あの日あの時、君をなくした・8
初老の頑固そうな医師は、頑丈な口元をぐっと噛み締めて渋面を作った。
「お願いいたします」
優しい女が深々と医師に向かって頭を下げる。
「我々でなく本人の将来の為に、どうぞ、内密にお願いいたします」
必死の声。俺の為にどうしてさんなに一生懸命になってくれるのか、感謝する前に不思議な気がした。
「お願いいたします」
繰り返される言葉。でも一回ごとに、切ないくらいの気持ちが篭っている。それが頑固な医者を動かしたらしい。
「幾つかね、君は」
老眼鏡越しの視線が俺を見える。
「二十七、です」
それが初めて、俺が医師と交わした言葉だった。
医師は再び押し黙り、そして。
「君ときみのお兄さんが、あと十歳若ければ信用できなかった」
苦く、真摯な声を出す。
「もう十歳、歳をとっていれば検討の余地もなかったが。……社会の中で責任ある仕事をしていた君たちを今度だけは信じよう」
「有難うございます」
更に深々と下げられる女の頭。俺も頭を下げた。医師と、彼女に向けて。
「ただ一つ条件がある。兄上の医師免許は返上させたまえ」
はっとして顔を上げると、老医師は巌のようにびくともしない強固さで俺を見る。
「それが沈黙を守る条件だ。いいね。同じ医療に携わるものとして、麻薬に手を出すような人間に患者の命は預けられない。お兄さんの代わりに今ここで、君が約束したまえ」
「……はい」
「よろしい」
俺とオーナーに頷いて医師は出て行く。ほっと、肩を落とすオーナー。
「ごめん」
駆けつけて今まで、ずっとついててくれた人に頭を下げる。
「ごめん。正月早々に、こんな迷惑かけて」
「正月どころじゃないでしょ。でも助かってよかったわ、お兄さん」
こんなひどい迷惑をかけて、それでもあの人の心配をしてくれる、女の人の優しさが切ない。
「うちに来なさい。お兄さんは当分動かせないでしょ。うちは近くだから」
「ついててやりたいんだけど」
「集中治療室は関係者以外、入れないわよ」
「ロビーか何処かに居るよ。離れたくないんだ」
「いいから来なさい。あんたまで倒れたら困るでしょ」
オーナーは優しい。でも、それは彼女が真実を知らないから。
「お兄さんのこと、これからあなたが支えてあげなきゃいけないのよ。しっかりしなきゃ」
うん、と頷いて、袖をひかれるように彼女について行く。歩きながら、足元から積もる自己嫌悪に、膝が揺れそうになる。
救急車は呼ばなかった。チームオーナーに連絡して、そこから、メインスポンサーのメーカーの産業医に連絡がいった。
産業医は海外旅行中だったが、その父親が地元で医院をしていて、自殺未遂をした人はそこに運び込まれた。胃洗浄に点滴、抗生物質の投与という一連の治療の中で医師はコカイン中毒に気づいた。戦後の混乱期を知っている医師は薬物中毒者に対する独特の勘があると、昔、あの人が言ったことがあった。
事情の説明を求める医師にあの人の遺書を差し出す。ホテルの便箋に、中毒者独特の震える文字でつづられた文面は、
『恋愛に失敗し、コカインに溺れました。
弟が気づいて辞めさせてくれましたが、
それでも生きていくことは出来そうにありません。
ご迷惑をおかけします』
気弱な文面はあの人らしくない。誰に宛てたのかもはっきりしない曖昧さもぜんぜん、らしくない。当たり前だ、これは遺書じゃない。目的はただ一つ、はっきり出てくる『弟』の罪を庇う為の嘘。
世界中と引き換えにしてもいいくらい必死に助けようとした筈だったのに。
ちゃんと傷を最小限にしようと、計算の働く自分が嫌になった。
帰る途中で集中治療室のガラス越しに彼を見た。意識はまだ戻っていない。
「綺麗な方ね。こんな方でも恋愛に失敗したり、するのね」
兄貴だぜとか男だとか、そんなお約束の台詞は言わなかった。ガラスごしに見る彼は確かに、整いすぎて実在感を失った作り物みたいだった。
横浜郊外の閑静な住宅街に、オーナーの自宅はあった。彼女の夫は華僑で香港に住んでる。この家、というか屋敷は彼女が日本に滞在するための別邸。それでも高崎の、俺の実家の三倍近い広さ。
「お帰りなさい。あれ」
オーナーに娘が居るのは知っていた。小学生になるかならないか、くらいの子供は、母親に似た大きな目で真っ直ぐに、俺を見上げた。
「この人しってる。女にだらしないレーサー」
「……」
「ダメよ。本当のことをそんなにはっきり言っちゃ。その人、積年の悪事が祟って本命にひどい仕打ちを受けたばかりなの。優しくしてあげなさい」
「コーヒー飲む?」
「あ、あぁ」
「お母さんにもちょうだい」
「はぁい」
軽い足音が奥に消えても、俺は動けなかった。
この人はいま、いったいなんて、言った?
