あの日あの時、君をなくした 6
少し眠ればと俺は言った。そうだなと彼は頷き、
「風呂入ってから」
ふらっと立ち上がる。とっさに支えようとしたが、壁に手をついてなんとか自力で立った。
「大丈夫かよ、風呂。溺れるんじゃねぇか?入れてやろうか」
「そうだな。責任とってもらおうか」
おきまりの後始末のあとでぬるめの湯に入れる。バスタブの中で手足を伸ばす様子が白い花みたいだと、思う間もなかった。
「喉が渇いた」
「バスオイル入れろ」
「換気扇まわして」
次々に用を言いつけられる。それがなんだか嬉しくて、はいはいと言うことをきいた。
痩せた身体を湯に浸したままで洗ってやる。力が入らない肘と膝が可哀想だ。疲れる前に上がらせて、身体を拭いてパジャマで包んでやる。
「寝る前になんか食べた方がいいけど、食べれる?」
「たぶん」
「なんかあるかな」
「さぁ」
キッチンへ行くと冷蔵庫にも食品棚にも食べ物が満載されていた。生肉や野菜は少なめで、レトルトや冷凍食品、インスタントものが多い。真空パックのハムとかサラダの缶詰とか。俺が不思議な顔していると、
「間宮さんだろ。去年の年末年始、死にかけたからな」
俺は返事が出来なかった。殺しかけたのは俺だった。服をとりあげて外に出れなくした。俺は仕事関係で外に出ることが多くて、この人がなにも食べてないなんて気づかなかった。この人も、俺には言わなかった。
「なにか作ってくれるだろう?」
「あ、うん」
冷凍パックをトレーごとレンジにかけただけの簡単な食事。ファミレスの味に似たTVディナーがなんだか懐かしくって、センチメンタルな気分になりかける。
そこで電話が鳴った。
「出なくていい」
ミックスベジタブルの粒をフォークで掬いながら静かに、彼が言う。
「病院からだ。欠勤したからな」
「今日、仕事だったの?休み、いつから」
「ない。クリスマス明けから三賀日は勤務だった」
「俺が居るマンションに帰ってこなくて済むように?」
「下っ端だからこき使われるのさ」
返答を、彼は微妙にずらす。誤魔化されたというより俺の仕打ちを責めないための、優しさを感じた。聞き覚えのある台詞だった。昔、まだ彼が俺に本当に優しかった頃、多忙な日常を気遣うたびにそうやって笑った。
「寝る前に委任状、書いて」
湯上りの彼の肌が平温に戻っていく途中の、透きとおりそうな頬に掌に見惚れながら、告げる。
「手続きが要るから。色々。このマンションも早々に引き上げるぜ。退職届も出さないと」
「……」
「あんたもう医者は出来ないよ。だろ?」
「……」
「パスポートも出しといて。移動経路の関係でビザ要る国があるから。分かった?」
「あぁ」
「大事にするよ。ってーか、既に大事だけど。引退する頃には億万長者になって、モナコに城くらい買ってやれるように頑張る」
言ってるうちに楽しくなってくる。誰かのために頑張れるのは楽しい。この人のためなら尚更。そうだよ昔っから、俺はこの人を喜ばすためなら何だって出来た。
「グアムとかがいいな。暖かいところがいい」
そんな風に言われてもう、俺は有頂天だった。
「あんたの好きなところでいいさ」
笑った。涙が出そうになる。
「好きだよ。愛してる。……ごめんな」
でも後悔はしてない。後悔どころか、満足しきってるよ。あんたに優しくされたらそれだけで幸せ。クスリがあんたに残酷なことは分かってる。でも、俺のそばからは離さない。
彼をゆっくり眠らせて、俺はチームのマネージャーに連絡をとった。手続きを代行してくれる行政書士を頼むために。藤原が車の賠償よりも乗っていた人間の怪我を心配していたと告げられてほくそ笑む。ザマァみやがれ。俺からこの人を獲れるって本気で思ってたのかよ。お前になんか、やらねぇよ。
「注射は嫌だ。吸引にしてくれ」
