あの日あの時、君をなくした 2

 


 翌朝、俺は早くから目覚めてた。
 と、いうよりも眠れなかったのだ。久々にこの人を抱いた日はいつもこう。ただし眠ったふりはする。でないとこの人がいつまでも寝付かないから。
 下着も着せずに素肌の肢体をかき抱いたまま無理に寝せる。すべらかな肌の感触が途方もなく気持ちがいい。永遠にこうしていたいほど。
 目覚まし時計が鳴ったのは七時。腕から抜け出した人が起きた後、捲れた毛布を掛け直してくれた。
 リビングと続いてるキッチンから物音。廊下の奥の洗面所に気配が移動して、やがてドアが閉じ鍵がかかる。起きて十五分くらいだった。
 牛乳だけで朝食をすませる癖も身支度が手抜きなのも相変わらずらしい。抜け出された腕をシーツに這わせて体温を懐かしむ。それから百、数えてから起きた。 
 脱ぎ捨てた上着のポケットで携帯が鳴る。
 『今、自宅を出ました。勤務先に向かっています』 
 俺が日本に居る時は張り付かせてる興信所の探偵。居ないときにも定期的に報告は受けてる。
 「分かった。帰り、どこかへ寄るようなら連絡してくれ」 
 切るとまたすぐ鳴り出す呼び出しの音楽。
 「はい」
 『啓介、あたしよ。昨夜はどうしたの勝手に居なくなって。あなたに紹介したい人も居たのよ』
 「ごめん。緊急かつ重要な用が出来て」
 『声くらいかけていきなさいよ。……で、どうなの。うまくいった?』 
 俺の重要な用といったらそれしかないだろう、と決め付けた口調。その通りだったから何も言わなかった。
 「ただ今、ストーカー中。でも最悪の事態は回避した」 
 結婚はしないという言質をとった。
 『ほっとしたわ。うまく押し倒せること祈ってるわ』 
 優しい言葉に礼を言って電話を切る。
 聡くて冴えてて気性のキツイ人間は好きだ。でも彼女のことを,やっぱ女だなと思うのはこんな時。いい歳した男がそんな、綺麗な恋をするもんか。雄の執着は粘膜の快感を伴う。寝たこともない相手に無闇に盛り上がるのは女とチェリーだけ。童貞は、生物的には女の範疇に入る。 
 俺は愛しい人を十年も前に押し倒してる。 
 あの時はこんな未来を想像してはいなかった。先のことなんかこれっぽっちも考えず、ただ愛しさに盲目になってた。
 それはあの人も同様だったろう。男同士で兄弟で、肌を重ねることに葛藤が、なかったわけじゃなかったが本能の前には脆かった。俺はあの人を抱きたくて、あの人は男もイケる性癖も持ち主だった。
 磁石がひきあうように、千切れた紙片の裂け目がかみ合うように、俺たちは結合した。 
 そして。 
 うまくいってた時期もあったのだ。甘い秘密を共有してスリルを掠め取って。野郎にやたらともてまくるあの人の男関係で揉めたのも俺が女孕ませた疑惑で責められたのも今となっては小さな嵐。関係の決裂までには至らなかった。
 あの人は国家試験に合格し、俺はレーサーとしてデビューし。何もかもうまくいってると思ってた。
 あの人の口から、『潮時』なんて言葉が出るまでは。
 ピンポーン。 
 俺の回想を中断するようにインターホンが鳴る。エントランスからだった。一階入り口のロックを開けろという催促。俺は勿論、無視してた。どうせセールスか何かだと思ったから。
 が。
 数分後、ガチャリと玄関の鍵が開く。合鍵、と思った瞬間、俺はリビングを大股で横切り廊下に仁王立つ。
 現れるのは美女かエリートサラリーマンか。須藤か藤原なら殺すと覚悟と拳を固めた。
 そして。
 開かれたドアの向こう側に、立っていたのは。
 
 週に二回、洗濯と掃除に通っているのだと彼女は言った。上品な家政婦。本当の曜日は 今日でなく明日だけど、明日は天気が悪いと予報で言っていたから、せめて布団を干しておこうと思ったのだという。平日なら変更は勝手にしていいと言われていたの。お客様とは思わなかったわ、ごめんなさい。
