AM PM 11:00

 

 

よく晴れた日曜日だった。

 明るさに誘われて目覚めると、昨夜、確かに閉めていた筈のカーテンが開いていた。柔らかく吹き込む風を受けてレースの裾が揺れている。

 二重カーテンの内側のレースのそれを、涼介は普段、殆ど使わない。高級住宅地の一角、広い庭を持つ一戸建ての二階角部屋では昼間、レースで人目を避ける必要がなかったから。彼にとってカーテンとは、必ずしも陽の運行通りではない生活の、睡眠のリズムにあわせて室内の明度をコントロール、するためだけのもの。

 そのために使うのは主に表地の、遮光カーテンばかりで。

 二枚目にレースがかかっていることすら、何年も忘れていた。

 だから。

 白いレースがゆらゆら揺れる、のを見て一瞬、ここは何処だろうかと。

 真面目に、真剣にそう考えた。

 一瞬だけ、だったが。

 曖昧な意識が完全に覚醒すれば室内を見回すまでもなく、ここが自分の部屋ということは分かる。が、同時に次なる問題も現れる。つまり、誰がどうやっていつ、何の目的でこの部屋の窓をあけレースのカーテンだけを引いて行ったのか。最初のギモンの回答だけは明々白々だ。この家に居て、この部屋に自由に出入、できるのは世界中に彼のほかには、ただ一人しか居ない。

 ベッドから起き上がる。気分は、とてもよかった。いつも以上にハードだった一週間を終え疲れてベッドに倒れこんだ昨夜が嘘のようだ。休息にも質があるとしたら、最上のそれを味わい尽くした。そんな感じ。

 楽な部屋着に着替えて階下へ降りていく。案の定、弟がキッチンで何かしていた。起きてほしくて、でも起こせなくって、窓を開けていったのだろうって事は分かっていた。足音をききつけて嬉しそうに振り向く。

「おはよ、アニキ」

 全開の笑顔が可愛くて。

 微笑む。とても、いとしくて。

「メシ、食うだろ?もーちょっとで出来るぜ」

 手元にはツナ缶や卵、ソーセージが並んでいる。あぁ、と頷いてリビングで新聞を手に取ると、すぐに飲み物が出てきた。それを見て、少し首を傾げる。彼の好きなリンゴのジュースではなかった。リンゴはリンゴでも、アップル・サイダー。炭酸入りの、ワインに近い、酒。

「疲れとれっから」

 言われて頷き、素直に口をつける。両親ともに酒豪で、酒には強い遺伝子を持って生まれてきたが、そうスキというわけでもないまま、涼介はあまり酒類を嗜まない。時間を取られるのがイヤで飲み会に参加しないこともアルコールに馴染まない原因のひとつだ。けれど、時々、弟と、休日の真昼、ほんの少しの酒を傾けるのは、好きだ。

 何処かが、ほどけていく気がする。

 同じ酒でも夜に飲む時は、底の安息に沈んでいく感覚が、あるのだけれど。

 天気のいい休日、晴れた空を眺めながら明るいリビングで。冷たくて硬いのに、どこか優しい、懐かしい感じのガラスの瓶にちょくせつ、唇をつけて。

 かすかに泡立つ黄金色の雫を、飲み干す。

 弟に、ソファーごしに懐かれながら。

 一気に飲み干した瓶を取り上げられて、キスを交わす。

 トースターで焼くだけの、ラザニアが出来上がったと電子音が、知らせるまで、ずっとキスを、していた。

 

 

 休日の午後。

 史浩は、高橋家を訪れる。

 礼儀正しい史浩は、食事の時間に他人の家を訪れたりはしない。ただしここの家だけは例外だ。食事中でも構うことはないし、食事前なら、自分が家人の分まで作らされる、だけ。

 食後ならコーヒーを淹れさせられる。

 そんな付き合いだ。もう、相手の家の生活パターンに慣れている。

しかし、なれないこともある。それは。

「よぅ、史浩」

 インターホンで来訪を知らせると同時に、きっちり一分、開く玄関のロック。その間に門をくぐり玄関の内側へたどりつき、靴を脱いで揃えて片寄せて。広いホールを通って長い廊下を越えて、庭に面したリビングで。

 ソファーに座る、啓介と。

 その啓介の、膝枕で眠る涼介の姿を見て。

 これには、なれない。何度、見ても。

「……なに、しているんだ?」

 衝撃を和らげるために尋ねる。一目瞭然、ではあったが。

 膝枕する、弟。

 弟の膝に頭を預けて、寄り添う通り越して埋もれるように、ソファーに長い手足を伸ばしている、兄。

 高橋家では、よくある光景だ。

 普通の兄弟では、多分、一生、一度もないだろうが。

「あぁ、あと10分くらいで、起きるぜ」

 本を読んでいたんだけど、うとうとしたくーなったから30分くらい仮眠すると、言って涼介は眠ったのだという。

「……そうか」

 史浩は、それだけ答えてキッチンへ向かった。

 今更、何を言う気力も、なかった。

 