丸一日眠り続け、目を覚ました人をシーツに押さえつける。あの優しさを途切らせたくなかった。冷たい拒否と沈黙の悪意に、俺はもう、充分すぎるほど痛めつけられてた。
「なんか不安なんだよな。本当に鼻からで効くのかよ」
「効かなかったら射していいから」
「あんたがそこまで言うなら」
粉末を鼻先に差し出す。静かな深呼吸。軽い粉末が形のいい鼻梁に吸い込まれる。待ちきれなくって、後ろ髪を掴んで紙包みに押し付ける。逃げたそうに震えながら、それでも彼は呼吸を繰り返した。
「……どう?」
身体を返すと、尋ねるまでもなかった。潤んだ目が俺を見上げている。指がさし伸ばされ、濡れた舌が俺の、下唇を舐める。
「啓介」
「うん」
「……」
耳元に囁かれたのは昔の決まり文句。この人の方から誘ってくれる時、いつも使っていた言葉。甘い声音で、齧って、と。
「何処」
「胸と……,下」
「下の、何処」
「……まえ」
ご希望どおりパジャマのボタンを外し、胸元に齧りつく。桜色の突起が最初は震え、やがて艶めきだす。彼の手が俺の首筋に添えられて、もっときつくと、押し付けようとする。
「相変わらず好きだよな、ココ」
舐めながら囁く。舌の動きが刺激になるのを承知で。びくっと腰を揺らして背中が反る。俺の手がパジャマの下に這入りこみ、下肢の狭間を捉えたから。
「ック、ア」
「気持ちいい?」
「んー、ん、あ、……、ッ」
舐める動きと連動して下を擦り上げる。同じリズムで彼が踊りだす。甘い歌声とよがって跳ねる肢体がたまらないほど官能的だ。思わず喉が鳴る。三日間、ずっと食いついていたのにまだ、凶暴なほど、この人に飢えてる。
「ひぁ、ん、…、すけ、……齧って」
「はいはい」
ご希望通り歯をたてる。前歯で扱いて、けっこうきつく噛んだ。
「アーッ」
甲高い悲鳴とともに、弾けそうになる果実を、
「早すぎ」
嬲りながら握り締める。
「いや、イヤっ、も、」
「嘘つき。たっぷり愉しみたいだろう?」
「や、嫌だ。んーッ」
固くしこってコリコリの乳首を舌先で、ネロリと舐めてから離した。濡れた先端に外気が冷たかったらしい。そこがまるで、独立した生き物みたいに震える。
「生意気ぃ」
「なに、が」
「あんたじゃねーよ、これ」
硬い指先で弾くと、悲鳴をあげて身体をよじる。
「あんたが胸とか、こことかで」
前の果実を拘束したままで後ろに指を挿れる。濡らさないままの指を、腫れて痛んだそこはそれでも、優しく柔らかく迎え入れる。
「痛い、イタ……」
「ホント?ヒクヒクいってるぜ?」
ひくついて俺の指を包んでるのは本当だった。けど多分、痛いのも本当。掴んだ前がキュッと竦んだから。
それでも奥へ、容赦なく挿し入れる。指一本の刺激さえ神経が剥けたそこには苦痛らしい。びくっびくっと痙攣しながら、自分から膝をたてて脚を開いていく。少しでも苦痛を和らげるために身に付けた、哀しい反射。
「すっげぇ、やわらか」
それにつけ込んで更に奥をさぐる。薄い粘膜一枚だけのそこは女のものより随分と脆くて薄くて、無防備だ。身を守るための粘液さえ分泌できず、ただ翻弄されて蠢く。
「なか入りたくなってきたな」
もっと悶えさせたかったけれど。
両手はどっちも抜きたくなかったから口で下着ごとパジャマをずらす。膝くらいまで下がったのを、頭をくぐらせて両足を肩に担ぐ。膝で俺を挟む姿勢に泣き声があがる。
「その声が、俺を煽ってるの分かんない?それともわざと?」
だったら期待に応えなきゃ、な。
もう一度、胸元の飾りを齧る。
「イヤァーッ」
極みの声に近い高さで、悲鳴。
「、らして、くれ。……濡らして」
「大丈夫だって」
「無理ッ」
「俺、あんたの乾いてる中もスキ。俺のでベタベタなのもいいけどさ」
最初はやっぱりさらっとしてんのがいい。最初じゃないと出来ないし。