 弟だから気にしないでくれと答える。罪もない家政婦を無駄にひびらせた、罪滅ぼしに布団をベランダに出して手伝う。いいんですよと言われたが、初老で小柄な彼女がうんしょうんしょ運ぶのを、若くてでかくてぴんぴんしてる俺が眺めてるのも体裁が悪い。
 サッシを開けて外に出てみると冬には珍しいくらい晴れていた。湿気がない分、冷たい空気が情け容赦なく肺に染みるが、いっそそれさえ清々しいくらい。
 ベランダでタバコを一本すい終わった時、家政婦さんがお茶を入れてくれて、リビングのソファーで新聞ひろげながら飲んだ。悪くない気分だ。勤めを持った女の紐旦那みたいで。
 うるさいですけど御免なさい、と言って家政婦は掃除機をかけだす。その音に混じって電話。俺の携帯ではなく、あの人の書斎から。リビングの子機も鳴ったがむちろん無視してた。と、家政婦がやって来て、
 「今のお電話、弟さんにじゃないでしょうか」
 留守録のメッセージがなんだかそんな感じだったという。言われて子機で聞いてみた。すぐ後悔した。
 『諸美です。啓兄、そこに居る?居たら連絡して下さい。携帯ナンバーは……』 
 
 待ち合わせの喫茶店に諸美はパンツスーツ姿で現れた。腰高のパンツと短い上着を着こなした彼女には既に淑女の気配が漂う。
 漂うはずで、もう二十四だ。高校生の頃の頬のふっくらしたラインは大人の女に相応しい凛々しさで締まり、ベリーショートの黒髪を形よく撫で付けている。俺を見つけて微笑む目尻も口元もあの人に似てる。
 あの人が微笑んでくれてる錯角に陥りそうだった。幸福な既視感。
 「お帰りなさい、啓兄。凄い活躍だよね。いつもテレビで見てるよ」 
 おれにそんな優しい言葉をかけてくれるのはもう彼女だけだ。
 「ずっと涼兄の部屋に居たの?」
 「昨夜からだよ」
 「ふぅん。諸美、啓兄が日本に帰ってきてるってテレビで知ってから、ずーっと電話かけてたんだよ」
 「何時からだ」
 「一週間くらい前」
 「話したのか、あの人と」
 「ううん。留守録だった。啓兄、今日はお仕事お休みでしょ。遊んで」
 「ヤだぜ。茶だけって約束だろ」
 「そんなこと言っていいの?涼兄がお医者様、続けてられるのは諸美のおかげだよ」 
 それは事実だった。二年前、諸美が大学を卒業するのと同時にあの人との結婚の話が出たとき。俺があの人の何もかもを引き裂いてしまった時。
 俺とあの人との関係は、さすがに伯父には明かせなくて、要領を得ない断りの口上に、伯父が娘をもてあそんだのかと激昂した、そんな時。
 「啓兄が好きなの」 
 断言する強い口調。注文をとりに来たボーイがぎょっとした。諸美の目にはそんなの入っちゃいない。恐ろしいほどきつく真っ直ぐ、俺を見つめている。 
 あの時もこいつはこんな風に俺を見た。
 「紅茶。種類はなんでもいい」 
 諸美の代わりに頼んでやる。
 「お医者様じゃなくっても、女癖が悪くても、定職がなくても、わたしじゃない人を物凄く好きでもいいの。わたしは、啓兄を好きなの」 
 俺自身の意思さえ拒みかねない強さで。そうして俺は思い知る。彼女とあの人、仲がよかった筈だ。よく似てる。俺にとっては残酷すぎるほど。 
 諸美の爆弾発言にさすがの伯父も驚き、それで少しは怒りを納めた。
 自分の娘が兄より弟をとったってのに、あの人にやつあたりする暴虐が俺にはわからないが、ともかく。
 地元に居られなくなったとはいえ東京で勤める病院がみつかったということは伯父の睨みが半端だったってことだ。本気ならあの伯父は、あの人を医師として生きていけなくすることも出来た。
 「……いっそ」
 「その方がよかった?」 
 俺の呟きを聞き咎めた諸美が、心を読んだような鋭さで視線をきつくする。
 「さらって養って離れられなく出来たから?でもそんなことになってたら涼兄、居なくなっちゃうよ」
 「ンなヤワな 人じゃねぇよ」
 「情けないトコ見せるくらいなら消えるよ、あの人。啓兄にも、……ううん、啓兄にが一番、見栄っ張りなんじゃない?」
