秘蜜
泣いてる身体を、抱き締めて。
腕に伝わる振動が、とてつもなく切なかった。
他の男のために泣き嘆く『女』を。
助けてやれないのが口惜しかった。
豪気、廉直、そんな風に言われるような生き方を、ずっとしてきたから。
だからあんな、甘ったるい気分にさせられたのは、初めて。
今のところ二度目はない。なくって、いい。
あれが恋とか、愛とか言うのなら。
最初から最後まで痛くて苦しかった。
だが、二度目がなくていいっていう気持ちは、痛いから苦しいからイヤなのではなくて。
痛さも苦しさも、ひどく懐かしいから。
別のであれを、忘れたくないから。
惚れたのは多分、顔を見る前から。
啓介が父親に反抗したとき、俺は奴に同調した。無茶を承知で、敗北を覚悟で。
あいつは父親と縁の薄いガキだったから、母親と一緒に実家に、よく帰ってきた。
生意気な悪がきだったくせに目元はどうしても寂しそうで、俺はよく相手をしていた。
年齢の違いは七つ。だが俺の気分では、奴は、弟と言うよりも、息子。
どんなに馬鹿でも、見捨てられなかった。
玉砕を、覚悟していたのに、征伐軍の到着が遅くて。
何度も密書に、命を助けられて。
細くて堅い印象の筆跡は、もしかして助かるかもしれないという希望そのものだった。
命をくれた、『女』。……けれども俺は、ついで。
『女』助けたかったのは俺でなくて、啓介。
分かっていたが、それでも、感謝をするなというのは無理で。
おれみたいな男の感謝はそのまま、慕情になることを、俺自身初めて、知った。
男を助けてくれることは、女にしか出来ない。ただ。
単なる女にも、出来ない。
助けてくれと男に縋りつかせるほど強くて聡明で、……美しくて。
そんなのだけが、なれるのだ。『女神』に。
目覚めは穏やかだった。
春の、明け方。粗末な藁の寝台から起きると、東の窓には朝焼けが見えた。細くたなびく雲が茜色に染まって、ゆったり流れていく。
侍従を呼ぼうと鈴を探しかけて、室内を見回し苦笑する。習慣というのはなかなか抜けないらしい。生まれた時から、従者に傅かれる生活をしてきたから。
簡素というより古びた部屋、そして調度。違和感が無かったのは、戦場の宿舎ではいつもこんなものだからだ。自分で寝巻きを脱いで礼装に着替える。今日は……、処刑の日。
俺自身の。
堅い椅子に腰掛けて、明け方に見た夢を反芻する。十何年も前の記憶なのに、昨日のことのように鮮やかだった夢と記憶。泣いていた『女』の、黒髪の震えまでまざざと、思い出す。
「失礼します、御目覚めですか、将軍」
看守が遠慮ぶかげに木の厚いドアを叩く。塔に繋がれた罪人の俺に、看守たちは精一杯に、丁寧に仕える。
「御食事を、持ってまいりました」
「あぁ……、悪い、メシはいい」
「しかしも昨夜も何も召し上がっていないのでは
「死んだ時、腹にモノが入ってると醜態を晒すからな」
戦場で死体馴れした俺には当然の発想だったのだが。
「……、っく、ふぇ……」
扉の外から泣き声が聞こえてきて、あぁ、と思った。
「分かった。食べる。入れてくれ」
扉が開いて向こう側にいたのは、看守ともう一人。小さい身体には無茶なほど大きく重そうな盆を持った、俺の、養子。
「よく来たな」
掌で肩を叩くと、顔中くしゃくしゃにして泣き出す。赤子の頃から、俺が育てたガキ。
「ほら、落とすぞ」
子供の手から盆を受け取って机の上に置く。手をつける気が無いまま、子供を膝に抱いた。
俺は、結婚をしなかった。
寝床に侍らせる侍女は何人かいるが、正式に女を娶ってハレムを形成することはなかった。昔、啓介と一緒に叛旗を翻したときに独身の誓いを立てたから、というのが表向きの理由。本心は……、たぶん、女じゃなくて女神が欲しかったから。
それじゃなけりゃあ、何も要らなかった。
跡取には啓介のガキを養子にした。これが生まれる前、女の腹にいた頃から腹ごと、女を下賜された。最初は断るつもりだったが女を見てやめた。何処で捕らえられたのか売られたのか、黒髪に象牙の肌の、女は、死んだ『女神』によく似ていた。
彼女を寵愛した啓介の心の傾斜も、孕んだから棄てようとしている矛盾も俺にはよく分かった。奴は多分、死んだ『女神』の代わりにこの女をずいぶんと愛して……、しかし。
宗主のハレムでは、主人が女を寵愛すればするほど、孕ませるのは、まずい。