「いくぜ」
「ヤ、……舐めるからッ」
無視して宛てて、貫いた。
「ヒッ、ア、……タイ、イタ」
悲痛な悲鳴が甘く掠れて耳元を撫でる。
「いや、けいすけ、啓介」
抱き合う姿勢で俺の背中に腕をまわし、必死にすがりつく。動きを少しでも阻むただと、分かっていても、嬉しい。
「ゆっくり、キテ……」
頼むから。
お願いだから、乱暴しないでくれ、と。
願う泣き声が愛しい。優しく慰撫してやることも、のたうちまわるまで痛めつけるのも俺の自由だ。
凶暴な衝動がわく。食い殺したい、気持ちになってくる。
「あんたが、逃げたくなるのも、当たり前だと、思うよ」
「動か、ないで。イタイ、タ」
「痛めつけたいもん、俺。なんで、だろうな」
あんたを愛してるよ。それは本当のことなのに。
あんたを痛めたい。切り裂きたい。あんたが逃げるからってのは言い訳。大人しく腕に居る今さえ、皮膚を肉を噛み千切って、痛みと恐怖に震えて俺に、ひれ伏すところが見てみたい。
「イヤ、ヤーッ」
噛み千切る勢いで胸に吸い付く。同時に突き上げ、更に熟れてしたたる果実には爪をたてた。
「ッ、あ、いや、……、アンッ」
可哀想に。痛みと悦さを同時に与えられて、混濁した感覚に涙を流すしか手だてのない無力な人。そうやって、俺に晒していればいいんだ。あんたの弱さを。傷口を。泣き声を。
「啓介、ケイ、……、ン、フッ」
そして身体は快楽に逃げ込む。俺をイかせりゃ楽になれることを知ってる。脚を抱えられた不自然な、苦しい姿勢で肘をついて、腰を必死に揺らめかす。
「いい?」
問いかけに濡れた瞳がなまめかしくまたたき、頷く。なかが俺を誘惑する。思惑通りイかされそうで、俺は一度、ギリギリまで抜いた。
「ヤ……ッ」
次に来る衝撃を予想して腰がよじられる、瞬間を逃がさずに。
突き入れる。ばっちり、角度をつけて抉れた。彼の瞳に涙があふれてとうとう糸を引いて流れる。そのまま暫くじっとしていた。けど。
腰を浮かしてよじったままでいることも出来ずに、彼は身体を戻そうとする。当然、俺を包んだ粘膜は捩れる。これが痛いらしい。でも俺は無茶苦茶、気持ちいい。上下と抉るのは思い通りだけど、この斜めの擦れは、なかなか出来ないから。
「っ、う…、ン」
本格的に泣き出した人の腰を抱えた。果実から手を離しても弾けられないくらい、抱いた身体は竦んで震えている。
おれが、一番好きな、状況。
「スキだぜ」
告白はもう、彼を嬲る嘘にしかならなかった。
「愛してるよ、あんたを」
憎んで、痛めて、傷つけて。それしかもう、この人には出来ないのに手放せない。
衝動のまま突き上げる。引き攣った悲鳴さえろくに上げられない、呼吸もままならない苦痛の中でそれでも。
しなやかな腕は俺の背中を、手放すまいとするように抱いた。
愛しているよ、この世であんただけ。
壊すことしか、もう出来ないけれど。
酷い形のままでそれから二度、彼のなかにぶち撒けた。最後は快楽を感じて、含まされた俺だけでたらした彼が可哀想だった。身体を離して狂気が薄れると悪い事した気になって、濡れたタオルで汚したそこを拭ってやる。
「……痛かった?」
放心したように身体を投げ出した人に尋ねる。拡散してた瞳孔がゆっくり収斂して焦点を合わせて像を結ぶ。彼の瞳に映った俺の表情は、ひどく後悔、しているように見えた。
本当は満足なのに。
「いい。自分で、するから」
ゆっくり起き上がり俺からタオルを奪おうとする。優しく肩ごと上体を抱くことで、俺は彼の行動を阻んだ。
「愛してんだよ、あんたを」
顎を捉えて視線を合わせ、目を見て告げる。嘘つきと、言われる前に唇を塞いだ。
濡れた瞳がそれでもなお、なにか言いたそうに開いていたけれど、やがて静かに閉じられる。それで許したことになる。可哀想に。コカインの幸福感に紛らわされて、俺を罵ることさえ出来ないで。正気のあんたなら寸鉄人を刺す台詞を、ぐさりと俺の胸につきたてるだろうに。
