そのマンションにはアリスもよく出入りした。士官学校時代の週末、母親の待つ実家には足が向かないまま、家主が居ようが居まいがあがりこんでいた。合い鍵を貰っていたから。

 時々、わけありの女が尋ねてきて、彼女たちは鍵を持っていなかったらしく、いつも呼び鈴を鳴らしていた。

 合い鍵を持っていた女はアリスが知る限りではたった一人。今ではオリブス半島妃になった、あの人。

 そんなことを考えているうちに玄関へ到着。車寄せから建物の入り口までは、これまた扇状に広がった天蓋つきの回廊を歩いていかなければならない。

 公爵と国王は前後して車から降り、国王が公爵を追いかけるかたちで一緒に歩いていく。 二人から離れてアリスは玄関脇の受付へ向かい、守衛に軍の身分証を見せた。

「ミ……、こちらの若様に、用があるから待ってろって言われたの」

 守衛の取り次ぎで執司が現れ、案内されて応接室へ向かう。けっこう距離がある。

 ホールの壁には先代公爵夫妻の肖像画が飾られていた。二人とも微笑みながらこちらを見ている。夫人の笑い方に覚えがあって、少し懐かしかった。

 その隣には夫妻の長男。両親より早逝したかつての跡取息子、ディクライ・サージ。アリスの母親の恋人。そしてアリス自身の、初恋の相手。

 享年、二十六歳。

 肖像画は亡くなった人によく似ていた。額縁がガラス窓の枠で、その向こうから笑ってくれている、みたいな気がするほど。艶やかな黒髪を短く切って後ろにざっと流し、頬も顎も口元も、頑丈そうな男だった。

 ただ、目じりが少し垂れていて、それが柔和で優しく見える。長身で胸板の厚い堂々たる体躯の男が、垂れ目で笑うと妙に可愛かった。十歳も年下の義理の娘さえ、頭を撫でてみたくなるくらい。

 ハンサムだったけど弟のような凄絶な迫力はなかった。どちらかというと気は優しくて力持ち系。あの国王も、今は若くて鋭い感じだけど、これくらいの年齢になったらこんな風になるだろうか?

 そんなことを考えながら歩くうちに、ようやく応接室へ到着。何十もあるうちの一つだ。そう広くはないが腰掛けたソファーはふかふかで快適。

 ふだん使われる部屋でもないだろうに清掃が行き届いている。掃除のためだけに二十人近い人間を雇っていると、聞いたことが会った。労務省の失業対策人夫事業に指定されていて、毎月けっこうな出費になる、と。

 もっとも今は出費を憂う必要はあるまい。現公爵・ウィルス・サージは兄に死なれた直後から、ブラタル海峡の改築工事を行なった。半世紀、誰も成功したことのない事業に。

 議会の賛成は得られず、国庫からは補助はなかった。海峡が公爵領だったから事業そのものは公爵家の意志で着手できたが、膨大な工事費は公爵家の財産を吐き出してなお、欠乏をきたした。

 使用権を担保としての国際貿易商からの融資、株式を起債して国際金融市場からの借り入れなど、公爵は、いや当時は父御が健在で跡取り息子だったが、とにかく金策に駆け回っていた。

 難工事で、事故が起こるたびに必死に掻き集めて資金は泡のように消え、あの頃の公爵は痩せ細っていた。事故の多さに技術者が集まらず、しかたがないから外国人を雇えば就労法違反だの人命軽視だのと騒がれ。

 あしかけ三年の年月と莫大な資金の末に工事は完成した。

 二つの大洋を結ぶ海峡は潮の満干を利用した潮流によって従来の三倍の速度で往来でき、一度に十倍近い数の船舶の航行が可能となった。

 公爵家に入る海峡使用料は鰻登り。国家予算近い借財を二年とたたず完済し、180%の株主配当をしても尚、公爵家に莫大な富をもたらした。

 国庫の関税収入も数倍増して公爵は役人たちに顔がきくようになった。

 国家が行なうべき工事に自腹を切らせた会議は面目を失い、二十歳にもならない公爵家跡取りにぐうの音も出ず、以後、彼の提案はたいていが可決されている。現在にいたるまで。

 それは公然のこと。そしてアリスしか知らない秘密は、彼が工事完了後、手元に残した株券のうちかなりの額面をアリスの母親、死んだ兄の恋人に譲ったこと。配当で、母親は悠々と暮らしている。

 執司が出してくれた茶には手をつけないまま、アリスはぼんやり、死んだ男のことを想う。海峡工事をやり遂げた公爵の、あの踏ん張りは後家の頑張り、というやつではなかったかと。

 ブラタル海峡の混雑は当時苛烈を極め、早晩、パンクするこちとは目に見えていた。でも難工事なのも分かりきっていて、敢えて火中の栗を拾おうとした者はなかった。

 公爵だけが手を伸ばし、ひどい火傷を負いながら甘い栗を得たのは自分が食べるためではない。兄が残した息子たちのため。甥のミツバと、もう一人……。

「よぉ、いらっしゃい」

 突然ひらいた扉に思考を中断される。咄嗟にアリスは腰と踵を浮かした。

「そう警戒しなさんな」

 ドアによりかかりながら、礼儀知らずな男はにやにや笑っている。年齢は三十代半ば。顔立ちは整っているがちょっと擦れてぐれた感じがする。世間の裏側を見すぎた目をしている。

