あの日あの時、君をなくした 5

 

 愛していたと思う。多分。

オンナといえば、思い出すのはどうしても白。もろともに熱にとろけた、いとおしい。手に入れたのは十八の時。それから九年、ずっと一緒だった。胎内に俺を含んで、俺の思い通りに走った。互いに生命を預けあった相手。たぶんあれが唯一人だけのオンナ。他はもう欲しくない。二度と他には触れない。お前だけだ。永遠に。

お前が死んだ感触が忘れられないから。誰よりも優雅で美しかった、俺のFC3S

弟にお前を殺された時、俺は最愛のオンナをなくした。一緒になにもかもを。大切だったものは全て。

あの時に、なくした。

 

「……は」

 意識が戻っても、抵抗はしなかった。

 ベットにうつ伏せにされて背中から抱かれて、抵抗なんか出来る体勢じゃなかった。したってそれこそ、いまさらな状況でもあった。雄の欲望に最奥を貫かれ、その苦痛で目覚めた。揺すられてさらに奥まで割り裂かれる。……苦しい。

「気がついた?」

 優しい声。甘ったるいくらい。その底に淀んだ毒が、ゆっくり立ち上る。

「俺だよ。須藤でも藤原じゃない。分かってる?」

 分かっているとも、それくらい。京一は俺を痛める真似はしないし、藤原のベッドマナーは知らないが、たぶんこれよりマシだろう。

「あんたもよくやるよ。俺と須藤と藤原と、連チャンで食うつもりだった?」

 いっそそんなのが似合うかもしれない。今の俺には。口は緩いが案外と股はカタイ、そんな風に、生きてきたけれど。

「答えろよッ」

 苛ついた雄にガンガン突き上げられて、

「……してない」

 答える。震えた自分の、声に嫌気がさす。

「京一とは、寝て……」

「寝てない?馬鹿いいやがれ。じゃあなんで二人で逃げたんだよ。須藤の車がマンションになかったのはあんたとどっかにシケこんでたんたろうが」

「サーキット近くのホテルで」

「泊まってたんじゃねぇかよ」

「ちが、ふみ、浩と松本と。レースのことで集まって」

「集めたんだろ、あんたが」

 それが気に入らないのか。どうして。

「乗り換える気かよ。俺から藤原に。あの二人まで揃えて」

 だって、お前はもう、俺は要らないんだろう?言ったじゃないか、アニキもボスも要らないって。必要ないって、その口で。

「んなの、ぜってー許さねぇからな」

下腹の奥に、熱。歯噛みして耐えた。灼熱の、まるでマグマだ。妬けつくほどに熱い。染みて拡がる。死にそうな気がして無意識に腰が跳ねる。肘をついて背を反らし、少しでも熱を散らそうとのたうつ。

受け止め抱きとめる腕は優しく、力強い。この瞬間だけは俺のことを大切なオンナみたいに扱う。愛情ではなく、欲情と気分に流されて。息を呑み震える俺を安心させるように優しく抱きしめる。これは優しいんじゃない。雄の気分で、優しくしてみたいだけ。

跳ねて震えて痙攣する俺に覆い被さる。深く満足なため息。こっちに苦痛を投げ与えて、強引に快楽を奪い取っていく。こんな男の腹の下で、どうして俺が喘いでいなきゃならない?

 呼吸がおさまるのを待って身体を返される。仰向けの視界に移ったのは見慣れた俺のマンション。寝室の天井の模様を眺めて熱と痛みに耐えるのは、何度目だろう。掌が伸ばされる。頬に触れてくる手指の感触が疎ましい。俺の表情を覗き込む顔も身体も、なにもかも。