「あんたが死ぬまで、放さないからな」
決して自由にはしない。
パスポートと財布を出させて中身を確認した。
「ゲ。期限半年きってるじゃん。ビザ申請出来ねぇよ。しょーがねぇな。えーっと、今は十日で発行できるから、あーでも年末だし」
携帯で連絡をとると、30分もかからずにバイク便がパスポート申請書を持ってくる。チップを一万渡して待たせ、
「はい、こことここ、署名して。裏の委任欄にもな」
サインをさせようとしたら、
「……ダメだ」
「あー?なに、いまさら逆らう気?」
「指が震えて字が書けない」
見るとその通りだった。その時、俺は本当に、この人が薬物中毒になっていることを実感した。
「俺がしとくよ。大丈夫だろ。字、似てるから」
容姿にも性格にも似たところは少ないけれど、字だけは子供の頃からよく似てた。当たり前かもしれない。俺に字を教えたのはこの人だ。
財布から運転免許だけを出す。身分証に必要だったから。あとは目の前で破いて折った。クレジットカード、勤務先の身分証、定期券、必要なかったけど現金まで。何も持たないことを思い知らせたかったから。
バイク便に書類を託して、俺は部屋に戻る。彼はルーズリーフを一枚、取り出してリビングのテーブルに置いた。
「代筆してくれ。間宮さんに、一言」
「わざわざ家政婦に、なに言う必要があんだよ」
「お世話になりました有難うって」
「面倒くせぇよ」
「頼む。……最後の頼みだから」
言ってる言葉の意味は分からないまま、哀願の口調が気に入ったから書いてやる。そして。
「行くよ」
着の身着のまま、身体だけを連れ出す。
車の助手席に乗せても彼は、何処に行くのかとも聞かなかった。大人しく、静かに俺に寄り添う。
「横浜のホテル。夜景がいいらしいぜ」
告げるとそうか、と呟いた。ホテルにも夜景にも興味はなさそうだった。ただ俺の為に微笑む。
「楽しみだな」
優しい嘘が、俺の胸の。
とおに砕けた筈の罪悪感をかすかに萌えさせる。
後悔しないためにアクセルを踏んだ。
「眠っていいか、少しだけ」
「好きにしろよ」
あぁ、と答えて目を閉じる。バックミラーの位置を調節してその顔を見た。
痩せた。
もともと痩せぎすだったけど、ちょっともう、不健康とおりすぎて病的なくらい。手首には丸い骨が浮いてる。やせるのも当たり前だ。食べてないんだから。
覚醒剤が食欲を減退させ、おかげでダイエット用に高校生なんかが使うってとんでもねー話は聞いたことがあった。アンフェタミン系とメタンフェタミン系を総称して呼ばれる『覚醒剤』の範疇にコカインは入っていない。が、食欲の減退を始めとする作用は殆ど同じだ。一時的な性欲の高まりもアップ系ドラッグに独特の幸福感も。身体的な依存より精神的な依存症状が主であるところも。
違うのは覚醒剤が精神を収斂させ集中力を高めるのに対して、コカインは拡散させ気を大きくする作用があること。実際、この人は俺にひどく優しくなった。そして食べたがらずに抱かれたがる。泣くほど痛がるくせに、それでも。
睫の翳りが痩せた頬に痛々しい。よく眠る。眠ってばかりだ。
ふっと不安になった。この人が逆らわない理由に思い当たる。来年のことを話す俺の言葉に、曖昧に頷くだけの無関心。その頃には生きていないとか、まさか思ってるわけじゃないよな?
考えすぎだと思った。薬物中毒になったって、こんなに早く死にやしない。弱るのは何年もかけてだ。でなけりゃヤクザヤ売人たちが肥え太る筈はない。
「ホテルについたらメシ、食うぜ。嫌がっても食べさせるからな」
不安を打ち消すように告げる。けっこう大きな声だったのに、ぴくりとも反応しないまま、彼は眠り続けた。