 攻撃的で油断がない。にやにや笑う顔の中で目だけはきつく、無作法に、アリスを品定めしていた。

「ここに居るってことは公爵の関係者さ。正確に言うと公爵の跡取りの。若様から聞かなかったかい?あんたに話したいことがあるんだ」

「……わたしを誰か知ってるの」

 アリスは肘を下ろさないままで反問。

「もちろん。だって俺が若様に頼んだんだぜ。首都警備部のうちでとびきりの利け者を呼んでくれって」

「言ってみて」

「五課の大尉様。黒手袋のさ。その若さで、しかも女のくせに、大したもんだ」

 誉めるというより嘲笑が強い口調。

「よっぽどあんた公爵か、それとも若様かの、お気に入りなんだな」

「知っているならしなきゃならないことがあるんじゃない?」

 アリスの催促に男はとぼけて肩を竦めただけ。

「いいから聞けよ、とびっきりの情報だぜ」

「お前がするまで、わたしは何も聞かない」

 会話の途中にミツバが帰ってきたが、室内の緊迫した雰囲気に声もかけずアリスの隣に腰をおろす。

 その位置に男は眉を寄せた。ミツバはすましてアリスの飲んでいない茶に手を伸ばす。「冷めてるわよ。持ってきてもらいましょうか」

「いいよ。くれるだろ?」

「もちろん。冬は喉が乾くわよね」

「士官学校出身のお嬢ちゃん、階級証の星の数が俺に通用すると想ってるなら大間違いだぜ」

「通用するのは軍人同士だけよ。おまえとわたしはそうだろう?オラニエ・ライデン……、少尉」

 半年ほど前、公爵が帝都で拾ってきた傭兵の元締め。ミツバの私的幕僚みたいになっていたが、最近正式にトゥーラ軍に地位を得た。「へぇ、あんたこそ俺を知ってるのか」

 名を呼ばれた男は少しだけ驚く。

「敬礼は?」

 露骨に催促すると嫌そうに掌を頭の横に当てた。そのままアリスはミツバに視線を戻し、「ウィルスは陛下と一緒よ。挨拶した?」

 オラニエを無視したまま尋ねる。

「してない。帰る時にはこっちに声がかかるさ。付き添いごくろうさん。どうだった?」

「あてられたわ」

「やっぱり?みんなそうなんだ。まぁアケトもまだ若いし」

 自分より一つとはいえ年上の国王を、ミツバはそんな風に言う。

「初恋がかなったばっかで舞い上がってるからさ。もう暫くは勘弁してやってくれよ」

「おい」

 堪り兼ねたオラニエが口を挟む。

「返礼しろよ。手ェ下ろせねぇ」

 アリスは男を、更に無視した。

「若様、なんとか言ってくれ」

「おまえが怒らせたんだろう?」

 ミツバはしれっとした表情。

「謝って許してもらえ」

「だってよぉ、若様」

「わたしが女だから頭さげたくないんだって」 アリスは空になったカップを掴み上げ受け皿に当てる。

 硬い陶器の触れ会う音が威嚇的。

「密入国した狙撃手のことなんかは、話せないんだって」

 オラニエの腕が揺れた。ミツバが隣で短く口笛。

「さすが姉貴、早耳。うっとりするぜ」

 嬉しそうなミツバとは対照的に、

「……どっから聞いた?」

 オラニアの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。

「どっから聞いたんだ。まだ何処にももらしてない。軍の諜報部も探知してない筈だ」

「風の噂、ってことにしとこうか」

 答えながらアリスはようやく返礼。

 馬鹿でも分かるわ、とは言わなかった。公爵に二度も言われた。防弾チョッキを着ておけ、と。

 腕をもどすオラニエの表情は、さっきまでの薄笑いとは一転、深刻なほど真摯。

「なるほどな。あんたが若様の隠し弾か。治安部で一番きれるのが四課の、あの男じゃないから驚いたんだが」

「隠してない。治安部の表看板だ」

 ミツバの訂正。

「これに懲りたらうちの客に次々喧嘩ふっかけるのはやめろよ」

「やめなかったら連絡して。やめさせに来るわ」

 間を置いてカップをぶつけることを止めないまま、アリス。

「公爵邸で不愉快な思いをしたって言ってる奴はずいぶん居る。このまんまじゃあなたの評判まで悪くなる。ウィルスのお気に入りでもわたしは平気。たたき出してあげる」

「そんなに脅すなよ」

 オラニエは完全に下手に出ている。

「そん時は頼むよ。とりあえず見て欲しい男が居る。こっちに来てくれ」

 

