あの日あの時、君をなくした・7

 

 大晦日の夜には年越しそば、新が明けたらお節の重箱と雑煮の椀が届く。雑煮の種類は出身に合わせてくれるというので俺は西日本風の澄ましをリクエストしておいた。うちは群馬だが母方は九州の出身で、円餅を焼かずに煮込んで食べる習慣だった。

「あんたと二人で正月って初めてかも」

「そうだな。実家の正月は来客ばかりで情緒どころじゃなかったし」

「ガキの頃って、俺、ホントに正月、大嫌いだったよ。お袋はピリピリしてるし親父は付き合いで飲まされて酔っ払ってるし、どういう関係かよく分からない親戚が山のよーに来るし」

「そうだな。俺も、あまり好きじゃなかった」

 静かに言った人はでも、雑煮の出汁だけ口をつけてあとは残した。コカインの高揚時間は短い。ほんの二十分か三十分。それからは反動のように倦怠がやってくる。無気力な倦怠の中でただ、俺のためだけに微笑む。

食べろというと、うんと返事はする。でも返事だけだ。目を離すと、すぐに箸が止まる。

「口に合わない?なんか外に食べに行く?」

 ホテルの割烹に作らせたそれは、湯葉巻きにキャビアを載せるような気取りが嫌味だったけど味は悪くない。

「そんな事はないよ。ただ本当に食欲がないんだ」

「ちょっと薬、止めようか。あんたに冷たくされるの怖いけど」

 俺も箸を置いて彼の頬に触れる。差し出すように顎を上げて目を閉じる。静かな表情が、遺影じみててぞっとした。

「俺も怖いよ……」

 呟きの、意味はわからなかった。

 

「啓介、啓介ッ」

「うん」

 抱きしめてやる。嗅がせるのをやめて一日で禁断症状が出た。もともとコカインは出やすい上に、急に中毒にしたから身体に耐性がついてない。

「嫌だ、なぁ、……苦しい」

「あんたがメシ、食わなくなるのが悪いんだよ」

「クスリ……」

「一回抜けて、メシ食ってからな」

 冷や汗を流して震えるのを暖めていると、

「…、なら、して」

 細い声での懇願。

「してくれ。抱いて」

「それもメシ食ってから。あんた力が抜けてて、心配なんだ」

腕も足も、背中からも肉が落ちた。だけならともかく、力が入らなくなってる。部屋の中を歩くのがやっとな感じで、本当にヤバいと、俺は思い始めていた。

「嫌だ。痒いんだ、啓介ッ」

「気のせいだって。……、馬鹿、あんたなにやって」

 不穏な気配に打てを伸ばすと、彼は自分で下肢の狭間を掻き毟っていた。形のいい爪の先には赤い血が滲んで。

「いや、離せッ」

掻きたくて身悶える身体をきつく抱えなおし、手首を後ろ手に拘束する。

「や、イヤだ」

「なんてことするんだよもぅ。俺が怪我させないようにこんなに気ィ使ってるのに」

「していいから、怪我、してもいいから、啓介ッ」

「ダメ。そこ俺の天国だから」

「啓す,ケイスケぇ」

 艶っぽい泣き声。腰にすりつけられる果実。可愛いなぁと、俺は改めて思った。この生き物は綺麗でとても可愛い。甘い嗚咽を漏らしながら俺に、抱いてくれとせがむ。

「擦って。なか、裂けてもいいからッ」

「勝手なこと言うなよ。俺んだぜ」

「る、くせに。いつもは、イヤって言ってもするくせに」

「俺は怪我させないもん」

「なんでも、するからッ」

 泣きじゃくる人に、言葉どおりに、なんでもさせた。何日か前にも同じ事をしたが、あの時はコカインを打たれることがイヤでいうことを聞いた。今は欲しがって俺の股間に膝をついて喉を差し出す。顎と髪とを掴んで揺さぶると、とろける感触に気が遠くなりそう。

「のめよ……」

 外せないよう押さえつけ、そんな言葉で予告する。顔は見えない。舌と背中と、白くて丸い腰が物欲しげに震える。愛しているの言葉の代わりに彼の鼻先が、俺の毛並みに埋まるほど引き寄せる。