「座りなさいよ。カマを掛けてみただけ。彼があんまり綺麗な方だったから」
「……、誰にも」
「言いやしないわ。そんなにひきつらなくっても、いいわよ。ちょっと驚いたけど女は度胸だし」
座りなさいともう一度促され、ぎくしゃくソファーに腰をおろす。
「結婚しそうな好きな人って彼だったのね。その結婚がうまくいかなかったの?」
足音が戻ってきて、オーナーはコーヒーに口をつけた。俺の前のテーブルにも置かれたが、俯いたまま、俺は顔を上げられないでいた。
「美沙ちゃん、撫でてあげなさい」
「お母さんの方が喜ばれると思う」
「お母さんはお父さんの奥さんだから、お父さん以外の人を撫でてあげられないの」
「ふーん」
小さな掌がそっと、俺の膝に置かれる。
「寝たら?客間に連れてってあげるから」
女はみんな優しい。俺の女が俺に殺されながら、それでも俺を庇おうとしたように。
翌日。
病院に面会に行って事務所に通された時点で、俺は婦長の話の内容がわかった。
「お兄さんは、あなたが嫌で会いたくないと仰ってるのじゃありません」
落ち着いた安定感のある声。ありすぎてキツク聞こえるが、同様動転する家族の気持ちをおさめるにはこれくらい必要。
「自殺未遂をされた患者さんを責めてはいけません。あなたがお責めになると申し上げてるんじゃないです。ただ、ご家族はどうしても、心の中に踏み込みがちですから」
少し時間をあげて下さいといわれて頷く。本当は俺も今、会って話して平静でいられる自信はなかった。
「伝言でよろしければお伝えいたします」
「生きててくれて嬉しいと、お願いします」
「分かりました」
それから呼ばれて、院長室へ行く。一言も喋らない彼の代わりに幾つかの確認をされた。名前、年齢、勤務先。そして。
「禁断症状は一度でたんだね?」
「はい」
「どんな風だった?」
「痒がっていました」
「ギソウカンは?」
「え」
「蟻が走るような錯覚だ。蟻走感。肌の下に虫が居る、とかは口走っていなかったかね」
「それはありませんでした」
「幻覚も?」
「はい」
「コカインを始めてからの期間はどれくらいか分かるかい」
「多分ですが、一週間あるなしと思います。クリスマスには仕事に行っているので」
「薬物中毒は心配するほどではない。衰弱がかなり激しいがね。君は彼の、その、何だ。恋人について心当たりはあるかね」
「どうして、ですか」
「暴行の痕跡がある。薬物も本当に彼の意思だったかどうか疑わしい」
悪いことは、バレるものだと思った。
「分かりません」
「そうか。まぁ私は警官ではないし、黙っていると約束したことは黙っておく。しかしその男とは手を切らせなさい」
男、とキッパリ断言された。
「はい」
手を切らせなさい、か。
自分の手を眺める。繋がっているのだろうか、あの人と。
暴行はした。薬物を強いた。会いたくないと告げられて、それは無理ないことだったけれど、やっぱり裏切られた気持ちにもなった。愛していると言っておいて、俺にも言えといっといて、いまさら逃げはないだろう。
それでも大人しく引き下がったのは、今度こそ待とうと思ったから。すれ違いねじれてばかりの俺たちが、多分これから、修正されるのだと信じたから。
翌日、俺は朝から東京へ出た。新年早々、雑誌の対談があった。載るのは三月だってのになんで今、と思ったら、なんのことはない。ふだん外国に居ることの多いレーサーが、正月は国内にまとまってるからだった。
対談を終えて料亭を出、携帯の電源を入れた途端、
『啓介、すぐに帰ってきて』
オーナーのせっぱつまったメッセージが留守録から聞こえた。
「本当に、申し訳ない」
医師と婦長に揃って頭を下げられる。
「神経も病状も落ち着いていたので油断があった。本当に、すまない」
居なくなった。
病院を抜け出して、何処かへ。
何処に?