 応接室から更に歩いた、奥まった一角。

「あの男、誰かわかるかい?」

 指さされた方をアリスは見た。

 マジックミラーになっているらしい覗き窓から見えるのはわりと豪華な部屋。大きなベットにテーブルと寝台、床には毛足の長い絨毯。絨毯の上に脚を伸ばしているのは。

「あら、マック」

 それは茶色いラブラドール犬の名前。賢くて姿のいい公爵家の飼犬。

「そうじゃなくって、」

「ダドリーよ。ダドリー・サクス・パルスラ」 犬と同じく床に脚を伸ばし、犬の頭を名で居る若い男。右の肩には派手なギプスと包帯を巻いている。

 行方不明中のパルスラ領主の甥っこ。パルスラ領主とは激しく対立している。武闘派で知られ、今度の『行方不明』もどうせ本人の意志だと、何処で何を企んでいるのかと警護側を不安がらせていた。

 顔を見るのは数年ぶりだが、眦が裂けたように鋭い一重の目もとは間違いない。

「どうしてここに居るの」

「うちの兄貴、三歩あるいちゃへんなもの拾ってくるんだ。本人に間違いないかい?」

「もちろん。幼なじみだし、士官学校の同期よ。転入初日にやりあった男の顔は忘れないわ」

 パルスラからの人質として士官学校へ送り込まれた少年は、転入するなり大暴れした。食堂裏で絡んできた上級生をのした後も止まらず暴れていて、教官にばれる前に止めてくれと呼びつけられたのがアリス。

「そうとう強い?」

「強いけど、問題なのは勝ち方を選ばないとこよ。隠し武器を使うから。派手な武器を持ってない方の手がくせものでね」

「そういや医者が、なんか肩に癖がついてるって言ってた。あれあんた?」

「そうよ」

「仲悪いのか?」

「求婚されたわ。十八の、卒業式の時」

「もてまくってんなぁ」

「狙撃手の潜入はあいつからのネタ?あいつが雇ったの?なんのために?」

「あいつの部下たちから。本人は口が固くって、一言も喋りゃしない。あんま乱暴な真似も出来ないしさ」

「どうして?わたし尋問しましょうか?」

「パルスラ領主の政敵はうちには身方っていえないこともないし」

「領主を入れ替えるの?」

 アリスの眉が寄せられる。

「今の領主を始末してあいつをそうするつもり?」

「まさか」

 アリスの心配を、ミツバは一言で否定。アリスの目をじっと見たまま、

「首すげ替える時は、あんな奴は使わねぇよ。もっと相応しい人がうちには居る。……パルスラ領主が心配かい?」

「暗殺やテロが嫌なだけよ。わたしは治安部の人間だもの。しかも会議場の警備責任者よ。何の目的で誰を狙ってるか、気になるわ」

「俺はあんまり気にしてないけど」

 もとの部屋へ戻りながらの会話。

「あんたと四課のあいつが張り付いてんだ。手落ちなんかないだろ」

「あるわよ。人間がやることですもの隙間はいくらでも」

「気弱なこと言ってくれるな。頼りにしあてるぜ」

「それにダドリーはうちの士官学校卒業してんのよ。トゥーラ王都の警備態勢の厳しさを知ってて、それでも暗殺しようとしたのは相当の勝算があるんだわ」

「パルスラの領主に会ったかい?」

「入場の時にちらっとね。……サラブはパルスラを捨てるの?」

「俺は詳しいこと知らないけどさ。政治にはあんまりタッチしてないから。でも、兄貴とサラブの将軍が会ってたってことはそうじゃないか?」

「きっとそうね。あんな男、ウィルスの敵じゃないわ」

「そうかな。けっこう手子摺ってるさ」

「でもやり方が愚かよ。トゥーラの外圧が気に食わないからって、サラブを引っ張り込んだら同じことでしょうに。あんな下策しか思いつかない男をどうして、パルスラは領主なんかにしているのかしら」

「人望あるらしいぜ」

「商業協定から外されて貧しくて、経済亡命者があとをたたないっていうのに?」

「本人は領民の誰より質素に暮らしてる。黒パンとヨーグルトだけで毎日、十二時間以上働いてんだってさ。才気はないけど信頼できるってタイプなんだろ、きっと」

「政治家の仕事はそんなんじゃないでしょう。せめて夕食に鳥のグリルくらい、みんなが食べれるようにすることでしょう?」

「俺は政治家じゃないからわからない」

 客間では傭兵あがりのオラニエが二人が戻ってくるのを待っていた。

「狙撃手の名前は?」

 アリスの質問に、

「分からないんだ、それが」

 オラニエは素直に答える。

「調べがつかなかったの、それとも教えられないの」

「調べがつかなかった。こんな大仕事を請け負うほどの腕なら、裏の世界じゃ有名人な筈だが、今回は名の知れたのは一人も動いてない」

「案外役に立たないのね。ウィルスが惚れ込んでミツバが信頼してる傭兵隊長っていうから、期待してたのに」

「……調べ上げてみせるさ」

 オラニエはミツバに挨拶もせずさっと立ち上がった。足音たかく部屋を出ていく。

 ドアが閉まった後でミツバが、口元だけでにやっと笑った。

「あれは今夜、徹夜で情報網漁るぜ。さすが姉貴、挑発がうまいよ。オラニエよりも、はるかに」

「女の方が性格が悪いのは当たり前よ」

「あんた美人から、よけいにきく」

「関係ないわよ、そんなの」

「あんたがあんまり驚いてなくってほっとした」

「驚いたわよ凄く。まさかこんな捕まってこんな所に居るなんて」

「それじゃない。兄貴のこと。知ってた?」

「……噂でね」

「悪い噂は広がるの早いから」

 ミツバは苦笑する。

「あなたこそ、平気そうね。こういう事って身内の方が嫌な感じしない?」

「全然。うまくいって良かったと思ってる」「本当に?」

「アケトって凄い強情なんだ」

 国王のことを幼名でミツバは呼び捨てる。「兄貴は頑固そうに見えて案外、いいかげんだし。いつかこんな日が来るとは思ってた。でも良かったよあんた嫌がらなくって。それで嫌われたら兄貴ちょっと、可哀想だ」

