あの日あの時、きみをなくした 4 

 

 カリスマとか、ヒーローとか、スーパースターとか 。
 呼ばれていた人の弱みを、俺は知ってる。白い姿と優秀な頭脳と完璧な美貌のこの人が、意外なほど脆い弱点を。
「助けて下さい」
 縋りつかれると突き放せない。人当たりのいい啓介さんの方がよっぽど、ノーと言える日本人してる。
「俺、分からないんです。メカニックのチーフがフランス人で、フランスのチームだから当たり前なんですけど、通訳つけてもらっても、なに言われてるのかよく分からなくって」
 明日、そのチームの走行会があるんです。来期のレーサー候補を五人くらい集めて。俺が一応は本命らしいけど、俺、メカニックの人たちとうまく話が出来なくて。このままじゃ駄目になるかもしれないんです。何年もがんばってきて、やっとF1に昇格できるかもしれない瀬戸際なんです。
「助けてください。お願いです。涼介さんしか、居ないんです」
 助けてくれる人が、ではない。助けられたい人が、だ。
「忙しいのはわかってます。でも明日、どうしても来て欲しいんです」
『俺に、出来ることはないとおもう』
 聞こえてきた声が懐かしくて、携帯電話を抱きしめたくなる。
「涼介さんしか出来ません」
『俺が教えられることはお前にもう、全部教えてある。忘れてしまったのか?』
「憶えてます。思い出せないだけです」
 強情に言い募る。電話の向こうから困ったな、という気配が伝わってくる。それでも俺は引き下がらなかった。
「思い出したいんです。俺、涼介さんにどうしても、会いたいです」
『藤原。俺はもう、レースには』
「知ってます。啓介さんのレースも一度も見てきてないことは。啓介さんのライバルになるかもしれないかもしれない俺に、アドバイスとか、してくれる訳はないことも」
『藤原。それは違う。啓介もお前も同じくらい、俺は誇りに思ってる』
 ……嘘つき。
 心の中の声は、呟きというよりも罵倒。同じことを前にも聞いた。プロジエクトDで一緒にやっていた頃。それを信じてたこともあった。
「顔を見せてくれるだけでいいんです。きっと俺、思い出せると思うんです」
 あなたに教わったことを。忘れたくって忘れてたあなたのことを。あなたを、好きだったことを。
「待ってます」
 言うだけ言って回線をちぎる。これ以上話していたら余計なことを思い出しそうだった。
あなたを信じて、そして裏切られたこと。あなたを恨んでたこと。だからプロジユクト終了後、五年も連絡をとらなかったこと。憎んでること。今でも、深く。それでも。
助けてくれと叫べる人は、あなたしか居ない。

 翌日、サーキットに到着するなり、
「時間ギリギリに出てくる癖は相変わらずだな」
「久しぶり、藤原」
 懐かしい声に迎えられた。
「松本さん。史浩さん」
 思いがけないことに目が点になる。
「どうしてここに?」
「涼介に呼ばれてな」
「呼ばれたっていうか、押しかけたっていうか」
「涼介がレースのことを松本に問い合わせたいって、俺の方に電話を入れたんだ」
「あの人が車のことを言い出すなんてひさしぶりだから。嬉しくて」
「……お世話かけます」
 ひとまず頭を下げておく。
「礼を言いたいのはこっちさ。涼介の奴、Dが終わってから車のくの字も言い出さなくなっちまって」
「寂しかったですよね。やっぱりあの人が俺たちのボスですから」
「涼介さんは?」
「あそこ」
 見るとチームのスタッフに囲まれていた。きちんとしたスーツを着こなして柔らかな髪をざっと後ろに流して。
「チームのマネージャーが以前、あいつと縁のあった奴でな。さっきから離してもらえないんだ」
 それにしては人垣が厚い。たぶん、何の縁もない人まで混ざっているだろう。眺めているだけでぽーっと幸せになれる、そんな美貌は相変わらずだった。
「涼介さん、藤原が来ましたよ」
 見とれているばかりの俺を見かねたのか、松本さんが声を掛けてくれる。振り向いた涼介さんは周囲になにか言ってこっちへ来てくれた。何を言ったのか早口の英語で、俺には分からなかった。
「すいません。俺がお願いして来てもらったのに、お待たせしたみたいで」
「俺たちが早く着きすぎたのさ。こっちのホテルに昨夜から居たからな」
「昨夜から?どうして?」
「なんだかそんなことになった。昨日は藤原のレースのビデオをずいぶん見たよ。松本が持ってきてくれて」
「松本さんが?」