「……嫌な、奴」

 低い呟きに一瞬だけ痛い顔をしたが、すぐに笑う。

「ちょうどいいだろあんたには。思い通りにならない奴も、たまには居ないとな」

ふてぶてしさがますます嫌悪感を煽る。触れているのも疎ましくって、重なった胸を肘で押しのけようとした。

「なに。いまさら逃げようとかする?往生際が悪いねぇ。逃げられないのはもう分かってるだろ」

「放せ。触るな」

「聞き分け悪ィな。乱暴にしたらマジに怪我させそうだから今、わざと優しくしてんだぜ、俺は」

 それとも怪我してみたい?痛いのけっこうスキだもんな、あんた。

 貶める言葉を聞き流す。痛いとも辛いとも思わない、この感覚には覚えがある。望むとおりにやってきた俺は無関係な外野から罵られることは多かった。そんなのを気にするナイーブさとは無縁だ。でなきゃ一匹狼を気取った挙句に遠征チームなど作れない。

 悪く言われたくない人間はいつでも、ほんの数人だけ。俺を抱くこの男も、昔はその一部に入ってた。今はもう、なんて言われてもいい。それはつまり、もう愛してないってこと。愛してもいない男を、どうして体の中に含まなきゃならない?

「出て行け」

 もう一度、男を押しのける。俺のなかから、上から、この部屋から。

「すっげぇご機嫌斜め。言っておくけどさ、怒ってるのは俺の方なんだぜ」

 どうしてお前にそんな事が分かる。俺が今、どんなに怒ってるか、本当に分かっているのか?

「車はどうなった?」

 鍵を見た瞬間にそれがセブンだと分かった。最新の型で俺の死んだ女とは随分違っていたが、それでもなかに入るのは裏切りのような気がした。でも約束だったから乗り込んで助手席で待つ。凄いタイムを出したから来期の契約はこれで決まるだろう。時間がかかるかもしれないと思った。ちょうどいいから眠ろう、と。

 うとうとしていたのはどれくらいだったろう。

 衝撃に目覚めた。金属の軋む嫌な音がした。慌てて降りると藤原のセブンの尻に違うスポーツカーが突っ込んでいた。確信犯のふてぶてしさでタバコをくわえたまま降りてきたのはこの男。それから腹を殴られたのは憶えてる。失神して、ここへ連れて来られた。