「いるの、嫌う奴なんか」

「不思議と居ない。タラシ公爵とかって呼ばれてもともと、醜聞だらけで生きてる人だから、箔がついただけかもな」

「楽天的ね」

 アリスの口調は低く途切れる。

「そんなんじゃないわよ」

 どういう意味かとミツバが問いかけた時、「失礼します、若様」

 背後から執司が声を掛ける。

「陛下が王宮へお戻りです」

「あそ。ちょっと待っててくれ。見送ってくる」

「一緒に行っていい?」

 アリスは咄嗟に尋ねた。ミツバはほんの一瞬だけ躊躇したが、

「いいぜ」

 そう言ってくれた。

 

「泊まってきゃいいのに」

 時刻は午前零時に近い。がらんとしたホールで、ミツバは友人をからかうような口調。国王を送り出す時の作法にのっとって執司からコートを受け取り着せかける。

「屈めよ。一人だけすくすく伸びやがって」

 国王がだいぶ背が高い。国王は無言のまま、ミツバの要求どおり屈む。

「ところでアケト、これ」

 背後に控えていたアリスが押し出される。

「俺の姉貴」

 ミツバがそう言った瞬間、国王の瞳に宿った感情は困惑。幼児期に失語症の疑いをかけられたほど無口な国王は、そのままじっとアリスを眺めている。

「……」

 アリスの方も何も言えないままぺこっと頭をさげた。その肩に、不意に着せかけられたのは、さっきミツバが国王に着せたばかりのコート。

 アリスは格闘にそなえてジャケットを引っかけただけだったから、確かに少し、寒そうに見えていた。

 アリスが顔を上げたとき、既に国王は背中を向けて歩み去るところ。迎えの車は、今度は国王に相応しい貴賓用の装甲車。

「帰る前に、ウィルスに会いたいんだけど」

「好きにすれば?下の食堂に居るぜ」

 

 食堂は狭かった。

 たぶん、ふだんは使用人たちが使っている部屋だ。

 テーブルはふるびて染みだらけだし、椅子のクッションもすりきれている。もっとも掃除は行き届き、清潔そうではある。

 そこで公爵は食事をしていた。いや、食事なんていうものではない。ゆでた麺を汁につけて食べるだけの簡単な夜食。

 給仕をする人は居ない。代わりにテーブルの上には汁と薬味を入れた椀が幾つも並べられている。

「……」

 アリスが部屋に入ってきたとき、公爵は口いっぱいに麺を頬張って喋れなかった。代わりに隣の椅子を引き、そこへ座れと指さす。

「公爵閣下が夜中ひとりで、こんなもの食べてるなんて誰も思わないでしょうね」

 椅子に座りながらアリスが言う。

「好きなんだよ」

 胃腸の丈夫なこの男は冬でも冷たい麺を食べる。氷水の入った桶に箸を突っ込み、椀にあふれそうなほど麺をとる。

「ほら」

 アリスの前に椀が差し出された。

「いいわ、お腹すいてにいから」

「遠慮するな」

「あの店で食べてきたの。相変わらず美味しかった」

「俺が水しか飲んでない時にか」

 すずっと、麺をすすり込む音。

「ごめんなさい」

「いいさ。どうせミツバに追われててメシどころじゃなかった」

「興味本位でプライベートなこと聞いちゃって、ごめんなさい」

「あぁ……。いいさ。俺の方こそ女に、ろくでもないもん見せて悪かった」

「キスシーンのことなら役得だったけど。会場へ戻るわ。おやすみなさい」

 アリスは部屋を出ていこうとした時、

「帝都が、女帝即位でゴタついただろ」

 唐突にウィルスが話し出す。

 それは半年ほど前の事件。帝国の皇帝が死去した前後の騒ぎ。

 形骸化したとはいえトゥーラ王国は中央神聖帝国の選帝権を持っている。次期皇帝に名乗りをあげた候補者が複数居て、投票のために、国王と公爵は帝都へ向かった。

 結局は選挙でカタはつかず、市街戦になってようやく、前帝の一人娘が初めての女帝となった。

「ドジってな、捕虜になったんだ。あとはお定まり」

 そんなこともないでしょう、と、アリスは言葉にしなかった。

 捕虜になった全員がそんな目にあう訳じゃない。その美貌が仇になったのよ、とは、まさか言えない。

「……辛い目にあったわね」

「事故さ。運が悪かった」

 強情な男は強気に言い捨てる。

 すずっとふたたび、麺をすする音。

「だけなら後くされなかったんだがアケトにばれて、あいつがこの世の終わりみたいに嘆くから、」

「ほだされた?」

「そんなところだ」

 昼間の質問の、それが答え。

「後悔しているの?」

「あぁ」

 即答だった。

「手を出すつもりはなかったんだ」

 