「ラリーチームのメカニックをしているからそういうのが手に入りやすいらしい。プライベートだけどな」
 それで俺には状況がわかった。走りの世界に触れたが最後、この人の周囲には人が集まる。
「個人的に話に来るよりもとチームメイトで応援に来た方が、そっちのチームのスタッフを刺激しないかと思って。例のメカニックのチーフに紹介してくれるか?」
「あ、はい。こっちです。……なんて言うんですか?」
「顔を見てから考えるよ」
 嘘つき。何を言うかなんてとおに決めているくせに。白々しい横顔に、それでも見とれた。

 ここ数日、揉めてばかりだったチーフは俺が話し掛けてもろくに返事をしてくれなかった。それでもマネージャーに促され振り向く。俺の隣に立った涼介さんを見るなり口笛。早口のスラング。意味は、やっぱりわからなかった。
 涼介さんには分かったらしい。なにか返事をしながら歩み寄り、右手を差し出す。チーフは何か言いながら、それでも油で汚れた手を作業着で拭い、白い綺麗な手を握り返す。
「フォックス、だとさ」
 思いがけない方向から声が聞こえて振り向く。そこにはさらに思いがけない人が居た。
「須藤さん」
 どうしてここに、と問い掛けてその手のタバコに納得する。ピット内でタバコが吸えるのはこの一角だけだ。
「色っぽい可愛子ちゃん、ってくらいの意味だ。そんな歳でもありませんがって涼介が答えた」
 きつい一重の目をした彼はタバコを吸い込み、
「俺はプライベート時代の彼のメカニックです。こんな綺麗な手をしててかい。プライベートチームでしたけど、彼は運転するのはうまいけど機械のことは苦手で、苦労しました。日本人だろう?」
 涼介さんとチーフとの会話を同時通訳してくれる。
「日本人にも機械音痴は居ますよ味音痴のフランス人が居るように」
 そこでちらっとチーフは俺を眺めた。
「分かっていないのかい、彼は。勘だけでやっているんです、時々呆れます、分からせようとするよりもやらせてみて、判断はこちらでした方がいい、何度やらせても決して文句は言いません。それでいい訳がないだろうプロが」
「須藤さんフランス語、分かるんですか」
 感嘆の目で見た俺を須藤京一はチラリと流し見る。
「英語だぜ。訛りはきついがな。……まったく同感です、しかし今、それをいっても仕方がない、客が勢揃いした後でスープ鍋をこぼしても、野菜くずからだしをとりなおす訳にはいかないでしょう」
そこで二人の会話は途切れる。じっと眺めあう。敵意というほどではないが緊張が足元から積もっていく。涼介さんはじっとチーフを見つめてる。ひどく美しい瞳で。
 その瞳の圧力に負けた形で、チーフが口を開く。何かを言った。何を言ったのか俺には分からない。でも負けを認めたことは知れた。涼介さんは柔らかく微笑み、二人はもういちど手を握り合う。チーフはさっきまでとはぜんぜん違う口調で、涼介さんの手を握ったまま何か話してる。涼介さんは少し困った顔で、それでも手をふりほどくわけにも行かず曖昧に笑みを返していた。
「確かに客はもう揃っているな、藤原について詳しい話をしたいが、今日、一緒に食事でもどうかね」
「もてる人ですね。相変わらず」
 須藤京一は答えず涼介さんに歩み寄り、
「涼介。俺はもう帰るぜ」
 強面の登場にチーフは明らかに怯んだ。証拠に握った手を離す。
「走行会がもうすぐ始まるぞ。せっかくだから見ていったらどうだ」
「冗談。弟に会う前に俺はさっさと退散する」
「冷たい奴だな。俺は帰り、どうすればいいんだ?」
「誰かに送ってもらえよ」
「ここから東京と赤城じゃ方向が、ぜんぜん違う」
「弟が居るじゃねぇか」
「俺が送りますよ」
二人の会話をそれ以上、聞いていたくなくって口をはさむ。
「須藤さん、昨日からいろいろ、ありがとうございました」
 頭を下げるといやとかなんとか言って、須藤京一は退場。
「一緒に来たんですか。仲がいいんですね」
「そういう訳でもない。腐れ縁ってやつだ」
「須藤さんも東京に居るんですか。一緒に暮らしてるの?」
「なにを聞くんだお前は。そんな訳ないだろ」
 苦笑して涼介さんは、不意に真面目な顔になる。
「ほら」
 上着の内ポケットから出されたのはパソコンで打ち出された何枚かの紙。日本語の単語と簡単な文章。その横に英文とカタカナの発音。
「昨夜作った。今日の走行会が終わったらこれでチーフと話してみろ。きっと通じる。お前は機械が分からないんじゃない。表現する言葉を知らないだけだ」