「は……」

不覚にも声が漏れた。柔らかで優しいなかにぶち撒ける感触。突き破りそうな勢いに彼が身体を、引こうとするのを許さない。咽ながらそれでも飲み込むまで塞いでいると、ようやく喉がごくりと嚥下した。彼の身体の中に入る。たんぱく質には違いないから、やがて消化され同化されて彼になれるだろう。ふと、吐き棄てた粘液が羨ましくさえなる。彼の体の中はどんなだろう。溶け合うときはどんな感じだろう。

「綺麗にしてくれよ」

 羨ましい苛立たしさを彼にぶつける。自分で指を突っ込めないように、後ろ手にきつく縛った腕のせいで、膝立ちの姿勢しか出来ない彼に。苦しい姿勢のままで彼は唇を寄せる。粘液にまみれた竿も睾丸も、優しい下が舐めてゆく。

「して、くれ」

 痩せた頬をそれに押し付けられる。

「なかにいれて。お前に、突き刺されたい」

「じゃあ大きくして」

 俺の言葉に彼は目を開けた。さっきもそう言ってさせて、結局は唇に呑ませた。もちろん今度もそのつもりだったけど、

「してあげるから、あんたが大きくして」

やさしい声を出すと、彼は逆らわなかった。長い睫を伏せてもう一度、しゃぶる。その背中に逆向きに屈んで背筋に指を這わせ、終着点にたどり着く。

声の出せない彼の、唇の粘膜が震える。欲しがるそこを嬲るように、指で周囲だけを撫でる。耐え兼ねた彼がしゃぶりながら泣き出しても、俺はそのまま、彼を苛み続けた。

 

 泣きながら、疲れきって彼は気を失うように眠り、翌朝。

「ご機嫌いかが、お姫様」

 目を覚ました彼にキスをする。不安で昨夜は殆ど眠れなかった。俺が寝ているうちにクスリからさめた彼が目覚めたら、絶対、逃げ出すと思ったから。

 だからまた服を着せてない。靴もクロークの中に隠した。こんな高級ホテルから、裸で出て行くわけにはいかないだろう。それでも不安で、手首を押さえつける。

「気分は?」

 尋ねても答えない。かといって、いつものように俺を無視しているのとも違う。無視どころか彼は俺をまっすぐに見て、何かいいたそうに唇を開く。

 聞きたくなかった。ろくな事じゃないのは分かってた。だから唇をキスで塞ぐ。あんたの痛い言葉は嫌だ。一生胸に、刺さって抜けない棘になる。

 苦しさに喘ぐまでディープなキスを繰り返し、そっと離す。また何か言おうとしたから塞ごうとしたけれど、

「タバコ」

 思いがけない単語に動きを止める。

「持っているだろ。一本くれないか」

「吸うのかよ?」

「一本だけ」

「そりゃ、いいけど」

 ベッドから降りて、さて何処に入れてたっけと少ない荷物を漁る。この部屋にこもってからそういえば一本も吸って居なかった。この人と、ずっと同じ部屋に居たから。この人さえ居れば俺は簡単に禁煙できるらしい。

「あれ、火は」

コートのポケットから潰れた箱は見つけたがライターがない。

「要らない」

「?」

 不審に思いながらもタバコの箱を渡す。受け取った彼はベッドに座り、隣に来い、という風に横を叩く。言われるままに、近寄って座った。

首に。

絡みつくように腕をまわされて。

息を詰めた俺に彼は、くすっと笑い声。

「なに緊張してんだ」

「首、締められるのかと思って」

「馬鹿」

「だってさ」

 そうされて当然のことをしたから。

 彼の背中に腕をまわして、抱き合う。顔を寄せてキスしようとしたら拒まれた。でもその拒み方が、深く抱き合う姿勢を崩したくなくて、みたいな感じだったから穏やかな気持ちのままで引けた。

「どしたの。えらくサービスいいけど、なんかたくらんでる?」

「信用ないんだな」

「当たり前だろ。あんたをスキだけどぜんぜん信じてないぜ」

「俺もだよ」

 くすくす笑いながら、彼は潰れた箱からタバコを取り出す気配。火がなくてどうするつもりだろうと、背中をそらして見ようとしたら絡まる腕に阻まれた。

 プツッ、とフィルターの千切れる音。ピリリ紙の裂ける音。

「なにしてんの?」

「自殺」

 あっけなく告げられた言葉の意味を、俺が飲み下す寸前に、ほぐしたタバコの細かい葉を彼は嚥下した。

「ちょ、おいッ」

 止めて吐かせようとする。腕をふりほどいて。でも出来なかった。力なく放り出されるばかりだった彼の腕は、信じられないほどの力で俺を絡める。蛇みたいに。水の縄みたいに。焦り過ぎて身体をうまく動かせない俺は無駄に、足掻くばかりだった。