 途中、着替えを取りに寮へ戻ったせいで、アリスが会議場へ戻ったのは午前一時過ぎ。 帰着の挨拶がてら玄関脇の四課控室に顔を出す。そこにはオルグ一人が起きていて、図面をじっと眺めている。

「なに、それ」

 挨拶ぬきで声を掛けると、

「王宮見取り図。大広間周辺のな」

 振り向かないまま答えが返ってくる。

 今回の会議は終了後、王宮で会食と舞踏会が催されそれで締め括り。

 大時代な儀式だが他国からの出席者に王族・領主が多いのでそれくらいしないと格好がつかないらしい。

「狙撃手が紛れ込むとしたらそこね」

 アリスは聞いてきたばかりの情報を漏らした。ミツバに呼ばれていたことを承知のオルグはじっと彼女を見て、頷き視線を図面に戻す。

 部屋は暖かく、アリスはコートを脱ぐ。

「……」

 オルグにじっと見つめられ、

「いいコートでしょ」

 言われる前に自分から言った。

「あぁ」

 四課は王族の警護につくことも多い。それが国王のコートだとオルグは気づいた顔だが、それ以上は言わなかった。

 ミツバからお下がりがまわったとでも思ったか。もっともアリスの足首を完全に隠すコートは、ミツバでは裾を引き摺ってしまうだろう。

 オルグは図面に戻りかけ、しかしもう一度、アリスへ向き直り懐を見つめ、

「……珍しいな」

 呟いた。何のことだか分からずに懐をさぐったアリスは笑い出す。

「違うわよ。食べない?」

 そこにあるのは武器ではない。ちょっと潰れてしまったがサンドイッチ。包みを開くとサーモンとチーズ、卵とハムが挟まって六切れ、きれいな色で並んでいる。

「いいのか」

「どうぞ。わたしは食べたから」

「ありがとう」

 腹が減っていたらしい。オルグはむしゃむしゃ、食べ尽くす。

「うまい。公爵家のか?」

「いいえ、ウィルスがひいきの店のよ」

 答えた途端、オルグの表情が曇る。

「そんな顔しなくていいわ。あたし本当にウィルスとは従兄妹か兄妹みたいなものよ。あいつの兄上にはずいぶん可愛がってもらったわ。……寝ていないから、安心して」

 安心どころかオルグは、サンドイッチが喉から逆流しそうな顔つき。

「安心って、なんで」

「ウィルスのことを好きなんでしょう?」

「……」

 答えずオルグは真赤になる。可愛いものだとアリスはそれを眺める。

「あいつは陛下を好きなのよ。それでもいいの?」

「別に……、どうこうしよと、思ってる訳じゃない」

「じゃ、どうしたいの」

 オルグはしばらく考えていたが、

「見ていたいだけだ」

 血のにじむような告白。

「分かるわ。……分かるような気がする。色っぽすぎるもの最近のあの男」

 醜聞が追加されただけ。みたいにミツバは言っていたけれどそうじゃない。今までとはぜんぜん質が違う。

 今までの公爵の情事は女を食い散らす方だった。今度初めて、彼は食いつかれた。

 傷口は目には見えない。でも甘ったるい気配は漏れてくる。機会があればあわよくば、食いついてみたいと他人に思わせる気配。アリスさえ妙な気になるほど。まして男なら、なおさら。

「すまん」

「だからわたしに謝らなくていいわよ。ウィルスはわたしの恋人じゃないし、あんたがわたしと付き合ってる訳でもないし」

 二人は、昔から仲が良かった。

 それは一種の防衛だったのだ。

「おまえのことも好きだ」

「……は?」

 アリスが頬杖ついていた顔を上げると、オルグは真剣な目をしていた。

「おまえのことを好きだ」

「嘘ォ。あたし女よ」

「そんなことは分かってる」

 少し怒った様子のオルグ。

 アリスは戸口付近に人気がないのを確認し、それでも声を低め、

「あんた男を好きなんでしょうが」

 責めるように言った。

 それは、軍では禁止された習癖。

 オルグとアリスがつるんできたのは、そのカバーの為。

「怒らなくてもいいだろう」

 同じく低い声で、オルグがぼそっと呟く。「男扱いされて怒らない訳ないでしょ。あたし女なのよ。あんただって謝ったじゃない」「違う」

「なにが」

「男女に関係なくお前を好きだ。……謝ったのは、別のことだ」

 それきり黙り込む。首を傾げて少し考えて、アリスはもう一度口をひらく。

「すまないって言うのはあなたが心の中で、ウィルスとわたしと二股かけているから?」

「……そうだ」

「気にしないで。わたしもそうよ」

 ぴくり、オルグの眉があがった。

「公爵と半島妃とか」

「いいえ、妃殿下とあなた。おやすみなさい」「……おやすみ」

 