「作ってくれたんですか、わざわざ?」
「俺だけじゃない。松本と史浩と、京一も手伝ったな」
「すごい親切ですね。不自然なくらい。やっぱり罪悪感がある?」
 松本さんと史浩さんが居る場所へ戻りながら尋ねる。涼介さんは、返事をしてくれなかった。
「俺、涼介さんのこと恨んでますよ」
 こんな何枚かの紙では誤魔化されません。
「だろうな」
 俺の悪意を涼介さんは静かに受け入れた。
「啓介さんが最初に入ったチームって、本当は俺に話があったんでしょ。すごく好条件の、F3000にもチームを持ってる大手メーカーの。涼介さんが担当者を説得して、それで啓介さんが入ることになったんですよね」
そのメーカーは啓介さんがF1に移った今ではスポンサーの一員。筋目のいいチームに最初に所属することは金がものを言うレースの世界で、かなり有利になる。
「いつ知った?」
「プロ入りしてすぐです。アッタマきましたよ。公正なふりしてダブルエースとかっておだてといて、肝心の場面でエコヒイキなんてすげぇ卑怯。だから今日まで連絡もとらなかったんです」
「啓介も知っているかな」
「さぁ。案外こういうことって、本人だけが知らなかったりするから。……三流とまではいかないけど二流半くらいのチームから始めて、俺、けっこう苦労しましたよ。啓介さんが順調に勝ちあがって、三年前からF1に昇格したときすごく羨ましかった。まぁ、涼介さんが居なかったらプロのレーサーになろうって事自体、考えてなかったかもしれないから、恨む筋合いじゃないかもしれないけど。……なんであんなことしたの?」
あなたのことを、信じてたこともあったのに。
「お前は十九だった。啓介は二十二だった。あいつはあれを逃したら、次がなかった」
「そんなの、俺を踏みにじっていい理由になりませんよ」
「恨まれて当然のことをしたと思ってるよ」
「なら頼み、聞いてくれませんか」
「何かな。俺に出来ることなら」
「マネージャーになって下さい。俺の個人の。一年だけでいいです」
「……藤原」
 無茶を言わないでくれ、というふうに微笑む。そんなことで、俺は怯んだりしなかった。
「涼介さんのせいで俺は三年、余分にかかったんです。一年くらい俺の為に尽くしてくれてもいいと思うけど」
「お前が啓介と同等にステップアップ出来たとは限らないさ」
「言ってくれますね。俺は、俺の方が啓介さんより素質は上と思ってますよ」
「プロはみんなそう思ってるさ」
「だったら証明してあげる。俺、今日、啓介さんより速く走りますよ」
 部品を供給しているメーカーの関係で、今日の走行会には高橋啓介も参加する。主催者側のサービスというか客寄せというか、格の違うゲストによる模範走行、といった感じだが。
「俺が勝ったら涼介さんの一年を下さい」
「お前と啓介の勝負に、どうして俺が付き合わなきゃならない」
「妥当な賞品でしょ。俺の三年間と引き換えになりそうな啓介さんの持ち物っていったら、涼介さんしか思いつかないから」
「俺は啓介の持ち物じゃない」
「とぼけなくてもいいですよ、いまさら」
「とぼけてる訳じゃないさ、いまさら。逆だってことだ」
「啓介さんが涼介さんのものって言いたいの?涼介さんにしては可愛い嘘ですね」
「証明しようか」
 散々な挑発に少しものってくれない薄情な美人は、
「お前が勝ったら、今夜お前と寝てやるよ」
 聞いてる俺の息が止まりそうなことを言い出す。
「……それが、なんの証明になるんですか」
「俺が俺のものだってことにはなるだろう」
「涼介さんってすごい自惚れてるね。寝るのが賞品になると思ってるの。男のくせに」
「男に脚を開くしかもう、俺には取り柄がないそうだから」
 その時、俺が感じたのは。
「誰が言ったんです、そんなこと」
 純粋な怒りだった。この人のことをそんなふうに貶めた奴が許せなかった。涼介さんは答えない。でもこの人にそんなこと、言える人間はこの世に一人しか居ない。
「啓介さんが言ったんですか。そんなことを、あなたに」
 顔から血の気が引いていくのが分かった。これでばれたと、思ったけれど激情は止まらない。俺がこんなに愛している人を、そんな風に言うなんて許せない。
「俺、絶対勝ちます。勝って啓介さんの前で、あなたのおかげだって叫びますよ」
「藤原」
