あの日あの時、君をなくした・1

 何年も一緒にやってきたスタッフの一人が辞めた次の日、やって来たオーナーは最初から不機嫌を隠していなかった。
「自分が何したのかは、わかっているでしょうね」
 きつい口調に頷く。何人もの人間に同じことを言われた。素直に聞くのはこれが初めてだった。耳を貸す気になった理由は彼女の黒髪。やわらかで素直そうな、夜色の。
 愛した人と似てる髪。
「来期がどんなに大切な時期かも。あなたにとっても、チームにとってもよ」
 F1の表彰台がかかってる。今期の最高成績は五位入賞が一度。六位と八位が一度ずつ。優勝を目指しても笑われないだけの位置へ三年がかりでようやくこぎつけ、スポンサーもついて大勝負をかける。盛り上がっていたチームの雰囲気を、俺がぶち壊した。
「その、真紀だったか美紀だったかいう女がチーフの彼女だってあなた、承知していたんでしょ」
 知っていたから、頷く。
「なのにどうして手なんか出したの。それだけならともかく、どうして棄てたの」
「飽きたから」
 俺の答えにオーナーの額に青筋が浮く。色白の肌が怒りに紅潮していくのを、俺は惚れ惚れと眺めた。象牙の艶は東洋の女だけが持つ宝物。女ばかりじゃないが。
「啓介」
 名前を呼び棄てられて嬉しくって、口元だけで笑う。彼女は怒っているんだろうが、俺は嬉しい。好きな呼ばれ方だ。
「真面目に答えて。分かっていると思うけど、わたし貴方に関する全権を持って来たのよ」
「わかってるよ」
 クビにしに来たってこと。顔を見たときから分かってた。辛そうな顔してたから。
「ごめんな。やな思いさせて」
「そう思うなら話してよ。なにがあって、どうしてあなたとチーフが揉めたのか。あなたらしくないわ、こんなの。そりゃああなたは我がままで強情で、愛想いいくせに警戒心が強くって、扱いにくい男だけど」
「うん」
「こんな行儀が悪い男じゃなかったはずよ。もてあそんで棄てて、まるで最初から不幸にしたかったみたい」
鋭いよ。その通り。
 観念して俺は事実を認める。この聡さが好きだった。初対面のときから。俺が内心では慕ってることを察して、彼女も彼には優しかった。なのに結局、俺は迷惑をかけてしまう。
「……不幸にしたかったんだ。あの女」
「なぜよ。チーフにあなた、恨みでもあったの」
「大嫌いなんだよあんな女。お育ちのいいお嬢さんで、父親は社長とか医者とかで」
「あなたの父上もそうでしょ」
「何の苦労もなしに親が薦める見合いなんかして、大して愛してもいないくせに、どうして結婚なんか出来るんだ」
 泣きはしなかったが奥歯は噛んだ。事情を知らないオーナーは暫く俺をじっと見ていたが、
「結婚するの、誰か、あなたの好きな人が」
 まっすぐに問い掛ける。
「大好きな人に嫌われてるって言ってたわね。本格的に棄てられたって訳ね。確かめたの?」
「電話したら切られた。いつもそうなんだ。もう二年ぐらい、まともに話してくれねぇよ」
「ご家族に確かめたら?」
「怖くてできない。本当だったら俺、死ぬ」
 泣き言だった。十歳近く年上とはいえ、女にそんなのを聞かせるのは情けなかった。でも情けないのが快感でもあった。知っているから。聡明できつくて頭のいい、このタイプは泣きつかれると意外なほど脆い。突き放すことが出来ない。それに何度もつけこんで、俺は好き放題してきた。
「死んじまうよ俺。日本に帰って、結納の準備とかしてあったら火ィつけて燃えてやる」
「……あたしじゃなくて本人に言いなさいよ、そんなことは」
 あきれたふりで、優しい声。彼女はもう、俺を許してる。
「本人に泣きつきなさい。あなたに泣かれて強情はれる女なんか居ないわ」
「居るんだ」
 もう何年も、まともに向き合ってくれない人。
「日本に帰ったらもう一度、直接話してみなさいよ。あなたいい男だもの。きっとなんとかなるわ」
「無理。だめ」
「だったら押し倒しちまいなさい。男でしょう、ぐだぐだ言わないの」
 さっぱりした気性の彼女は反面、すごく短気で、すぐに結論を出したがる。頭のいい人間の悪い癖。