 翌日、アリスとオルグは今まで通りに打ち合わせ、警備態勢を敷いた。

 好きだという互いの告白は物凄くいまさらで、なにも代わりはしない。

 昨日同様に、滞りなく会議は進められた。

「大変です、ボスッ」

「宰相が、議長が、公爵が」

「トゥーラ領主とオリブス半島妃が」

「早く来てください」

 緊急警報が鳴り響き、会場内警備の部下たちが控室に飛び込んできたその瞬間までは。

 

 アリスは十人近い部下を従え会議場に押し入る。

 軍服の登場に人垣が割れて、その中央に公爵が倒れていた。うつ伏せに、頭をオリブス半島妃の膝に抱かれて。

「怪我がひどいの」

 妃はアリスの顔を見るなり泣きそうな表情。アリスは一瞬、その場に立ち尽くした。公爵の白いシャツを染めた血が同じく白い絨毯を染めている。かなりの出血。

「医者は?」

 会場係の部下に確認すると、

「呼びました」

 インターコムで救急車両の手配をしていた軍人が振り向く。

「軍医がすぐに来ます」

「何があったの」

「オリブス半島妃とパルスラ領主とか乱闘になりかけて、公爵がそれを止めようとされました。どちらがどうされたかは、人垣で見えませんでした」

「そう。……妃殿下」

 静かにアリスはオリブス妃に声をかけた。ヤバイ状況になればなるほど頭の冴える性だ。でなければ治安部の士官はつとまらない。

「あなたが?」

 アリスが想像したのは、妃がパルスラ領主を刺そうとしてウィルスが阻み刃を受けた、という図式。

「いいえ」

 妃は首を横に振る。

「あたしじゃないわ。よく分からないの。三人でもみ合って、それで」

 気づけば二人からやや離れ、立っているのはパルスラ領主。とおまきにした人垣を背景に、渋い表情で。

「いきなり倒れたの、ウィルスが」

 妃は俯く。

 途端、ぽろぽろ零れる涙。

 雫が首筋に当たって、それまでぴくりともしなかった公爵が身動きした。気がついたらしい。

「しっかりしてウィルス、どうしたのッ」

 心配そうに声をかける半島妃。

「昨夜、何処かの女と喧嘩でもしたのではないか。わたしは武器を持っていない。嫌疑をかけられるのは迷惑だ」

 苦々しげに言い捨てるパルスラ領主。

「それともここの国王とか。男妾という話だからな」

 その台詞に妃は顔を上げた。金髪に縁取られた華やかな顔立ちのなか、両眼が怒りの炎に煽られて煌めく。

 しかし彼女の膝には公爵の頭があった。動けない。

 そして。

「ボス、止め……ッ」

「アエリアスッ」

 部下をふりほどき、パルスラ領主に殴りかかったのはアリス。

 制止するように足首を掴む掌。アリスは気にかけなかった。

 領主は避けようとしたが、トゥーラ国軍きっての格闘家の腕を、中年男がよけれる筈はなかった。

 それでも平手だったのは、アリスのぎりぎりの抑制。

 呻いて領主は口元を押さえる。口の中が切れたらしい。絨毯に、唾液交じりの血がしたたり落ちる。

 アリスは静かな表情のままだった。

「……阿呆」

 低い呟きを聞きふりむく。掌を踏みそうになってようやく、それが公爵の手だと気づいた。

 口元を押さえながらパルスラ領主は何か喚いている。アリスも妃も、聞いてはいなかった。

 軍医が駆けつける。

 医者ももちろん、領主を無視して公爵に眉を寄せる。腹の傷に障らないよう大勢の手で、公爵は慎重に仰向けにされた。

 痛むのだろう、公爵は気づいているがきつく目を閉じたまま。

 真赤に染まった腹を見てアリスは背筋が冷たくなった。それでも、血塗れのシャツに裂け目がないことには気づいた。

 会議出席者たちが集まる。

 その眼前に、鋏で切り裂かれたシャツの下から、公爵の下腹が晒される。ズボンの前もあけられて裾を出す。贅肉など欠片もない腹の、傷は臍より二センチくらい下。横一線に鋭く裂かれている。そして剥がれた透明の、癒着テープ?

「腹膜まではいってない。皮と肉だけだ」

 痛みに脂汗をたらしながら、公爵は歯を食いしばって平静な声。

「見かけは派手だが、傷は浅い」

「浅かった、の間違いですな」

 軍医は公爵の強がりを無慈悲に否定した。「癒着テープごと傷口が捲れて、ひどいことになっている。早急に縫合が必要です。搬送を」

 それでも命に別状がないのを確認して、周囲も医師もほっとした表情。

 待機していた担架に身柄を移され運び出される時、目を薄く開いて公爵は何かを捜すそぶり。とっさにアリスが手を握ると、

「一緒に来い」

 そのまま指を絡めて離さない。担架の横に付き添ってアリスも走った。反対側には半島妃も居る。

 玄関にはVIP送迎用の車が救急ランプを点滅させ待機。倒したリアシートは広く担架をそのまま運び込める。その頃にはウィルスは失神していた。アリスの手を掴んだまま。

 半島妃はハンカチで、それを持たないアリスは軍服のシャツの袖で、彼の額の汗を拭い続けた。

 