 「あの人にゃ他にも取り得があるんだよ」
 物凄い技量を持ってることがもう一つ。多分、医者よりも希少性は高い。公道でF1レーサーを二人育てた。
 事情を知ってる奴なら誰もが言う。レーサーとしてもたいした腕だったが、あれはドライバーを育てるのがうまい、と。
 Dのプロジェクトが終了した直後から新チーム既成チーム含めてあの人には多くのスカウトが来た。俺や藤原なんざ問題にならないくらいの。チームスタッフとして。ゆくゆくはリーダー、若しくは監督として。驚くような名門からも打診があったと史浩が言ってた。俺がプロ入りしたばっかでナイーブな時期だったから、詳しく教えちゃくれなかったけど。
 「……啓兄、だまされてるよ」 
 諸美が小さな、でもしっかりした声で呟く。
 「涼兄は、啓兄が思ってるような人じゃないよ」
 「俺がどう思ってるかお前に分かんのかよ」
 「それは、分かるよ。だって諸美はずっと啓兄のこと見てたから」 
 啓兄がずっと見ていた涼兄のことも分かると呟く。
 「女には分かんねぇよ」
 「涼兄も女だよ。啓兄にとっては」
  痛いところをつかれて絶句した隙に、
 「女だから分かる事だってあるよ。涼兄がどんな女の人か」
 「お前、口に気をつけろよ」
 「啓兄の前で涼兄の悪口言うほど命知らずじゃないよ。尻軽とか、淫売とか、多情とか」 
 俺は立ち去りたかった。でもそうすると逃げるみたいだから止めた。本当は逃げたかった。だから立てなかった。
 真っ直ぐな諸美の目が、あの人の瞳と重なって俺を責める。あの人が俺に対して無視と無反応という防衛に移る前、まだ言葉で分かり合えると信じていた頃、幾度も俺を攻め立てた瞳。
 「卑怯とか、臆病とか、狡猾とか。啓兄にとっては悪口じゃないでしょ。涼兄のそこをすきなんでしょ」
 「違う」
 「違わない」
 「違う。好きな人がそうだから諦めてるだけだ」 
 誠実な人を愛せれば楽だっただろう。少しは俺も優しくしてやれたかもしれない。
 「羨ましいよ。涼兄が、すごく」 
 それきり二人で黙り込む。運ばれてきた紅茶を、諸美は大切そうに飲んだ。飲み終わった時がさよならと、承知してる速度で。
 「叔父さまと叔母さまのこと、聞きたい?」
  俺の父親と母親。
 「聞きたくない」
 「涼兄がお勤めしてる病院のことは?」
 「知ってる」
 「斜め向かいに区役所があるの。七階の喫茶店から病院の中庭が見えるよ。お昼過ぎ、涼兄がいつも通る」
 「何でお前が知ってるんだ、そんなこと」
 「時々見に行くから。啓兄が日本に居る時は。馬鹿だよね。啓兄が帰ってきてても、涼兄の病院に一緒に来るわけないのに」
  呟く諸美の頬は透き通りそうだ。色白の肌に控えめな口紅、染めていない髪。黒と白と赤のコントラストとアクセント。美しい女だ。こんなに綺麗な女が悲しんでる。俺が悲しませてる。
 「お前さっさと嫁に行け」 
 言ってやれたのは、そんな言葉だけ。
 
 諸美が言った喫茶店で俺は昼食をとった。マンションからはタクシーで十五分。恵まれた通勤。
 病院の中庭は見えたがあの人は通らなかった。それでもなんだか、気分はほんわかした。
 戻ると家政婦は居なかった。ふわふわの布団がベッドの上にセットされ、新しいシーツが敷かれているのを見て少し笑う。今夜もこれを、ちゃんと汚せるだろうか。 
 寝室をくまなく探る。ベッドサイドからマットレスの下、マガジンラック底まで。大したものは出てこない。寝酒に引っ掛けることがあるのかブランデーのボトルが一つだけ。封は切ってあるがガラスの喉のすぐ下まで褐色の液体は詰まっていて、愛飲しているようには見えなかった。 
 書斎に入る。デスクの引き出しを開ける。殆ど空だった。しまったな、と思う。帰国から十日もぐずぐずしていたせいだ。大切なものは他所に移したらしい。