「だいたい俺、啓介さんって分かってないと思うんです。涼介さんみたいな人は世界中探したって二人と居ませんよ」
「みんな、そうさ」
「あの人は有り難味を分かってない。あの人のことを俺が、どれだけ羨ましかったか」
 憎しみが横滑りしていく。この人を恨んでいた筈だったのに、対象が啓介さんにシフトしていく。罪の自覚も罪悪感もなく、稀有の幸運を当然として享受している彼が許せない。
 俺が欲しかったチームを。俺が欲しかった人を。俺が欲しかった愛情。
「好きです」
 勢いのまま、告白。五年前に言いたくて、でも言えなかった言葉。弟の為に俺の可能性を握りつぶした相手に、更なる弱みを晒したくなくって。でも。
「俺、涼介さんを好きです」
「上で見ている。応援してるから」
「勝ったら今晩、付き合ってください。ベッドの中じゃありませんよ。話があります。……これを」
 渡したのは車の鍵。プロレーサーとしてまともな収入を得るようになってすぐ、買ったRX−7。キーでそうだと分かったんだろう。綺麗な眉がそっと顰められる。
「持っててください。どこかですれ違いになるといけないから。スタッフの駐車場にあります。白です」
「俺に、これをどうしろって?」
「どうしなくてもいいです。レースが終わったらそれを持って車で待ってて下さい」
「完全に勝つ気だな。それはいいけど、鍵は受け取れない」
「どうして。俺が負けると思ってるの」
「車の鍵は持ちたくないんだ」
 なんで、と問い掛けてやめた。目元に翳があったから。
「そんなの俺の知ったことじゃない」
 襟首を掴んで引き寄せる。スラックスの尻ポケットにキーを突っ込む。掌に触れる感触が、ひどく良かった。
「俺、逃がしませんからね。絶対」
 言い終えたとき、ちょうどピットの前に出る。史浩さんと松本さんのほかにもう一人、サングラスを掛けてお供を連れた、長身の男が立っていた。
俺はゆっくり、微笑む。好意でじゃなかった。狙った餌が自分から近づいてきた満足に。
「よぉ、藤原。激励に来てやったぜ」
 明るい声。親しげなことば。でも多分、サングラスの奥の目は笑ってはいないだろう。俺はうっとりした。いっそキスでもしていれば良かったと思った。男の位置からなら見えたろう。
「しっかり走れよ。来期はまた、同じステージで競り合おうぜ」
「えぇ」
 ありがとうございます、とは言わなかった。
「負けませんよ」
 これは敵。いやいっそ、仇。誰かの、とか何の、とかじゃない。あえて言うなら俺自身の。俺の将来、愛情、執着、いっそ存在そのものの、仇。
 男と一応白々しく、握手なんかして別れる。男が居なくなると不思議なことが起こった。史浩さんと松本さんの雰囲気が和らぐ。緊張して警戒していたのだあの男を。どうして?俺よりずっと、あいつの方がこの二人と親しい筈なのに。それに。
あいつは涼介さんに目もくれなかった。あいつのパターンからすると大騒ぎしそうなのに。アニキ何やってんだとか、アニキ一緒に来いよとか。兄弟っていう関係を周囲に知らしめるように連呼していた、耳障りだったあの単語が一度も出なかった。
「須藤は帰った。俺は見ていくつもりだが」
お前らはどうする、という風に涼介さんが二人に問い掛ける。
「俺たちも見ていくさ、もちろん」
「しっかりな、藤原。応援しているぞ」
「はい。頑張ります。今日は本当に、来てもらって有難うございました」
「頑張らなくても普通に走ればお前の勝ちさ。今日集まったメンバーの中では藤原がずば抜けてる」
 嬉しいことを言ってくれた人に、
「啓介さんと何かあったんですか?」
 真っ直ぐな問いかけ。
「空気が重かったですよさっき。ものすごく」
「ちょっとな」
「喧嘩したの?史浩さんや松本さんもコミで?」
 兄弟喧嘩は珍しくなかった。ただ、いつもそれを仲裁していた史浩さんまで、明らかに啓介さんに対する態度が固かった。もしかして、あの男は。
「ちょっとな」
 失敗したのかもしれない。俺が知らないうちに、取り返しのつかない大失敗を。
「そうなんだ。良かった。これで涼介さんのこと口説きやすくなりますよ」
「……藤原」
 涼介さんの嗜める口調。
「なんだ、それ」
 史浩さんと松本さんの不思議そうな顔。
「チームのスタッフになってくれって頼んでるんです、今。じゃあ俺、もう行きますけど、涼介さん約束忘れないで下さいね」