 搬送された病院は軍救急病院。傷の縫合といえば軍医にかなう者はない。手術室の入り口で繋いでいた手は離された。掴んだ形のまま強ばった公爵の指にシーツがかけられて、『手術中』ランプが点灯。

 待合室にも入らず、手術室前の廊下に置かれたソファーで青い顔で震える半島妃。

「……大丈夫ですよ」

 彼女に暖かな缶コーヒーを差し出しながら、アリスは言った。

「ひどい傷だけど命に別状はないです」

 となりに座って自分の紅茶に口をつける。「あなたはずいぶん落ち着いているのね」

「けっこう慌てましたけど、まぁ、これが仕事ですから」

「なんの怪我なの?」

「わかりません」

「言えないような怪我?」

「本当に知らないんです」

「あなたにも知らせないんじゃ相当にやばい怪我なのね」

「どうでしょう。見栄っぱりの強がりですからね、あの男」

 怪我や病気は隠そうとする。

「ひどい血だったわ」

「驚かれたでしょうけど、あれくらいで人間は死にません。ましてあんなしぶとい男は」

「だからどうして、あなたそんなに冷静なの」 半島妃はキッと顔を上げアリスにくってかかる。

「心配じゃないわけ?自分の男でしょ」

「……何度も繰り返しますけどそうじゃありません。わたしたち、幼なじみです」

「信じられないわ」

「信じろと無理強いはしませんが、本当のことです。妃殿下こそどうして……」

 言いかけて不意に黙り、アリスは缶の紅茶を一口飲んだ。

「あたしが、なに?」

「いいえ、いいです」

「気になるわ、言いなさい」

「お泣きになるくらいなら、どうしてウィルスを棄てたんですか」

「我慢できなかったからよ」

 半島妃は即答。

「前王を引き摺り下ろして陛下を擁立した時、あいつ禁婚者になったでしょ」

 禁婚者、とは王命によって婚姻が禁じられた人間のこと。

 国王が独身で嗣子が居ない場合、継承順位を混乱させないよう近親にそれを申し渡すことが出来る。そんな制度があるもんだから王族の男は逆に早々と子供を作ろうとする。

 公爵の死んだ兄は十六歳で十以上年上の女を恋人にした。

「あたしにはなん連絡も説明もなかった。その時に思い知ったの。あいつが大切なのは身内だけで、女は暇潰しの愉しみ。あたしはそんなの、我慢できなかったわ」

「でも子供は産めるでしょう?」

 禁止されているのは正式な結婚だけ。同棲し子供をつくり、禁婚がとけたあと改めて籍を入れ嫡子とする手段はある。

「あいつ物凄い子煩悩ですし」

「冗談言わないで。あたしは子供を産む機械じゃないわ」

「機械は子供を産みませんよ」

「揚げ足とらないでよ」

「よぉ、なんだ、喧嘩してんのか?」

 女二人の争いを中断させたのはミツバ。軍事訓練中だったのか軍のジャージ姿。顔は笑っているけれど目尻は吊り上がり、きつい目つきがますますきつい。手術中のランプを見上げ、

