来ていたのか、と、声を掛けられた雲の守護者は。
「おいしそうな匂いがしたからね」
答える。冗談だと思う。思うが、切れ長のなんとも言えない目じりの流し目とともにそう言われると、信じてしまいそうになる。
「飲むか？」
鹿ヒレのステーキにあわせて自室かせら持ってきたラムをソーダで割りライムを搾って獄寺は久々に顔を出したヒバリに差し出す。ラムを注ぐ前にグラスの底で生民との葉をスプーンで押しつぶしていて、香りとのみ口がいい。
「ありがとう。おいしい」
世間の常識からは外れているが行儀が良くないでもないヒパリは前菜の蒸し鶏と野菜のゴマ醤油和え柚子こしょう添えとともに、くーっと飲み干した。眩しいほど白い喉を晒して、実に美味そうに。ふぅ、と息を吐く様子に獄寺は思わずニコニコしてしまう。基本無愛想な獄寺を笑わせる相手は珍しい。
「なに？」
「美味そうに飲むなと思ってさ」
「おいしいからね」
そんな話をする二人を、沢田綱吉はにこにこして聞いている。食卓の主人の席に座っているがアルコールが苦手かつよく分からない未来のボンゴレ十代目は構成員たちに酒を勧めてやることが出来ず、補佐役の獄寺が代わりを勤めることが多い。ちょうど、イタリア本部のヴァリアーデハザンザスが正式な晩餐でを切り分ける役目を放棄し、そういうことが素晴らしく上手い銀色に巻かせきっているのと同じように。
「おいしい？」
そう尋ねる沢田綱吉本人こそが嬉しそうに目尻を下げ口もとを緩ませている。自分が勧めた酒でなくても、久しぶりに訪れてくれた情人の機嫌が良さそうでうきうき。
「うん」
山本が厨房で焼いた肉がまず二人分、運ばれてきて、ばら色というには濃い目のステーキにヒバリはナイフを入れた。フランス式の見た目だけのヤツではなく、刃物に準じる実用性を供えたそれは肉質の詰まった肉もすぱすぱと切れる。かなり大き目の肉塊を、とろりとしたチーズとともに口に運ぶ。
「おいしい？」
「うん」
もぐもぐ、雲雀は肉の咀嚼を続けた。柔らかくはない。ないが、筋っぽいのではなく、肉だがムチッと詰まっていて歯ごたえがあるという感じ。牛肉に比べると脂身が少なくて、だからリッチなソースで補っているのだが、脂っぽくなくてもその赤味の肉、そのものが。
「甘いね」
「枇杷と夏みかんとカボチャ、食ってた鹿だってよ」
「ふぅん」
もぐ、もぐ。健康な歯で挟むと、鹿の肉がキュッと音をたてて締まる。そこでもぐっと顎に力を入れて噛みちぎると、締まった肉からじわり、旨みが口の中に溢れてくる。
「おいしい」
世辞を使うことのないヒバリがそう言うのは、本当に美味しいのだ。
「へへっ、嬉しいのな」
厨房から山本が今度は自分と相棒の皿とともに登場。獄寺隼人は差し出される皿を手を伸ばして受け取りナイフとフォークを手に取る。全員の分が揃ってから沢田綱吉も目の前の皿に手を付けた。それは優しさ、もしくは思いやり。けれど、ステーキという料理が焼き立てを賞味するべきものであることを考えると、さっさと手をつけたヒバリを礼儀知らずとも言い切れない。
「あ、本当だ。凄く美味しいね」
「そだろー？」
沢田綱吉に褒められ山本は嬉しそうに笑う。そこまでは、まあ良かったのだが、しかし。
「ザンザスも、皿のソースまでパンで食ってくれてたんだぜ！」
嬉しさの余り獄寺のアドバイスを忘れ、言わなくていい一言をいってしまった。
「……ふぅん」
美味にひかれてぱくぱく食べ進みつつ、沢田綱吉の雰囲気がやや剣呑になる。
「ザンザスに、食べさせてあげようと思って作ったんだ？」
「あいつここのメシ、あんま食わないからなー」
「ふうーん」
沢田綱吉の声が低くなるのに山本は気づかない。獄寺とヒバリは気づいたが、知らないフリが得策と、頭のいい二人は悟って、あえてノーコメント。