「あなたの色事にチームを揺らされるのはごめんよ。本命をしっかり押し倒してくるか、でなけりゃ辞表を書いてくるのね」
「許してくれんの、俺を」
「今度だけよ」
 忌々しさを隠さずに、彼女は髪を掻きあげる。
「これが最後よ。二度目は絶対にないわ。分かった?」
「わかった」

 
 日本に帰っても暫くは東京でホテル暮らしだった。雑誌の対談、取材、深夜枠とはいえTV出演も何本かあった。レース雑誌が主催の晦日近くのパーティーには俺のほかにもF3000や日本GPで走ってる若手ドライバーが呼ばれてて、そこで懐かしい顔に会ったりした。
「お久しぶりです。来期から俺もF1で走れるかもしれません。よろしく」
 その話は聞いていた。悪いことじゃないと思ってた。日本人のドライバーが増えることでマスコミに注目されて、人気が出ればスポンサーもつきやすくなる。レースの世界で揉まれて俺もずいぶんすれっからしになったが、ライバルの出現を喜ぶ度量まで無くしちゃ居ないつもりだ。前にいろいろあった奴なら、尚更。
「そりゃいいや。楽しくなるぜ。チームは何処になったんだ?」
 幾つかが名乗りをあげていたはずだ。
「それでお話したいことがあるんです」
「なに。なんでも聞けよ。俺で分かることなら」
答えず藤原は会場をぐるっと見回す。レーサーの家族や恋人も招待されていたせいで、人の輪は親密にふれあい盛り上がり、にぎやかな雰囲気。
「涼介さんは来られてないんですね」
 俺は苦笑するしかなかった。俺に聞きたいことはない、というこの態度のふてぶてしさ。無愛想だが控えめで大人しい、この見た目に昔、だまされたことがあった。柔らかな顔立ちをしているくせに中身はカリッカリ。そのへんは相変わらずらしい。
「そのうちに、涼介さんに連絡させてもらいます」
「別にいいけど、なんでわざわざ俺に言うんだよ」
「一応、礼儀かなと思って」
「連絡先、知ってるのか」
「携帯と家の電話番号なら。変わってないでしょう?」
「今は実家に居ねぇよ。他所の病院に修行に出されてる」
「都立舟橋病院でしたね」
 顔色がかわるのを俺は自覚した。
 なんでこいつがそれを知っている?
「調べたんです。すぐに分かりました」
 そりゃ分かるだろう。俺も調べさせた。病院も親も友人も、俺には教えるなど口止めされてたがそれでも簡単に調べられた。こいつならもっと簡単だったろう。電話一本だったかもしれない。
「涼介さん、結婚されたんですか?」
 今度は顔色が変わる、どころではなかった。
 体中がこわばる。
「してねぇよ」
 普通に声が出せたのは奇跡だ。もしくは来期からライバルになる男に対する見栄。
「ふぅん」
 なんでもないように頷きながら藤原はそれでも頬が緩む。
「ちょっと意外。けど嬉しいな」
「ンでお前が嬉しい。関係ねぇだろが」
「俺、涼介さんのファンなんです」
 しれっとした面でぬけぬけと言いやがる。
「ずーっと前から。格好いいですから、あの人。結婚してないのはやっぱり、啓介さんが居たから?」
「お前さっきから喧嘩売ってんのかよ」
 まさか、と藤原は笑う。ここで笑えるふてぶてしさがこいつの真骨頂。
「感謝しなきゃいけないかもって思っただけですよ。それじゃ、いいお年を」
 しゃあしゃあと離れていく背中。なんなんだよと睨み付け、通りかかった給仕からきつい酒を受け取る。生意気な相手に腹が立った。けれど心の片隅で安堵する。ケツを蹴られた状況は腹立たしいが、おかげで決意が固まったことも確かだ。日本に戻って十日以上、もやもやしていた気持ちにケリがついた。
 ここから出たら抱きに行く。自分のせいで不幸にしたあの人。

 タクシーをとばして辿りついたマンション。ファミリー向けの上等な物件だというが、庭で野球が出来る家に育った身にはオモチャみたいに思える。それでも便利なことはある。鍵さえ持っていれば出入り自由なことだ。オートロックも監視カメラも、カードキーを使って正面玄関から入る人間を咎められやしない。鍵は交換されていなかった。前のマンションでしめだされた俺が真夜中にドアを叩き壊して以来、彼は小細工するのは止めていた。幾つものロックを解除してドアを開く。玄関には茶の革靴が一足。今夜が夜勤でも居残りでもないことは知っていた。日本に戻ってきて以来、彼が何処で何をしてるかちゃんとチェックしてた。