「どんなふうなんだ?」

 アリスに問いかける。

「出血はひどかったけど命に別状はないそうよ。傷口みたけど、十針くらい縫うんじゃないかしら」

「ふぅん。なんか言ってた?」

「わたしに阿呆って、一言だけ」

「まあその通りだな。パルスラの領主ぶん殴ったって?」

「平手よ」

「外務省に正式に抗議がきてる。そっちの対策してくるから、手術終わったら兄貴のこと、屋敷まで連れて帰ってくれるかい」

「ごめんなさい」

「誰かが迎えにきても、俺に付き添い頼まれてるから動けないって言えよ」

「罰は受けるわ。無理して庇ってくれなくていいわよ」

「あんたの身柄をパルスラにはやれない。外務省の役人や憲兵が迎えに来ても絶対に動かないでくれ」

「分かった」

「あいかわらず仲がいいのね」

 聞いていた妃が、少し寂しそうに笑う。

「羨ましいわ」

 妃に向き直ったミツバは腕を組み、

「妃殿下、国王が至急お会いして、お話したいことがあると申しています」

 丁寧な口調だった。国王の使いだからだろう。妃の顔色が変わる。

「ミツバ、あなた一緒に来てくれるわよね?」 公爵とかなり長く交際していた半島妃は、弟同然のミツバとも顔見知りだ。

「だから俺、今から外務省だってば」

 立ち上がりながらミツバの口調はもとに戻っている。

「陛下に一人でお会いするのは恐いわ」

「とって食いやしないよ。話があるだけ。たぶん、あんたには都合がいい話だ」

「分かっているけど、でも」

「玄関に迎えの車が来てるから。……じゃ、後で」

 ミツバはアリスにそう言って出ていく。曲り角で控えていたらしい四課の制服を着た男が歩み寄り、妃に迎えの車が到着していることを告げた。

 緊張した面持ちで立ち上がる妃。

「陛下って、恐いんですか?」

 怯える様子が不思議で、アリスが尋ねる。

「恐いわよ。物凄く。このあたしが恐いって言うんだから、どれだけ恐いか想像がつくでしょ」

「ウィルスより?」

「比べものにならないわ」

 ため息をつき覚悟を決めて妃は歩き出す。

「行くわ。あとのこと宜しく。それと、ありがとう」

「いいえ」

「なににお礼を言ったか分かってる?パルスラ領主を殴ってくれたことよ」

「そうだと思いましたよ」

 それから十分もしないうちに手術中のランプは消えた。

「はい。ご苦労さまでございます」

 それを見計らったように、やって来たのは公爵の秘書官。手術を担当した医師に深々と頭を下げる。つられてぺこっと、アリスも会釈した。

「縫合は終了しました。傷跡はかなり残ると思います。麻酔を掛けていますので、今日一日は眠っておられるでしょう。一週間は安静に。その間の入浴は差し控えて下さい」

 医者はてきぱき指示を出す。

「はい。ありがとうございます。それではアエリアス様、ご一緒に」

 搬送用ベットの上で眠る公爵と車に乗り込み、ドアがロックされた途端、

「はい。アエリアス様に、若様よりお願いでございます」

 差し出されたメモ。

 

 昨日もやってきた公爵邸に、アリスは今日も公爵を送ってやって来た。

 着くなり公爵は自室へ運ばれる。そしてアリスは別室に案内された。

「煙草を用意してください。スリー・ローズの青箱を。テーブルはもっと小さなものを」

 てきぱきと執司に支持。向き合うソファーの位置が気に入らなかったから修正する。相手が座るだろう位置に腰をおろし、自分との角度を確認する。

 だいたい納得した時に頼んでいた煙草が届いた。封を切り一本取り出し火をつける。吸って吸えないことないが、吸いつけないせいで不味い。口先だけで適当にふかして灰皿に、ぎゅっとなすりつけた。

 残りの煙草を上着の内ポケットに隠す。それもこれも、作戦のうちだ。これから行なう尋問の為の。

 いつでも来い、と思いながら、アリスはその男との再会を思い出していた。

 

 十四歳の、あれは初夏。

 軍幼年学校二年の誕生日。中庭の紫陽花の葉が鮮やかな緑で、でも花房はまだ色づいていなかった。

 その日は久しぶりの外出日で、とてもいい天気で。なのに反省室から出たばかりの謹慎処分中だったから、アリスは校門から出ることができなかった。

 青空が皮肉に思えてかなりやさぐれた気分だった。そこへ、

「大変だ。新入りが上級生に呼び出しくらってる」

「第二校舎裏だ。来てくれ、アエリアス。フセインを止められるのはお前だけだ」

 同級生が呼びに来た。アリスは気乗りがしないまま、

「殺されそうになったら行く」

 答えて数分後、今度はオルグがやって来た。当時はひょろっとしていて、体重は、アリスの方が多いくらいだった。

「殺されそうだ。大騒動になる前に顔出してくれ」

 仕方なくアリスは立ち上がる。大騒動、というのは喧嘩の規模ではない。学校側に関知されることを意味する。

「こりない男だなフセイン。ついこの間、返り討ちされたばかりなのに」

 当時、アリスは男言葉だった。

「年下痛めつけてなにが楽しいんだか」

「そうじゃなくってさ、フセインが新顔に目茶苦茶にやられてんだ」

 フセインという名前の上級生は父親が戦上手で知れた大佐で、なのに本人の成績はふるわず去年、留年した。その劣等感を腕力で埋めようとしている馬鹿な男。

 ちょっと目立つ下級生は一度や二度、かならず呼びだしを食らっている。ろくでなしだが親類縁者に軍関係者が多く、類友の取り巻きがついていて、性が悪い。

「じゃ、なんで私はいま走ってんだ」

「新顔があんまり容赦ないからさ。あんな奴でも、殺したらマズイだろ」

「個人的にはせいせいする」

 そんなことを話しながら第二校舎裏に、着くなりアリスは顔をしかめた。地面に転がったフセインのお供が二人。そして同じく地面に転がったフセイン自身の脇腹に、蹴りをいれ続ける新入りの姿。

 そこまではいい。

 が、たぶん止めようとしたのだろう同級生のうち、わりと骨のある一人が顔を腫らしている。他にも先輩のうち二人、鼻血を押さえているのが居た。

「アエリアス、あいつおかしいぜ。なんか武器持ってる。よく見えなかったけど」

 顔を腫らしたのがぺっと地面に吐いた唾には、血が混じっていた。

「気をつけろよ」

 頷き、口笛を吹いた。攻撃を止めない新入りの注意をこっちに向けるのが急務だったから。フセインはぐったりと伸びていて意識があるかどうかさえ怪しい。

 新入りは口笛に反応し振り向いた。攻撃的な目をしていた。それが真っ直ぐにアリスを射貫く。その表情が一瞬だけ緩んだのは。

「えらく可愛いのがでてきたな」

 アリスの見目が意外だったから、だろう。でも、すぐに瞳は敵意を取り戻した。

「でも見た目どおりじゃないんだろ美少年?登場の仕方からすると、おまえがここのボスか?」

「まさか。いいとこ始末屋さ。随分暴れたみたいだがもう気がすんだかい?」

「ふざけたこと言いやがったんだ」

 あしもとのフセインに新入りは唾をはきか