自分の家なのにそんな言い方もおかしいけど。

「さぁ?マネージャーに弁償させに行かせたから」

「そんなことを聞いているんじゃない」

「リア潰してやったぜ。修理に一週間かな。新車買ってやってもいいけど」

「よくそんな真似が出来るなお前。凄いよ」

「ぜんぜん平気。だって、おれ壊れてるから」

 繋がったままの下肢を割られる。深く沈まれて顎が上がる。快感が今日は痛い。俺を庇って軋んだ車体の傷みが身体に、キツク残ってて。

「壊したのはあんただ。いまさらしらばっくれんなよ。何台だってぶつけてやるぜ。あんたが乗って逃げようとする車は」

 くすくす、気に触る笑い声。

「車は道具だよ。俺はプロのドライバーだから。あんたみたいにベタベタしちゃいられない」

「俺から離れろ。出て行け」

「いいの、可愛い弟にそんなこと言ってさ」

 壊れている、という言葉は嘘ではない。ふだん触れたがらないところに自分から触れてくる。俺に弟扱いされるのをずっと嫌がっていたのに。

「いいさ。……死んだんだから」

 俺のオンナと一緒に弟も。兄弟で超えちまうくらい愛していた、可愛いのも。

「お前は似てるけど別人だ。よく、分かった」

「やっと?それで?」

「出て行け。離れてくれ。二度と、顔をみたくない」

俺はようやくそう言えた。それは本当は、二年前に言うべき言葉だった。

「俺の弟は死んだよ」

 絶望とともに告げる。

 シーツに俺を押さえつけながら、短い、けれど鋭い口笛。

「すげぇ強気。若い新しいのひっかけたから?新しくはないか」

「さよなら」

 強くて暖かな胸と腕から、何度も逃げた。でも追い出した事はなかった。不思議だ。どうしてそうしなかったのか。

 違う。

本当は不思議でもなんでもない。答えはとおに分かっている。俺の方にも未練があったから。逃げきれなかったのも当たり前。防御ばかりで勝てるはずがない。

でも、今、俺は本当にこの男が嫌になった。人が乗っている車に平気で突っ込むような男。俺に深々とした傷をつけておいて、それをなんとも思っていない奴。

「生きていけるつもりなのそれで。俺から離れてさ」

「たぶん」

「……ふうん」

 仰向けに組み敷かれて、腹に含まされた灼熱がふくれあがる。抱いてる間はいつも饒舌な男がそれきり無口に黙り込む。本気だと、たぶん悟ったから。案外あたまは悪くない。

「好都合、ってことにしとくか……」

 呟きの意味が俺には分からなかった。

 

 すき放題に無茶されて弛緩した身体をベッドに放り出す。男が服を身につける気配。

「鍵、置いていけ」

 やった覚えもないのにつくられた合鍵。

「幾らでもつくれるんだぜこんなの」

「二度とつくらせない」

「無理って。そうやって強がっても、結局俺に捕まえられるの分からないのかよ」

 嘯く台詞と裏腹に口調は弱い。動揺している。

「今度やってみろ。すぐ訴えてやる」

「弟に勝手に家に入られましたって?通じるもんか、そんなの」

「通じる」

 自信を持って断言。兄弟だろうが親子だろうが、いや夫婦でも、合鍵を勝手に作って侵入すれば、犯罪。

「訴えられたら俺、レーサーやってけなくなるかも。有名人だからこれでも」

 莫大な資金を掛けて華やかな夢を描く世界で、スキャンダルは命取りになる。

「好都合だ。興信所に支払う金もなくなって、なにも出来なくなればいい」

脅迫とも哀願とも判断しかねる泣き言を鼻で笑う。

 無言で寝室を出た男が戻ってくる。無視して眼を閉じてていた俺はしかし、

聞きなれた音にそちらを向く。使い捨ての注射器の針のパックを開ける音。そして。

「なに……」

 肘近くを掴まれネクタイで縛り上げられる。血管が浮き出す。それでも、まさかと、思った。信じられなかった。水に溶かされた白い粉末。注射針がそれを吸い上げ、透明な胴に透明な液体がたまる。

「冗談、だろ」

 見上げた顔は悲しそうだった。だからかえって、痛いくらいの本気がよく分かった。

 

 キスしろと言われてそうした。踊れと言われて腰の上で踊った。なんでもした。怖かったから。サイドチェストの上に放り出された小型注射器の中の液体。男が放出を終えるたび、それを手に取るんじゃないかと怖かった。だから自分から絡んだ。

これは悪い夢。夜が明けて悪夢が終わるまで、どんな事でもしなければならない。引き抜かれるとすかさず唇を寄せる。男の暴虐をそらす為にはそれが一番の方法と知っていた。

「大丈夫?ちょっと休む?」

 黙りこんでいた男がようやく声を出した夜明け前。頭を左右に振って拒む。空白の時が怖かった。一瞬も気をそらせたくなかった。

「なんかでも、無理してねぇ?」

 痛々しくて気が咎めると呟き、男の股に埋めていた顎を掴まれる。離したくなくって拒んだが、鼻をつままれて結局、ずるりと身体ごと引き上げられる。

「んな涙目になるほど尽くしてくれなくっていいよ」

 寄せられる唇。自分から舌を差し出して舐める。下唇を前歯で軽く挟んで挨拶し、それから奥へ入り込む。男の口の粘膜は甘かった。自分が苦いから余計にそう思う。

「……ア」

 腫れて充血した裂け目に指が添えられる。軽く触れるだけ。そこは濡れて湿って女のような音をたてる。ぬるりとした液体が出血なのか別のものか、もう自分でも分からない。

「、れて、」

「本気?」

頷く。少なくとも本心からの望み。指先を含むととろり、中から流れ出る感触。震えながら耐えた。

「嫌なんじゃないの、本当は」

 違う。なにをされてもいい。外からも内側からも俺を喰らって骨まで齧っていい。だから、頼むから俺を俺でいらせてくれ。

「好きだよ」

 優しい言葉に、狂ったように頷く。

 