「タバコ一本分のニコチンは致死量の二倍。煙で吸ったら殆ど吸収しないけど、経口なら確実に死ねる」

 歌うような声。幸福な夢を語る、みたいな。

「暴れるなよ。抱かせてろ。もう少しだけだ」

 俺は叫んだ。言葉にはならなかった。俺のパニックを尻目に、

「信じてないのがお前だけだと思うな」

 いっそ穏やかな口調で彼は続ける。悪意の嘘でもクスリの優しさでもない、本当の声を、二年ぶりに聞いた。

「俺だってお前を信じられない。……愉しんだだろう」

なにがと尋ねたかった。でも声にならない。

「お前は俺を愛してないよ。もちろん大事でもない。俺を痛めつけるのが好きなだけ。禁断症状出させて苦しめて、愉しみたいんだ」

 違うと、言えなかった。苦しみうめきのたうつ彼の姿を、確かに俺は口の中が酸っぱくなるほど興奮して眺めた。嘘はつけなかった。つきたくなかった。この人を本当になくすかもしれないという、深刻な恐怖の前で。

「どうせもう、長くは生きないのに、これ以上お前に遊ばれるなんてごめんだ」

「ア…、ニキ」

「お前を愛してたよ。だからお前のオンナになったのに、お前は俺のことを張り合って負かさなきゃいけない雄同士みたいに思ってる。お前に敵意を向けられるのはもうイヤだ。……辛かった」

「アニキ、アニ」

口からまともにこぼれる言葉はその一語一語だけ。

「俺を愛してるって言え。最後ぐらいうまく騙してみろ。出来たら守護霊になってやるよ。……お前を」

 守ってやる、と。

 言われた途端、蛇口が壊れたみたいに涙がこぼれる。

 なんてったの。今、あんたなんて言ったの。

「ベッドの下に遺書がある。うまく立ち回れ」

「イヤだよアニキ、なに言って……、嘘だろ、死ぬなよ」

俺を置いて、棄てていかないで。

「アニキ、しっかりしろって、アニキッ」

身体を揺する。人形みたいな睫も目蓋も、ぴくりとも動かない。

 絶望に、呼吸が止まりそうだった。

「アニキーッ」

 俺の悲鳴に反応して、ほんの少しだけ開いた目が、優しく微笑む。

「……て、る」

細い呟き。優しい声。

この人を壊してしまいたいと、ずっと願っていた。この手で引き裂きたいと。想像するたびに甘い衝撃が走った。

なのに。

実現しかけてる状況に俺は泣きだす。

「イヤだってば、アニキッ」

 俺が殺すんじゃない。自分で死んでいく。でも死なせるは俺。壊される前に自分で砕ける人と知ってて追い詰めた。

 愛してるって、あんたが?誰を。

 お前をって誰のこと?まさか、俺?

 辛かったって、あんたが?嘘だろそんなの。

 遺書なんか何時の間に書いたの。立ち回れって、それは、俺が罪を被らないように?

 そうだよ、俺はあんたに勝ちたかった。だって俺は雄だから、強靭な同類は無視できない。一緒に居るには序列が必要で、俺は絶対、あんたより上に行きたかった。

 いつからか、あんたが勝負を放棄したのは気づいた。腹が立ったよ。俺の相手なんかしてらんないのかと思った。なめやがって、っていう怒りがあって、それは多分、敵意だったろう。

 俺に絡んでいた腕が力をなくす。ずるり、身体がずれていく。俺は必死で抱きかかえた。離したら死んじまう、そんな気がしたから。

 指先が冷えてる。でも抱きしめる背中や胸はまだ温かい。これまで冷えてしまうのか。彫像みたいに整った身体も、魂が抜けてしまえばただの塊。血が通わなくなれば腐って崩れて、この世からなくなる。

 イヤだ。

 そんなのは、絶対に、嫌だ。

 死なないで。消えないで。何処にも行かないで。俺を一人に、しないで。

 ずっと、隣に、居て。