嵐の夜の猫
頭を左右に振って、男は酔いを醒まそうとした。が、結果は逆で、
「……あれ……?」
視界が回転する。天井が見えて、自分が床に仰向けになったことに気付いた。
「あれ、大佐が居ない。……大佐ぁ……」
「ここだ」
声が聞こえた、と思った瞬間、視界が暗く翳り、あれ、と思う間もなく唇に暖かな感触。あ、キスだ。そう思うより先に酸味のある水が唇から流れ込んできて、それが甘くて、男は腕を廻し、覆い被さる上司の黒髪を撫でた。
「寝るなよ」
水を飲ませてやり終えて、起き上がりながら大佐は言う。
「いま眠ると、身体が酒を分解しないから明日が辛いぞ。もう少し起きておけ」
「大佐、大佐が居ないよ……」
「ここに居る」
「居ないよ。見えない……」
「君はいくつかね、ハボック少尉」
言いながら、それでも焔の大佐は今夜、珍しく優しかった。男の頭に擦り寄って持ち上げ、膝を枕に貸してやる。思い掛けないサービスに男は驚いて。
「……、夢……?」
そんなことを、口走る。
「そうだ」
「いい夢だなぁ」
「眠るな。何か喋れ。……私の質問になんでも答えると言ったな?」
「じゅーっさーいの秋でーしたぁ」
「ナニが。まさか初体験じゃあるまい。ファーストキスか?」
「いーえー。ケが生えたのぉー」
「……ファーストキスは、いつだ」
「えっとぉ、えっと……。……えーっと……、え、っ……、と……」
「眠いのか?思い出せないのか?」
「えーっと……」
「呆れたヤツだ」
「大佐はぁー?」
「……忘れた」
「セックスはぁー?」
「十……、六か……、七か……、って、なにを俺のこと聞いてる。お前が喋るんだろうが」
「俺はぁ、にじゅーいっさい、でーしたーぁ」
「は?あ?なに?もう一度、言え」
「二十一歳の時でしたぁー。初めてセックスしたのー。……キモチよく……」
「……」
「ニョーオプティンから東方司令部に転属になってぇー、赴任の列車が途中のハイマールで止まってぇ、すっげぇ大嵐でぇ、でもハイマール実家だからぁー、駅から家まで、歩いてってぇー。ずぶ濡れになったから着替えてぇ」
「……」
「俺の荷物、もう、あんま残ってないンですよね、実家には……」
家族は母親と姉と、姉の子供たち。金髪の少尉は末っ子の男の子で、姉と母親にたいそう可愛がられつつ育ったが、家を出てしまえば存在は希薄になっていく。
姉に子供が二人、生まれてから家族の中心は子供たちになった。それは仕方がないことで、男は成人すれば巣穴から出て、新しい自分の居場所を捜さなければならない。
「しょーがないから、店のバーテンの制服着てぇー。うち、一階が酒場で上が住まいなンすけどぉー、チビたちが嵐怖がって泣くから、店に下りてぇ、お袋とアネキに、閉店作業、するよって……」
それは慣れたことだった。軍人に憧れて十六で入隊し、東部内乱時の混乱に紛れて幹部養成学校に滑り込み、自分でもまさかと思う士官になって東方司令部に配属される前、世間という名のシャバに居た頃はよく、母親と姉の店を手伝っていた。
汚れたグラスや皿を洗い、椅子をテーブルの上に乗せて床を磨く。嵐のせいで客たちは早々に家路につき、掃除も終わって、カウンターの内側で一服し、さぁ鍵をかけて帰るか、という時。
ドアに取り付けたベルが鳴った。顔を上げつつ、もう閉店だと言いかけてやめたのは、その客が。
『すまない、もう閉店だろうか』
男の一人客。中背でやや痩せ型。暗い店の中に浮かび上がる白い顔は女の子みたいに整って、臨時のバーテンは目を細め、指に挟んだ煙草を流しで揉み消した。好みの顔、だった。少し疲れてかなり困っている、そんな表情も、かなりいい感じで。
『旅行ですか?嵐で足止め?』
挨拶もなしに尋ねると、相手はそうだと頷く。だろうと思った。
ドアを押し開けたまま、許可なくは店の中へ踏み込んでこない客の、品がいいというか、礼儀正しさは、田舎の宿場町であるこの町には、あまり馴染みのないもので。
『そう……。駅の施設に泊めてはもらえることになったんだが、もう何処の食堂も閉まっていて……』
へぇ、と思ったのは覚えている。路線分岐点であるこの町の駅にはもともと、町の人口に見合わない乗降客が東へ南へと流れていく。その流れが一度停滞すると、町の規模では収容しきれない数の旅客が途方にくれることになる。
駅構内に溢れた人間を横目に帰宅してから三時間。それから何本もの列車が嵐を避けてこの街にとどまっている筈で、混雑は物凄いことになっているだろう。
『よければ一杯だけ、飲ませてもらえると……』
とてもありがたいのだが。そう遠慮深く願う相手に、カウンターの真ん中の席を示しながら、
『どうぞ』