 夜が明けて。

 今度こそ本当に、指先も動かせなくなって。

 なんでもしたのに。あんなに尽くしたのに。

 冷たい液体が静脈に注がれる。あんたの好きな白雪姫だよと、男は静かに告げた。

 Branca de Neve。 処女という意味も含んだ、その名の粉末は人体を快楽につきおとす魔物。

コカインの本場ペルー、ボリヴィア産の純白の結晶。粗悪品には要注意だ。鼻から吸い込むぶんにはまだいいが、純度の低いそれを血管に打ち込んで急死するケースがアメリカでは最近、多発している。

 そんな薬学の講義を思い出す。冷たい液体が体内に混ざる感覚に寒気がする。ふるりと震えると注射器を置いた腕が抱きしめて、優しく撫でてくれた。

「大丈夫?」

 よく分からない。

 苦痛を紛らわすために医療にも使われるモルヒネならば急速な陶酔がやってくるけれど、コカインの症状には個人差がある。それほど顕著ではない。耐性形成、身体的依存ともになし。禁断症状の程度は低から中。ただし精神的依存は薬物依存中最高ともいわれ、摂取の常習によって社会的行動に害を与える可能性も高い。

「オモチャなんだな、俺は」

 分かっていたことだ。だけど改めて思い知らされ、絶望に閉ざされた胸で呟く。

「俺を廃人にしても、お前は平気なんだ」

「うん」

 ためらいのない肯定。

「なっちまえよ。だいたいあんた、なんでも出来すぎなんだよ。だから誰からも欲しがられて、おかげで俺に傲慢だ。……だろ?」

 頬の、涙の跡を舐められる。

「俺専用の娼婦しか出来なくなって。心配しなくていいよ。俺、絶対棄てないから。棄てられないよ。だって」

 兄弟だもんな。耳元で囁かれる言葉がまるで呪いのよう。

「カーテン、開けてくれ」

 呟くとそうしてくれた。部屋に明るい光が満ちる。

「こっちに」

 招きよせ、ベッドに座らせ、腕をとる。最初に内側、そしてわきの下。膝の裏、内股、足の指の間。

「くすぐったいって。なに探してんの。注射針の跡?」

「そう」

「ないよ、そんなの。俺したことないから」

 疑うようにじっと眺める。男の困ったような顔を。

「本当だって。鼻から吸ったこともねぇよ。仕事が仕事だから。薬物なんかマズイだろ」

「本当だな?」

「本当だよ」

「……良かった」

 心からそう思う。俺は本当によかったと思った。ほっとした気持ちのまま、汚れた裸の身体で抱きしめる。

「お前は絶対、するなよ」

「ハイになってんの、あんた」

「さぁ……」

 分からない。これが陶酔の状態なのかどうか、なんて。ただ腕の中の生き物がいとおしかった。

「コカインで優しくなるって聞いたことはあるけど。だから女にさせたがる男は多いって」

「約束してくれ。麻薬には手を出さないって」

「分かった。約束する」

「こんなものを密輸も、もうするな。絶対に密告される。必ず」

「しないよ。ってゆーか、それ日本に来てから買ったんだ」

「悪いことばかり覚えて」

「ごめん。……アニキ」

「うん」

「お前はするなよ。絶対だ」

「うん。ごめん」

 きゅっと抱きしめられる。応えて頭を撫でてやる。髪の毛の隙間にキス。

「ごめんな」

「いいよ。俺が悪かったんだから」

 本当にそう思った。

「お前は少しも悪くない」

 嘘を、言ったつもりはなかった。たしかに悪いのはいつも俺の方。いつまでも掌に置いておきたかった。誰にも何にも、お前を渡したくなかった。お前の夢にも緒美にも。だから彼女と結婚を、するつもりだった。俺が悪いよ。酷いことしようとした。罰を受けても当たり前。

「お前は何も悪くない」

 慰めたのに泣きそうな顔をされて困った。