他の女たちの嫉妬と警戒を買うから。それが男の子でもあった日にゃ母子ともに、いびり殺されちまうことは必至だ。それを、啓介は避けたかったのだろう。
俺は女を引き取った。女は、俺の屋敷でまだひっそりと、生きている。産まれた子供は男の子で、それが今、泣いているこの子。
親子だから当然だが、ガキは啓介によく似てた。それが黒髪で、慕ってくるのは可愛かった。啓介とあの『女神』のガキを預かってる気にもなって、ずいぶん大事に、育てた。
「親父を恨むなよ」
言うと子供は俺の膝上で、激しく頭を左右に振る。宗主に対する非難の言葉は、漏れればそれだけで反逆になるから、こんなガキさえ口にはしないけれど。
それでも。
「俺もしてきたことなんだ。罪がなくて死ぬのは、仕方ないことだ。上にのぼった以上はな」
俺自身の罪状を俺は知らない。多分、文官の誰かが適当なのをつけているだろうが、知りたいとも思わなかった。要するに俺が邪魔になった、それだけで、充分。不自由なものだ人間というのは、役職を与えられ機関として働いて、不要になったから分解して鋳溶かす、訳には行かない。殺さなければ、始末、出来ない。
「お前が本当は宗主の息子だってことは、宗主も皆も知ってる。お前は無事に生きていけるだろう。母上を大切にしてな」
子供に言い聞かせ、背中を押して部屋から出す。泣く顔があんまりガキの啓介にそっくりで、そんな場合でもないのに俺は、笑っちまった。恨む気持ちというのは不思議となった。仕方がない事を俺自身、よく知っていたから。俺が、啓介を幽閉したこともあったから。
帝国は広がり、地位が上がって俺たちは、互いに責任と制約のある……、ありすぎる立場になった。どうして俺を処刑するのか、する必要があるのか、そんなことに興味はない。あるのは……。
鐘の音が聞こえてきた。
暁を告げる鐘じゃない。宗主の意思で時刻に関係なく鳴り響く、ハギア・ソフィア寺院の、美しく澄んだ音色。朝焼けの朝にはよく、この音が聞こえてくる。朝焼けに多分、なにか思い出でもあるのだろう。
処刑の時刻を待ちながら、ぼんやり自分の一生というものを思う。俺は功なり名を遂げた。最後でコケたが、これは仕方がない。狐を狩りつくせば猟犬は煮られる。戦乱と征服の果てに武将が、文官の讒訴で始末されるのは歴史の必然だ。
コンスタンチノプールの陥落もヨハネ騎士団からもぎとったトルコ軍初勝利も、俺には大した意味はない。気に掛かるのは一つだけ。
ちっとは役にたてたかい?
愛した弟を守りたいと泣いていた、あんたの、せめて代わりと思って庇護してきたぜ、奴を。
花咲き乱れる天国で、あんたにそうだな、一言。
言ってもらえりゃ、それで収支はあう。
柔らかな身体が褥の隣に、添う。
武人の風上にも置けない柔弱な夢を、俺は時々、見る。
白い美貌が俺に笑いかけ、腕がゆっくり、俺の首に巻きつく。
おいおいと、俺は笑う。
いいのかよ。ばれたら怒られるぜ。泣くくせに。
綺麗な『女』は微笑むだけで答えない。ゆっくり俺を寝台に引き倒される。それで拒むほど、俺は聖人君子じゃない。白くてしっとり湿った、真綿の雲に顔を埋めてるような、心地よさ。指を這わせて身体をさぐっていく。しなやかに仰け反り、『女』は反応した。
声はない。出してない訳じゃなさそうだが俺には、聞こえない。
優しくほどいて、俺を含ませて、閉ざす。ゆったり含みながら『女』はもう一度、俺を引き寄せ、囁いた。……耳たぶに花びらの唇が触れようとした、途端。
がくっと、身体が揺れて目覚める。
椅子にもたれてうたた寝していたらしい。
その椅子を蹴りとばしたとおぼしき姿勢で啓介が、
「いい度胸だな、京一」
憎々しげに言い放つ。
「処刑前だってのに、ぐーぐー寝やがって」
「……いい夢みてたんだぜ」
「そりゃ気の毒に。残念、お前はまだ、憂き世で苦労するんだ」
俺だけに押し付けて楽はさせねぇよ、と言いながら。
ぐいっと目の前に突き出される、羊皮紙。
処刑執行の命令書。
ではなかった。
くそ田舎への、転任命令。
だろうとは、思った。
「長年の功績により、死一等、恩赦だ」
「天使でも、お前の枕もとに立ったか?」
からかい文句のつもりだったのだが。
「出発前に、花でも供えとけ」
ハギア・ソフィア寺院に?
「俺が間違うと、朝焼けになるんだ。……いつも」