 部屋の明かりは消えている。玄関のライトだけを頼りに短い廊下を抜けリビングを通り越し、彼の寝室へ。ドアを開けると中は真っ暗だった。薄明かりでも寝付けないたちのこの人は、窓に隔光カーテンを欠かしたことがない。床に敷かれた絨毯は柔らかく、敢えて足音を抑える必要はなかった。窓辺に近づき、カーテンを開ける。十七階から見上げる月は朧で頼りない。
 気がついたのか、声もなくみじろぐ気配。ベッドの上で重なった布が擦れる音。たまらなくって早足で近づく。シーツの上に手を滑らせて毛布を暴くと、現れたのは。
「……」
 薄明かりの中、相変わらずの美貌。
 眉を寄せてるのは眩しいからじゃない。俺が厭わしいだけ。そんな顔まで手がつけられないほどきれいだ。真っ白のパジャマに手を伸ばし引き剥ぐ。抵抗はしない。抗議の声もない。ただ、きつい目線が俺を咎める。あれだけ強奪しておいてまだ足りないのかと。これ以上、何を奪っていくつもりなのか、と。
 あんたの、何もかもを。
 白い肌も柔らかな髪も、世界で一番甘くて苦い唇も。素肌も。
 心臓の上の飾りも。締まった下腹も更にその下も。すらりと伸びた形のいい脛も張り詰めた腿も、その狭間も。
 彼を裸に剥いて胸の上に跨り、俺もスーツやシャツを急いで脱ぐ。素肌で抱きしめる、この世で一番いとおしい体温。暖かく眠ってた肌には俺が冷たいんだろう。彼はふるりと身震いした。
 我慢しろよ、これくらい。
 あんたはもっと俺を冷やしてる。その綺麗な目で暖かな肌で。まともに口をきいてくれないことで。
「……結婚、すんのか」
 そっと尋ねるつもりだった。そんなこと、出来る訳がなかった。出た声は我ながら低くかすれ、威嚇と憎悪に満ちていた。
 頭上から覗き込む俺の目線を軽蔑したように見返し、答えないまま、彼はふっと目線をそらそうとする。そんなこと、させるわけがなかった。これは電話じゃない。回線をちぎって引き抜いて、それで拒むことは出来ない。させない。そばに居る時は拒ませない。抱いてる時は、逆らうことさえ許さない。
 他にはなにも出来ないから。
「答えろ」
 喉に指をかける。びくっとしたのが指先に伝わる。殺すつもりはない。殺されるとは、この人も思ってない。警戒は喉に指痕をつけられること。前に一度、したことがあった。締めては緩めて、緩めては締めて。三十分くらいそうしてると俺の指痕が真っ赤に残る。キスマークどころじゃないヤバさで。最中も苦しんでたがその後、出勤にも買い物にも行けなくて苦労したはずだ。ハイネックを着たところで誤魔化せる位置ではなく、下手すりゃ警官の職質にあっちまう。
「結婚すんのかよ。見合いしたって、聞いたぜ」
 この人の身辺の情報はマトモな経路では俺に入ってこない。家族や兄弟なら当然の知らせは俺を迂回して広がる。友人でさえ、その束ね役みたいな史浩を抑えられて、俺にはつながらない。この人と関係ない純粋な俺の友人は居るが、それは肝心のこの人と繋がってない。
 だから。
 俺はこの人のそばに見張りを置いてる。平たく言うと興信所の手先を。この人と同じ病院に勤めるある人物も、金と交換に知った情報を漏らす。F1レーサーも三年目になればそのくらいの経費はなんでもない。この人は気づいてる。でも誰なのか特定できないまま、ただ厭そうに目を伏せる。
「あんたが悪いんだ」
 俺を拒もうとするから。俺から逃げようとするから。んな真似されたら俺は生きてけない。必死になるのも当たり前だろう?あんたを縛り付けるためならなんでもする。いっそ今より不幸にも。
「もう一回だけ言うぜ。答えろ」
「しない」
 短いその一言を。
 半年ぶり、くらいに聞けた声を。
 これ以上ないほどそっけなく冷たい響きの言葉を俺は、何ヶ月も渇望してた。