 半年前、二週間ほど帰国した時の最後の夜。あの人が帰ってこなかった腹いせにパソコンの中身も 全部消してやった。再起動しても記録は戻らないからだいぶ困ったはずだ。 
 パソコンの電源を入れてみる。真っ先に立ち上げたのはインターネット。通信履歴にレース関係を探すが一つも残っていなかった。よっぽど俺のことを思い出したくないらしい。あんなに車が好きな人だったのに。 
 あとはメール。病院関係者らしいのから数通。内容は事務・学問的で色事っぽくはない。俺がチェックするくらい承知だろうから、情事の連絡にこれを使ってるとは思えない。それともこれは暗号か?待ち合わせの場所と時刻が記号化されているとか?……まさか。
 俺にパソコンの使い方を教えたのはあの人だ。今ごろ後悔しているだろう。
 手紙も DM が殆どで、ろくな収穫はなかった。冷蔵庫。これも、牛乳だけ。新しい日付のカートンが入ってるのは家政婦が買ってきたんだろう。
 男や女の気配が見つからない。いいことなのに、何故か苛ついてる自分に気づいて苦笑する。品行方正に暮らしてるなんて思えない。うまく隠されてるだけな気がする。疑心暗鬼は確信に近い強さ。俺はあの人を、愛してるけど、少しも信じてない。
 信じて裏切られた。何度も。 
 でももし、今夜。あの人がちゃんと帰ってくるなら。 
 食事に行こう。あの人の好きなものを。
 痩せた背中が昨夜切なかった。痩せたんじゃないかと問い掛けることさえ躊躇されるほど細くなっていた体。
 会話なんかなくてもいい。顔を見ながらメシが食えたらどんなに美味いだろう。 
 ベランダに出てタバコを吸う。家捜しに時間をとられていたせいで外はもう暗い。ベランダも寒いが我慢する。部屋にタバコの匂いをつけたくなかった。 あれは、去年の暮れだったか今年の正月だったか。 
 俺の居る部屋に戻ってこなかった人を、探して見つけて引きずって帰って、殴って、犯した。痛めつけられる怖さの中で繰り返された言い訳の中に、タバコ臭い部屋に戻るのが嫌なんだという一言があって、以来、なかでは一本も吸ってない。
 タバコ臭いキスが嫌とか言われたらどうしよう。 
 もしかして今夜帰ってきてくれて、二人でメシ食った後にそう言われたら、俺は禁煙するかもしれない。 
 そんなことあり得ないけれど。
 
 『タバコは止めろ。少しずつでいいから』 
 オーナーか、監督か、チームドクターの声か。違う。この困ったような話し方は、・・・だ。
 『お前はプロのスポーツ選手になるんだぞ』 
 でももう、癖になってるし。吸わないと苛ついてかえって気分悪いし。サッカー選手なんかと違って、走り回るわけじゃないし。 
 俺の詰まらない言いわれが終わったあとで、・・・は自分の手を俺に差し出した。
 『握ってろ』 
 指先が俺の体温となじみ、違和感がなくなったところで俺のタバコを咥える。片手で器用に火を点け煙を吸い込む。胸を膨らませて肺まで、深々と。
 『指先冷えるだろう。血行が悪くなるんだ』
 それは実際その通りだった。あまりの変化に俺は驚いたが、びびったと、思われたくなかった。これくらい、と馬鹿にしたように笑う。なんでもないじゃん、別に。
 『啓介』 
 もう呼んでもらえない名前。困ったような怒ったような表情。目線は鋭いけれども冷たさは少しもない。拒否や拒絶は気配さえない。 
 あの時。せっかく、心配してくれたのに。 おれは何故、彼の言うことを聞かなかったのだろう。
 『啓介、この間のレース』
 『お前のチームのメカニックだけどな』
 『次のサーキットコース』 
 うるせぇよ、と、俺は怒鳴った。ほっといてくれ。もうガキじゃねぇんだ。 
 そうか、と答える細い声。そうだな、と。 
 社会に出るというのは大変なことで。彼の掌から出て初めて、俺は彼に、どれだけ庇護されていたか思い知った。誰も俺に彼のように優しくなかった。親切でも忍耐強くもなかった。当たり前のことなのに、俺はそんなことまで彼のせいな気がした。
 「……ごめ」 
