにスカウトされ実質的な2という現在の立場はある種、エリートコースなのだ。
足を組み、自分の腿の上で手を組んで美形はしばらく、何かを考えていた。そして。
「おもいがけず」
「なぁに?」
「長生き、したなぁ」
ぽつりと、そんなことを言い出す。
「めでたいことじゃない」
ルッスーリアは笑わない。マフィアの世界は世間とは違う。若年死亡率が高い。組織の中で最下層の若いチンピラは消耗品のように危ない仕事をさせられて命を落とすか、心と体に消えない傷を負い使い物にならなくなって辞めていく。二十歳を過ぎる頃には選別が済んで、その時点で素質を認められれば偉い男たちの見習いや秘書的な役割を与えられ幹部候補としてのし上がっていく。
そり時期も死亡率は相当に高い。身体を張って上司やボスを庇わなければならないのに、誰からも庇ってもらえない辛い期間だ。やがて組織から縄張りを与えられて自分が部下を養うようになればなんとか一人前、少しは組織内ではばもきくようになってくるが。
そこへたどり着く確率は孵化した海亀がおがて産卵に戻ってくる確率と同じくらい低い。
「生き残れたのは強かったからよ。三十になれたら五十まで生きられるかもしれないわ
「ジジィになるのが楽しいのかよてめぇ。カマのくせに」
「愉しみよ。来年はもっとキレイになれるから」
見事なほど堂々とルッスーリアは言った。それは嘘ではない。銀髪の美形の目には奇矯としか映らない髪の色も服の色も、見るものが見れば感嘆に値するらしく、ファッション業界の若いデザイナーたちに潤んだ目で見つめられているのを美形は何度も目撃している。
それはそれで、いい事だ。マフィアというのは格好がよくなければならない。一種独特のスタイルに少年少女たちは憬れ引き寄せられて、そして餌食になる。
「こんな筈じゃなかった」
「どんな筈だったの」
「今頃は墓の下で、ぐーぐー寝てる筈だったぁ」
「歳をとるのは生きている証拠よ。おめでたい事なのに」
「てめぇはいいさ。てめぇでそう思えりゃそれで終るんだぁ」
「……ボス?」
サングラス越しの優しい目でルッスーリアが美形を痛々しく見る。
「バカなことを考えるんじゃないわ。オバカなんだから、スクちゃんは」
「うるせぇ」
「とにかくこれは、ひどい裏切りよ。ボス怒ってるわ」
「知ったことかぁ」
「ベルフェゴールはどうした?」
レヴィが口を開き、今更なことを問う。
「急病だぁ。ジャポネで入院してやがる」
「あの子らしいわ。要領のいいこと」
それきり三人は黙り込む。運転手と後部座席は透明な強化プラスチックの板で仕切られていて、中の会話は聞こえていない。小一時間も走っただろうか。そろそろ到着、という時に。
「小猫でなくなっても」
レヴィが突然、また口を開く。
「うちの猫が一番可愛かった」
「てめぇは黙ってろ」
彼なりに一生懸命に考えた慰めの言葉だったが、隣の美形に凄い目をしてドマジに睨まれて、似合わないピアスをした口を閉じる。車は広い敷地内へ入り、森を抜けて奥の建物を目指す。
ヴァリアーの本部は一度、原因不明の失火で全焼した。原因は不明だったが理由は分かっている。門外顧問の本拠地を襲撃した報復に違いなかった。十代目の地位をめぐってのボンゴレリング争奪戦の直後、ヴァリアーは謹慎を食らっていた時期。おかげで建て替えもすぐには出来ず、下っ端は他に預かってもらい幹部連中は九代目の所有する別邸に押込め同然という破目になった。
ザンザスの結婚を祝う恩赦で謹慎はようやく解かれ、そして独自の本拠地を設けることを許された。居場所を奪うというのは効果的な罰だ。天井の高い、空間的に広い、天窓の自然光が室内装飾を暗く浮かび上がらせる、寺院や聖堂を思わせるアール・デコ調の今の建物はザンザスの趣味。ヴァルリンクスの樫材の革張り椅子、男二人で抱えなければならない重さのそれでないと眉を寄せずに座らない男だ。
現代的な真鍮の家具、細く小さなスツール、華奢なデザインのフルートグラスでピーチシャンパンを飲むのが好きな正妻とは趣味の根本からしてあわない。もっとも長年の情人も主人の格好つけを全面的に受け入れている訳ではなく、ナンだってこんな椅子をと文句を言いつつ、下っ端が二人がかりで担ぎ上げる椅子を一人で背に負い、よろめきもせず運ぶ口からは毎回のように悪態がこぼれる。
恩赦と引き換えの人身御供に出されていたボスはやっとその苦難の日々を終らせ、好みの住まいに気に入りの酒とグラスとオンナを置いてホッと息をついたところ。なのに今度は引き寄せたオンナに弾かれて困っている。
「お部屋でお待ちよ。一人で行ける?」
「いけるぜぇ」
心配そうなルッスーリアに、美形は横顔で答える。
「そう深刻なツラすんなぁ。たかが情事で大騒ぎ出来んなぁ平和な証拠で、めでたいことだぜぇ」
「ファミリーの存亡に関わる大嵐よ」
「俺は、ボスが結婚された女はボスにふさわしくないと思う」
青筋立てて睨みつけられ、黙ったレヴィがまた口を開く。
「彼女はボスを愛してくれなかった。ボスが彼女から離れたがったのは当たり前だ」
「いつの時代の話してやがるてめぇ」
また睨まれたが、今度はさっきほど鋭くはなかった。
地面に足をついているのかいないのか、分からない歩調でマーモンは長い廊下をかなりの速度で歩く。
「マモちゃん、どうだった?」
ダイニングという名のたまり場へ戻ると待ち構えていたルッスーリアが心配そうに尋ねる。
「スクちゃん、命だけは助けてもらえそう?」
「依頼の内容は喋らないよ、ルッスーリアでもね」
「そう。じゃあ牛タンステーキの、タンスープトマト風味、ガーリックトースト添えはお預けね」
「ムム……」
可愛い手足でぴょんと、椅子に飛び乗ったマーモンは低く呻く。
「夢を見ているよ。どんな夢かまでは知らないけど」