 ほっと息をつく。喉から手を離す。胸の上に額を押し付けるみたいに崩れる。空気を吸い込むと、久しぶりに酸素をとりこめた気がした。
「ならいい。あんたも親父も、俺に隠れて結婚なんかしたら俺が何するかくらい分かってるよな」
 俺はなんでもするだろう。世間に恥を晒すことに、いまさら躊躇はない。レーサーとしての未来も夢もこの人にはかえられない。必要があるならなんでもする。諸美とこの人の結婚を阻むために俺との関係を両親にすっぱぬいたみたいに。相互不干渉だったが仲が悪いわけじゃなかった両親との関係は崩れた。悪い冗談だと思いたがった母親に、残酷なほど本当のことを言った。初めてこの人に殴られた。母親は寝込み、父親は衝撃を受けつつ俺を諭そうとしたが果たせなかった。
「どうやって断ったの。職場の上司の紹介じゃ、大変だったんじゃない?」
「父さんから断ってもらった。会ってもいない」
「なんて言って?変態で気狂いの弟が居るから出来ませんって?」
「そうだ」
 本当の筈がなかった。分かっていたけど胸が痛かった。でも謝らなかった。一言でも悔いたが最後、ずるずるいっちまうことは自分で分かってた。
 俺は過保護の甘ったれだ。末っ子だったし、可愛がられて育った。この人に逆らったことなんて一度もなかった。見かけによらず短気なこの人から、理不尽な叱責を受けたこともあったが、それでもぼやくくらいで、反抗はしなかった。今の俺からは信じられないが。
 大好きだったから。愛していたからだ。それは今でも変わらない。違ってしまったのはもう、この人から愛されていないということ。無理もないとは思うけど、でも。
 大事にしようって気持ちは削がれる。乱暴に身体を開いていく。久しぶりの身体はなかなかほぐれない。当たり前なのに、まるで拒まれてるみたいで、うまくいかない全ての責任を、この人に負わせたくなって、無茶な真似をする。
「……、やめ」
 強情な人が耐え切れず声を漏らすまで。
苦しげに左右に振られる顔。
「やめ、むり……」
 だろうね。無理だと思うよ、俺も。
「痛い?」
 頷く。当たり前だった。痛いようにしてんだから。
「怪我したくない?明日起きれないと困る?乱暴されたくない?」
 問いかけに一つ一つ、頷く人が可愛い。
「あんたの好きなようにしてやるよ。あんたが俺を好きなら」
するっと腕が伸びてくる。自分から俺に抱きつくこの人が、殺してやりたいくらい憎らしい。
「好きだ」
 嘘つき。
 以前は言わせるのが大変だった言葉を。
そんな風に簡単に言えるのは嘘だからだろ。俺がこんなに辛くて苦しくて、泣きながら叫ぶ言葉をあんたは嘘にしちまえる。事実から遠いほど嘘は簡単になる。あんたはもう、俺を欠片も愛してはいない。
「本当?」
「あぁ」
「俺にこうされるの嬉しい?優しくされたい?気持ちよくなりたい?」
 頷く人を抱き返す。無茶しかけてた身体をひいて、潤わせるために顔を寄せる。漏らされるため息に似た吐息。舌と指とで身体を溶かしていく。愛し合った記憶だけを頼りに。
 甘い声が漏れてくる。震えながら俺を待つ仕草は演技か、記憶の再生か。分からない。
 それでも愛してるんだよ。手放すくらいなら、いっそ心中してしまいたいくらい。
 失うくらいなら、壊してしまいたいくらい。
「……あんたは、俺に抱かせるべきじゃなかった」
 いまさら言っても仕方ないことを話してしまうのは腕の中で身じろぐこの人が可哀想だから。ガキの頃から庇って大事にしてくれた人。その人に食いつく俺は実際、どっかおかしいのだ。
「寂しくねぇ?」
愛撫しながら尋ねる。返事はない。
「ダチとも家族とも離れて一人で、こんなトコで働いてさ」
 実家を継ぐための修行、ということになってはいるが、この人はもう二年以上、高崎の家には戻ってない。諸美との縁談がこじれたことで高橋クリニックの出資者である伯父の逆鱗に触れて、あそこには顔を出せない。ダチと離れて峠と引き離されて、車を自分で運転することもめったになく、ビルが生えてるだけのこんなつまんない平地でよく、生きてけるなと俺はいつも思う。
「俺、一人で、寂しいよ」