 これは夢だ。分かっていてもこぼれそうになる言葉。ごめん。ごめん。ごめんね。 
 ちょっと外で嫌ことがあったんだ。やつ当たりしちまった。ごめん。
 あんたを愛してるよ。なのに傷つけるようなこと言って、ごめん。 
 言えるものなら言いに行きたい。二十二から四にかけて、俺は彼のことを乱雑に扱った。気が向いた時だけ抱いてあとは放り出した。国家試験に合格したばっかりの時期で、大変なのは彼も同じなのに。 
 謝りたい。許してとすがりつきたい。出来ないならいっそ、あの頃の俺を絞め殺したい。いつまでも甘ったれんじゃねぇよ、と。お前がそんなだから、彼に棄てられちまうんだ、と。
 見捨てられて生きていくより、息しない方がどれだけ楽か分からない。 
 諸美の大学卒業はきっかけに過ぎなかった。 
 なかったことにしよう、と。兄弟に戻ろうと彼は言った。言い出したのは彼だけどそれまでの年月、言われるだけの真似をしたのは俺だった。辛がる彼をさらに苛んで、俺は、彼が苦しむことを愉しんでた。 
 ごめん、ごめん、ごめん。 
 あの時も泣いて謝った。でも彼の決意は固かった。俺を棄てないで。あんたに見捨てられたら生きていけないよ。お願いだから、おれの隣に居て。諸美と結婚、してもいいよ我慢する。してみる。諸美があんたを抱くわけじゃないから、きっと我慢できると思う。してもいいから、俺を棄てないで。
 彼は俺の謝罪にも哀願にも耳を貸さなかった。言い出せば聞かない頑固さも強情も、俺は誰より知っていた。けれど。 
 そのかたくなさが、俺に向いたのは、あれが初めてだった。 
 翻意させられない絶望が攻撃に横滑り、したのは何がきっかけだったろう。諸美の卒業式に付き添うとか付き添わないとか、そんなことを話してた高崎の家のリビング。珍しく親子揃って楽しそうだった彼の、横顔が柔らかくて。
 きっかけは、たぶん、欲情。
 半月近く触れていなかった。否、触れさせてもらえなかったから。したてに出て泣き落とししていた俺は、いきなり牙を剥いた。自分でも驚いたくらいだったから彼も目を見開いた。よくやるねあんたも。どの面下げて諸美と結婚なんかするの。俺に抱かれてよがってたくせに。そもそもあんた、女ちゃんと、抱けるの?俺が知ってるあんたの相手、野郎ばっかりじゃん。啓介、と。
 最後に呼ばれた響きを忘れない。ぞっとするほど冷たい声だった。
 
 携帯の呼び出し音で目がさめる。
 寒いくらいの部屋で、ベッドの上で。俺は全身に汗をかいていた。冷たい汗だ。嫌な夢を見た。罪人に罪と罰とを思い知らせるような。
 「……もしもし」 
 あの人からかもしれない、なんて。 
 期待したのは昔の夢を見たせい。今のあの人が俺に電話なんか掛けてくる筈がない。そもそもこの番号をあの人は知らない。 
 電話は興信所の探偵から。勤務を終えたあの人が自宅のマンションとは違う方向へ向かっているという。
 「何処だ、そこ」 
 普段から交友関係を調べさせてる。
 『友人の家のようです。表札は須藤で出ています』
 「ふうん」
 上等じゃねぇかよ。 
 俺の脳裏に須藤京一の、切り裂いたように鋭い一重の眦が浮かぶ。気に入らない面も。
 『あそこに行くと大抵は一泊になりますね。明日の勤務は、休みになっています』
 「また後で掛ける。道を聞くかもしれない」 
 携帯を切る。放り出してた財布を尻ポケットに突っ込む。胸の中から後悔が消えて新しい憎悪が宿るのを感じた。優しくなんてなれない、なりたくもない自分を自覚する。 
 引き裂きたい衝動は、食欲に酷似した飢餓。俺たちの関係は既に方向付けられて、修正のしようはない。 
 俺はもう諦めてしまったから。優しい恋人に戻れることは二度とない。甘えて懐いて強請ればなんでもかなえられた、あんな幸福な時が二度と戻ってくるはずはない。そんな奇跡は起こらない。それでも。
 「いいかげん、ケリつけてやるぜ」 
 誰にも、渡さない。