あの人が戻る場所は、もう何処にもない。マンションは去年のうちに引き上げた。職場にも辞表を送らせた。金は持たせてない。運転免許は、まだ俺が持ってる。
半狂乱で探した。でも見つからなかった。
「……また逃げるのかよ」
冬の空に向けて呟く。
もう逃げるのを止めたんじゃなかったのか。何かが変わると思っていたのは俺の錯覚か?
須藤に連絡をした。
『ここには来ないと思うぜ。お前から逃げているんだろう?だったらもう、突き止められた俺の所に来るわけがないだろ』
それは、そうとは思ったが。
「行ったら連絡してくれ」
『……』
「何処に居るとか教えなくていい。無事だったって、それだけでいいから」
『お前がそう泣き言いってたっては伝えてやるよ。来ないと思うがな』
二年ぶりに、史浩とも話した。あの人が行方不明だと告げると、お前のせいかとすぐに問い返された。
「そうだ」
『お前と涼介の間になにがあったかは知らない。お前たちはチームの監督とレーサーだった前に兄弟だ。いろんなことがあるだろう。ただ』
怒りを押し殺した声。温和な男だが大人しくはない。あの人の、二十年ごしの友人。
『けど覚えとけ。涼介はお前のアニキってだけじゃない。親には息子だし患者には主治医だ。俺や赤城の走り屋やチームメンバーにとってはカリスマでヒーローでリーダーで、夢そのものだった』
その通りだ。Dは結局、あの人のゲームだったから。
『俺達から、お前は夢を取り上げた。涼介がヤバイってんなら俺たちは探す。あいつは今でも俺たちのリーダーだからな。だが見つかっても、絶対にお前には教えない』
緒美に頼んで実家も探ったが、当然、戻っていなかった。
彼を探し続ける俺の勝手を、オーナーは最大限に許してくれた。スポンサーへの挨拶も取材も最小限だった。見つからないままでヒビは流れ、テスト走行のためにマレーシアへ出発しなければならない、という日の前日。
俺はオーナーの前でうなだれ、契約解除を申し出た。話が終わるまで彼女は黙って聞いてくれたが、
「走りなさい」
神託を告げる巫女みたいな、確信に満ちた口調で言う。
「違約金は高額よ」
「分かってる。払うよ。なんとか払えると思う」
「スッカラカンになってどうやって探すつもり。この世は広いわ。一人では無理よ」
「分かってる。でも今、日本離れる気にはなれねぇよ」
「あなたは走りなさい」
「レースどころじゃない。気持ちの方が、ダメだ」
「あなたが探すのは無理。あっちに見つけておもらいなさい」
意味がわからない俺に言い聞かせるように、
「走りなさい」
同じ言葉を彼女は繰り返す。
「F1の表彰台に上りなさい。一番上に。日本中の新聞に載るわ。雑誌にも。駅の売店にもコンビにの壁にもあなたが溢れて、彼はきっと、あなたを見つけてくれる」
思いがけない言葉だった。
「それしかないわ。あなたが本当に、彼を愛しているのなら」
女の発想だった。それは、求愛に相応しい行動な気がした。
「優勝したら、大騒ぎになるかな」
「花が降ってくるわよ」
「あの人も気づく?」
「絶対に」
「走るよ」
あっけなく、俺は決意を翻す。
「走って、勝つよ。必ず」
とりもどす。
あの日あの時、なくしてしまった人を。