「山本はザンザスを好きだね」
「あ、え、あ、うん、まぁでも、いやその」
ようやく相手の不機嫌に気づいた山本の横顔に獄寺がちらりと目をあてる。冷や汗を今さら滲ませたところでもう手遅れ。バカだこいつと獄寺は改めて思った。せっかくアドバイスしてやったのにあっさり忘れやがって。オレは知らねーぞ言うことは言ったからなと、むしゃむしゃ、形のいい口を食事の為に使う。
「電話かけあう仲だしさ。もしかしてお付き合いしてる？」
「はは、ツナ、それ面白いジョーダンだな。はははは」
微妙な雰囲気のまま食事は進んでいく。鹿ステーキの後でパスタを食べるのはイタリア料理のコースとしては間違っているけれど、ここはイタリアではないという免罪符のもと、日本人の若者たちは炭水化物を最後にとりたがる。パスタはあっさり、キノコと鮭とかいわれの柚子醤油レモン風味。
鮭は養殖のトラウトサーモンと称されるニジマスではなく、冷凍の輸入ものでもなく、トキシラズと呼ばれる初夏に獲れる今年の回遊魚。一年早く帰って来るケイジに比べると何分の一かの価格だが、固く丸々とした姿の美味い魚。パスタに使われなかった分は明日、塩焼きされて朝食に並ぶだろう。
「ザンザスのは、オレがムニエルにすっか。パン粉つけてミラノ風の方がいっかな？」
和食のシェフだが、イタリア料理のうちでもパスタは和食と相性がよくて、獄寺さえ文句のない味付けに仕上がっている。ばくばくみなんで山盛りのパスタを食べていたら、山本がまた考えなしにそんなことを言った。
ボスの来客の滞在が快適であるよう気遣う行為自体は、組織の幹部として賞賛されるべきだったが。
「ほんとーに、山本はザンザスを好きだねー」
食べるのに夢中で忘れていた嫉妬を、沢田綱吉が思い出す。
「キミもアイツを好きだよね」
と。
山本がいい訳をするより前、間髪いれずというタイミングでヒバリが唇をナプキンで拭いながら言った。鹿ヒレ肉のステーキの礼に助け舟を出したのか、ザンザスに執着する沢田綱吉が本気で面白くなかったのか、それは分からない。
「え、そんなことないよ、ナイナイ」
ヒバリの一言で、冷や汗を浮かべながらパクパク、酸欠の魚のように必死に口を動かすのは山本ではなく沢田綱吉の役目になる。山本はほっとし、お気の毒にと主人のことを思った。けれどノーコメント。ここで自分が主人に助け舟を出すと女王様のご機嫌が悪くなってかえって為にならないことを、よく承知している頭のいい腹心は。
「デザート、切りましょうか」
まったく別のことを言う。ヒバリの興味がそちらへそれ、未来のボンゴレ十代目はシャツの袖でそっと額の冷や汗を拭う。
冷蔵庫から出てきたプティングの型は大きい。コンビニやケーキ屋で売っている一人分ずつのものではなく食卓で切り分ける為のサイズ。ボンゴレ日本支部には甘党が揃っているのでプリン型も本格的な製菓用、洗面器くらいというのが大げさではないほど。
「なに、それ？」
赤味の強い紫色の物体にヒバリが疑問の声を上げる。あれ、初めて出すっけと獄寺はテーブルナイフをナプキンで包み、掌に包み暖めながら答えた。柔らかなプティングを上手に切れるように。
「サマープティング。イギリスじゃ台形の菓子は全部ブティングってーだろ？」
ヒバリ相手だと獄寺の薀蓄も言い方が変わる。それは並盛財団の関係で海外渡航が多いからか、単に山本をナメきっているためか。
「ああ、そうなの。プリン頼んだのに煮こごりが出てきて驚いたことあったけど、そういう訳なんだ。ふぅん」
「テリーヌかよ。暴れたか？」
「いや。仕方がないから酒をお代わりした」
「はは、らしーな。なんだ、アレだ、パイ生地で包めば甘くても辛くてもパイだろ？あんなカンジなんだ」
「で、それは？」
「ベリー」
「色を見ればそれは分かるよ」