 この人は可哀想だ。自分のせいじゃないのに。俺は自業自得だが。
「レースで勝ったり日本のテレビにインタビューされたりしても、ぜんぜん嬉しくない。誰も喜んでくれないから。チームのスタッフとかが家族とか恋人とか連れて来てんの見ると羨ましくって死にそう。大して美人でもない女を大事そうにしてさぁ。俺もレセプションにあんた連れてって見せびらかしたい」
 レーサーの中には男の恋人を連れてくる奴も居る。たかが同性愛をいまどき大騒ぎするほど世間は物知らずじゃない。最初は珍しがられてもひらきなおってりゃそのうち公認される。どうせ周囲にとっては他人事だ。いつまでも騒ぎゃしない。
「あんたも寂しいだろ?」
 返事はない。でも寂しい筈だと俺は確信した。だって、俺がこんなに寂しいんだから。
「仲良くしようぜ、寂しい者同士。……よく見ろよ。俺そんな悪い男じゃないぜ。顔も身体も稼ぎもさ。あんたのこと大事にするよ」
 愛してくれるなら。
 不意に笑い出された。
「なに?」
 反応が嬉しくて優しく尋ねてやる。たとえそれが心底あきれはてた、悪意が染み出る嘲りでも。
「返せ」
 情欲にまみれた甘い吐息と不似合いな冷たい声。
「何を?故郷?ダチ?家族?大学の人脈?将来?資産家の背景?」
 問いかけにいちいち首を横に振る。残酷な問いかけを平然と受け流す。そんなのを欲しがる人じゃないことは百も承知だった。問いながら落ち込んだのは俺だった。この人から強奪した物の数多さに。
「弟を、俺に返せ」
素っ気無い、一言がおれの心臓をえぐる。
「あなたのそいつ、死んだよ」
 あんたを真っ直ぐに慕ってただけのオトウトは。
「ずいぶん前に死んだ」
「居なくなっただけだ」
「帰ってくると思ってんの。あんたけっこう目出度いね」
「信じてる」
 断言する口調は確信に満ちて鋭い。久々、らしい、声だった。
「諦めろよ」
その方がいいと思う。
「楽になれるから」
「苦しいのは慣れてる」
 そうだろうとも。俺がずっと苦しめてきたから。
「諦めてくれよ」
 我ながら情けない声だった。
分かってやってる。この人は。自分が苦しめば俺にプレッシャーかかることを承知の上で。何もかもこの人の思うがままになるのが厭で全てを壊したのに、気がつけばまたこの人の手のひらの上。
 それが口惜しくて乱暴に扱う。耐えかねて悲鳴があがるまで。
「……、リー」
「ない」
 潤滑ゼリーどこかゴムさえ持ってない。パーティーが終わるなり財布だけ持って出てきたから。財布にゴムを入れる習慣は俺にはない。路で女を拾う趣味がないから。たまに女が誘ってくる時は向こうに用意させる。用意のない女はさっさとベッドから追い出す。
 声にはせずに腕の中で罵る気配。それでも自分のを出そうとはしない。以前そうしてひどい目にあったことがあるから。一ダース入りの箱の、封が切ってあったのを見た瞬間に理性がとんだ。熱が出るほどの怪我させた後で後悔したって追いつきゃしない。
「何時までも生娘みたいなあんたが悪いんだぜ」
 そんな訳はない。悪いのは無茶させてる俺だ。
「いい加減、慣れろよ。いくら久々だからって、もう十年も突っ込まれてるくせに」
「、たい」
「こっちだって痛てぇよ」
 怒鳴るように言って細腰を抱えあげ、目いっぱい揺らす。痛いってのは嘘じゃない。けど無茶苦茶に気持ちいい。抱いた体の中にぴっちり包まれて、こんなのが本当のセックス。泣き声が可憐に聞こえて慰めるために口付ける。苦しめただけかもしれない。
「……、や」
「中で出しゃしねぇよ」
 今夜はまだ。これから暫く放さないつもりだから。優しくしないと先に差し支える。たぶんそれを優しいとは言わないが。
「……、てる」
 喉もとに一方的に押し付ける言葉。笑われるのが怖くって正面きっては言えないその一言。
「あんただけなんだ」
 愛しているのも憎いのも。感情のほとんどはこの人に向いて、内容が時々変質する。愛しくて憎くて汚らわしくて大切な、俺の。
 俺の。
「あんた、だけだ」
 アニキ、と。
 この人のことをそう呼ばなくなって、二年が過ぎていた。