 啓介が予告した時間通りに、涼介は目覚め、史浩からコーヒーを受け取り口をつける。

 そう、しながら目で史浩に、用件を促す。

「藤原の、ことだけどな。今日、レッドサンズの連中が赤城に集まるから、一度、ちゃんとしといた方がいいかと思って」

 その相談に来たのだと、言う。

「そうだな」

 涼介は頷き殻のカップをテーブルに置いた。

「楔を一本、打ち込んでおくか」

「ナンの話?」

 不思議そうな啓介に、史浩が、

「不満がちょっと、膨らんでいるんだ」

 親切に説明する。他人に警戒心を抱かせない温和な、丸っちい外見と裏腹に雰囲気を察することがとても上手くて頭と口のうまい、男が。

「お前も涼介も最近、Dにかかりきりだろ。選ばれなかった連中はぐれかかってる」

「だからって藤原が、ナンで関係、あんだよ?」

「文句は、つけやすい場所に集まるからな」

 そこまで言われれば啓介もバカではない。ピン、ときた。

「煽ってる奴が、居んのか」

「不平不満、ってのは不思議な感情だ。一番、他人からの干渉を受けやすい」

 言われなければ気づかないような些細な、不満、ともいえないような心の襞に落ちた種子。それは嫉妬の種だったり寂しさだったりするのだが、煽る言葉を与えられると急激に成長する、感情。

「アニキ……、レッドサンズ、潰すつもりかよ……?」

 不安そうに啓介が尋ねた。まさかと、涼介は、微笑む。

「そんな必要は、ないさ」

 そう、そんな必要はない。トップとサブと、主要なメンバーが抜けてしまったといっても、別ユニットに移ったというだけの話で、レッドサンズでなくなった訳ではないのだから。

「悪貨は良貨を駆逐する、からな」

 史浩が、からのカップに新しいコーヒーを満たしてやりながら、笑った。

「木箱の中の一個のために、箱ごと棄てることはない。勿体無い」

 いつでも。

 非難や、文句を、言うのはとても、簡単。

 周囲の共感が得やすい言葉は、言ってるうちに集団心理に乗って過激になってくる。非難の対象が涼介でも啓介でも自分でもなく、犠牲の羊としての藤原に、向いているなら、尚更。

「ンなに羨ましーんなら、腕、磨いてこっちに、来りゃいいじゃねぇかよ」

 理屈ではなく直感で啓介は、コトの本質を見通してぼやいた。

「誰がどー見たって、うちの誰より藤原が早いじゃんか。ケンタなんかは言ってたぜ。実力あっから、しょーがねー、って」

 啓介の言葉に史浩は目を細める。ケンタは啓介のシンパで直情径行で、過激で行動力があって、無茶な真似を時々する。藤原拓海に、妙義で喧嘩を売ったこともある。けれどもケンタ場合は反感も挑戦心も真っ直ぐで、あんな風なのは、かえって希少、なのだ。

 大抵は陰湿にくねる。

 自分の身を庇いながら、ずるく。

「文句があんなら、走りで勝ってみろってんだよ」

 ぷんぷん怒りながら、コーヒーを飲み干す啓介も、まっすぐで、とても気持ちがいい。

 史浩は、思わず啓介の頭をなでたくなった。

 したたかに強靭なまっすぐさが、とても可愛くて。

 しなかったけど。

 先に涼介が、そうしたから。

 

 

 

 当日、深夜、赤城にて。

「Dのドライバーの人選に、不満があるんだろ?」

 問題の不平屋の、前に啓介が立った。その瞬間に、不平屋は孤立した。共感していた筈の仲間たちは全員が目をそらす。その瞬間に、レッドサンズに漂い始めていた不穏な雰囲気は、気配の欠片もなく霧散した。

「勝負してやっから、クルマ、持って来て並べろ」

 顎を上げてきつい目を細めて、啓介が指示する。不平屋はそれでも、いや俺が言ってたのは啓介さんじゃなく86のことで、などと言い訳を口走ったが、

「同じこった。さっさと、並べろ」

 言い捨てて啓介は先にスタートラインに置いたFDに乗り込む。不平屋は救いを求めて史浩を見たが、やれよと史浩は穏やかに微笑みうなずくだけ。涼介に至っては、FCにもたれたまま、まるで部外者のようにギャラリーを決め込んで。

「急げッ」

 FDの窓を下げて、啓介が怒鳴った。

 がくがく震える足どりで不平屋は自身の車に向かい。

 それが、二度と赤城に現れることはなかった。