「プリン型の底に薄切りの食パン耳切って敷いて、ベリージャムをベリージュースで薄めたの吸い込ませて、ベリーのシロップ煮を入れて、パン重ねて、また染み込ませて、二重にしてある」
容器から膨らむほどぎゅうっと詰め込んで、重石をして味を馴染ませている。
「パン再生料理には違いないんだ」
「そーゆーこった」
牛乳と卵で作るプリンがもともとはパン屑を固めて有効利用するためのものだったと知っている二人はそんな会話をした。聞いている山本と沢田綱吉には分からなかったけれど、そういうことはよくあるので黙っている。基礎知識が違いすぎるからこの頭がいい二人が何を話しているか時々分からない。
そこまでは一緒。けれど違うこともある。沢田綱吉はヒバリが獄寺と会話しているのを見るのが好き。ヒバリの機嫌がよくなるから。長い話をする、というのは馴れ合うことを嫌うヒバリには珍しいことなのだ。少年のころから色々と絡むことの多かった獄寺をヒバリは、友人という訳ではないがお気に入りくらいには位置つづけている。
山本の気分はいつも複雑。もちろん獄寺が楽しそうなのは嬉しい。嬉しいけれど自分が置いてきぼりにされたようで、一人になった気持ちになってしまって悲しくもある。二人の違いは食事の後の夜の過ごし方の違いだ。ヒバリはいつも沢田綱吉の部屋に泊まっていく。獄寺は歯を磨いて自分の部屋へ行ってしまう。
「ま、初体験ならちょっと食べてみるか、ヒバリ様？」
久しぶりに姿を見せた雲の守護者は賓客扱いだった。獄寺がテーブルナイフで切り分けた一口大、２センチほどの幅を皿にとる。ヒバリはそれをフォークで掬いぱくりと口に入れる。冷蔵庫で冷やし固められた『プティング』は、果樹のよく沁みたパン生地と甘く煮られた果肉とが馴染んで圧縮され形だけでなく、固めのプリンのような舌触りになっていた。
「……」
口の中にいれたか入れないかのタイミングでヒバリはお代わりの皿をずいっと差し出す。
「おう。アイスと一緒に食うともっとうめーと思うぜ」
「……」
じろりとヒバリが獄寺を見遣る。それなら先にアイスも出しておいてよと責めている。まぁまぁと表情で宥め、冷蔵庫から取り出してきたバニラクッキーを柄の長いスプーンで一掬い。それをヒバリの、肉付きが薄く形のいい口元へ差し出した。
「……」
ヒバリが繭を寄せる。しかめ顔をすると普段はすっと通った鼻の頭にかすかなシワが寄る。少年時代はそのシワが整いすぎた顔立ちの唯一の愛嬌だった。大人になってなくなっていしまって、美貌は神々しいというレベルへ発展したけれど、ちょっと崩れたそのチャームポイントを久しぶりに見ることが出来た沢田綱吉が喜ぶ。
「……」
美形は食欲に負けた。けっこうあっけない勝敗だった。唇が開く。毒舌の上に、ちょこんと乗ったベリーのプティングはほぼ原型をとどめている。その横に獄寺が掬ったアイスクリームを添えた。その手つきは、なかなか、ただことではない
「……」
唇を閉じて味わいながら、持ったままの皿でヒバリは獄寺の腹をつつく。
「おーよ。たくさん食うか？」
返事は分かっている。ヒバリは口を開かないままこれくらい、と、指先でプリンの幅を指示する。全体のほぼ半量に等しい。
「腹こわすなよー」
母親のようなことを言いながら獄寺は指示どおり切り分け、むナイフの刃で上手に掬って皿に移した。濃い赤紫色の隣にオフホワイトのアイスクリームも置いた。アイスクリームが少なくて不満顔、鼻の頭の皺を深くした美形に。
「溶けちまうだろ。後で、またよそってやっからよ」
宥めるように告げる獄寺の、こちらも一見冷たく整った横顔から、かすかに母性の気配が漂う。その姉によく似た、大地の母のような。
サマープティングはザンザスに届けられた分も、きれいに食べつくされて、皿だけが戻ってきた。