 手を振って分かれる。上々の気分だった。勝てないかもしれないなんて少しも思わなかった。俺とあの男との間にはオンナが居る。男の運命を司る美しくて残酷な女神。『彼女』に勝ちを告げられた以上、俺が勝てない筈はない。
ここでは。

手ごたえはあった。ピットに戻ってくると、スタッフたちは歓声で迎えてくれた。コースに出る前はライバル意識剥き出しだった他のレーサー候補たちが、張り合う気力もなくしたようにぼーっとした顔で、それでも拍手してくれる。凄いよお前は天才だよと口々にかけられる感嘆の言葉。データーを眺めていたメカニックチーフまで、俺を見るなり笑って、ゆっくり話し掛けてくれた。
騒ぐ周囲に合図して、静かにしてもらってそれを聞く。やっぱり殆ど分からない。でもスペシャルとか、ストロングだけは聞き取れて、とりあえず褒められているらしい。俺は笑ってサンキューと返し、チームマネージャーから、預けていた紙を受け取る。
『あなたのおかげです』と書かれた横のカタカナを読む。なんとか通じたようだった。互いに理解しようとする意識さえあれば、片言でも十分に通じるものらしい。チーフは近づき紙を覗き込む。これはいい、という風に頷き、今度は紙の文章を指さす。
『仕様を変えてもう一度コースに出て欲しい』『変更に注文はあるか』
『ブレーキ』『もう少し』『重くして下さい』
『分かった。まかせてくれ』
 チーフの目には俺しか映ってない。他の候補者たちはアウトオブ眼中って感じだ。それからチーフが、何かに気づいたように振り向く。ゆっくりしゃべる言葉をもう一度、全身を耳にして聞いた。スウィーティーっていったら美形のことだ。美形ったら、あの人のことに決まってる。手にした紙を指差され、スウィーティー?と首を傾げられ、尋ねられている意味を理解する。
「イエス。ヒーイズマイ……、クイーン」
 チーフは肩を竦めた。呟く言葉は聞こえなかったが、羨ましがられていることだけは分かった。
 再び乗せられた車のセッティングは俺の好みにピッタリで、俺は気持ちよくコースを回った。啓介さんの車は見えない。格の違うゲストは最後の締めで走るだけ。今ごろはどこかから俺を見てる。もうすぐコースレコードを更新しそうな俺を。
よく見ていて下さい。
心の中で告げる。たぶん、聞こえていると思う。
あんたに俺は負けやしない。あんたに負けたことは一度だってなかった。俺が勝てなかったのはあの人にだ。あんたを優しく包んでたあの強靭な腕に歯が立たなかった。もしかして、それがもう、ほどけているんなら。
絶対に負けない。

 祝福と抱擁に揉みくちゃにされる。F1の本番で優勝したような騒ぎ。ステップアップしたばっかりの新人が始めて乗った車でコースレコードというのは、つまりそれだけ珍しいらしい。日本語と英語の渦の中、インパクト、という語句が聞こえる。思わず振り向き口を開く。
「イッツ、マイニックネーム」
 前のチームでも日本人以外には、タクミという発音が難しいらしくてそう呼ばれていた。ザ・インパクト、と。
「This is most like you!」
「実に似合う名前だ、って言ってます」
スタッフが横から通訳してくれる。今朝までは俺が困っていても誰も構ってくれなかったのだが。仲間として受け入れられた、って事か。嬉しくないことはなかった。たとえそれがチームの成績という利害に絡んだ好意であるとしてもだ。チームメイトに友情とかを期待しちゃいけないことは五年前に学んだ。
「藤原さん、ちょっといいですか」
 さっきまで藤原君と呼んでいたチームマネージャーの口調が丁寧だ。顔にはいますぐ本契約をと書かれてる。俺の機嫌を損ねないように、ひどくへりくだった物腰。
「今、連絡が入ったんだが。君の車」
嫌な予感がした。
「駐車場でぶつけられてしまったらしい。ぶつけたのは高橋啓介で、マフラーが潰れてしまったそうだ」
 連絡を聞いた他の連中が騒ぎ出す。わざとじゃないのか恥をかかされた仕返しに、とかいう日本語に混じって英語の罵り文句。俺は、それどころではなかった。
「乗っていた人は無事ですか。連れが車で待っていた筈なんです」
「少し胸を打ったがたいしたことないらしい。高橋啓介が病院に連れて行った。彼の兄弟なんたって?」
返事もせずに立ち去ろうとする俺をマネージャーが引きとめる。
「車の賠償をするために彼の代理人がもうじきここにやって来るから、待っていてくれ。……藤原さん?」
「……の、野郎」
 低くうなる、声は我ながら、凶暴に掠れた。