晩秋

 

 

 そのとき。嫌な気持ちに、なった。

 胸に黒いもやがかかるような、そんな気分だ。

 そのもやはもともと、俺の胸にある。いつからあったかは分からない。ずっ以前から。多分きっと、こいつらと会った最初から。もしかしたら、出会う以前から。

「お帰り」

 冬のオフシーズンがやってきて、三ヶ月ぶりに帰国した弟が、病院から帰って来た俺を出迎えることもせず。

「おう、帰ったか」

 広い屋敷の、広い座敷に腰を据えて、座椅子に座って熱燗なんか、飲んでいるのを見て。

「遅かったね。病院どう?大変?」

 俺の座布団を啓介が自分の隣に引き寄せる。京一は続きの台所から、鳥の手羽先と大豆の煮物、醤油色が砂糖のテリが輝く、柔らかそうな肉と皮と丸大豆とが、湯気をたてているのを持って、来る。

「おめぇは、ナンにする?」

「どぶろく」

 嫌味で言ったのに真面目に頷かれ、くどと呼ばれる土間に消えたかと思うと、白濁した液体を俺の前に据える。しまったと、俺は思った。どぶろくは、この辺ではカンタンに手に入る。葡萄栽培が盛んなこの辺で昔から作られている密造酒だ。葡萄を房ごと、皮ごと甕に入れて搗き潰し、最後に皮と種を除き汁を残す。葡萄の皮には自然の酵母が付着しているので、そのまま密封、していれば発酵して酒になる。

 京一の母親の実家はこの辺の地主で、今でも随分な小作地を持っている。といっても、村中、親戚のようなこの土地では、小作料は作物の収穫のおすそ分け、現物支給になっている。

 金銭の貸借契約と違って小作権が発生しないから、年に一万やそろらのはした金を貰うより効率がいいのだと、京一は笑っていた。そうして病院へ通勤の行きかえり、ナスが実ってきたなと思えばその夜にはナス料理が、ダイコン畑が盛り上がって見えると思えばダイコンが食卓にあがる。

 俺が、どぶろく、なんて言っちまった、のは。

 今日、病院の待合室でそんな話を、患者たちがしていたから。病院というより診療所、木造平屋の建物は問診している俺にまで待合室の会話が筒抜けだ。診療室にも問診室にも古びた石油ストーブを置いて、上にはヤカンがかかって湯気を噴いている。昼飯時には看護婦のせつ子さんと、それで茶を煎れて飲む。

気温がぐっと冷え込んできたから、今日あたり甕の封を切ろうか、と。その会話の中には駐在所のおマワリも混じっていて、どぶろくは違法じゃないかという村人のからかいに、俺は警察官で税務署の人間じゃないからと笑っていた。

 密造は司法じゃなくて税法上の違反なのか、なんて考えながら俺はヒョウソの切開手術をした。骨と神経に近い場所に膿がたまってて、ちょっと手間どった。おかげで仕事が遅れて、真っ暗になった夜更け、今日戻って来る予定の啓介がさぞ俺を待ちかねているだろう、と。

 俺が帰ってこないから心配で、玄関と門を行ったり来たり、しているかもしれない。

 ……なんて、俺は真剣に心配していたのに。

 啓介は暖房の効いた部屋でちびちび飲みながら、うなぎの白焼きにを山葵醤油で、そして葱とシジミの酢味噌の小鉢を美味そうに大切そうに箸をつけている。京一が俺にも皿と箸を持って来た。自分の分も。俺にはぬる燗の日本酒、自分は麦焼酎の、お湯わりを用意して。

「なぁ、この家、コタツないのか?」

 啓介が京一に話し掛ける。それも、俺には面白くない眺めだった。

「ない」

「買いに行こうぜ。っても、店がないか。ネットで注文して配達してもらやスグだろ」

「あれは掃除が面倒だ」

「春まで据えっぱなし、してりゃいーじゃねーか」

「俺はそういう、ケジメのない真似は好かん」

それにコタツの必要がドコにあるのかと、京一が言う。確かにそうだ。この家は純和風だが壁には断熱材が貼りつめられていて、障子の外側には二重ガラスのサッシがはめこまれてる。エアコンを入れればそれで十分、部屋じゅうが温かい。

「気分だよ、気分」

 ぶつくさと、啓介が言う。俺は本当に面白くなかった。

「石油ストーブ点けてさぁ、天板で湯、沸かしたり餅焼いたり、してみてぇ」

「そんな冬には飽き飽きだ」

「したことねーもんよ、俺は」

 高崎の実家は洋風の鉄筋作りで、全室、セントラル・ヒーティングだった。

「ちょっとイイよな、こんな田舎暮らしも。これでツクシとか、フキとかあったら満点」

 名前は知っているが、土に生えたのを見たことがないそれら。

「春になりゃ、庭で山ほど採れるぞ」

「マジかよ」

「……啓介」

「はい、なに?アニキ」

「コタツは、イヤだ」

「えー、なんでぇ」

「もぅ、飽きた。イヤだもう、こんな田舎暮らし」

 さっきまでは思ってもいなかったこと。

 でも嘘じゃなかった。イヤだと口にすると、本当に、嫌な気分になってきて。

「泥臭い川魚も、イヤだ」

「えー、美味いよ、うなぎ」

 食べてみなよと啓介が言う。京一は曖昧に苦笑するだけで何も言わない。俺の難癖がやつあたりだと知っている。京一が釣ってきたのを、庭の池で生かして泥抜きした鰻は、鮎ののぼる大川でとれたもの。鯉同様にうどん玉の餌で飼われた鰻は丸々と肥り、腹からひらかれ炭火であっさりした白焼きにされて。

 小骨があるから鰻は嫌いだと、かつて啓介は言った。それに蒲焼は甘ったるい後味がいつまでも口に残るからいやだ、と。タベモノに小うるさいという意味では俺より啓介の方がよほど、食事に関心をもっている。京一は眉を寄せ、味はともかく、蒲焼に料理したうなぎにどうして、骨があるのかと不審そうに言った。

 関東では、開くときに、背開きにするから。

 腹の内側の小骨をすきとれないのだ。

 だから、うなぎにも、ハモにも小骨が残っていて、食べにくい。

 その点、イマ、目の前にある皿のうなぎは、とても上手にひらかれて、柔らかな身とぷりぷりした皮が、空腹の俺に絶望的な誘惑を仕掛ける。

 箸をとって、口に入れた俺の顔色をうかがうように、

「美味いだろ?」

 啓介は尋ねる。まずい、とは言えなかった。俺は黙々と食べる。大きな鰻の一匹が一人前。ふっくらとしたその身は幅、三センチくらいに切られたのがこんもりと、温かみのある土色の陶器に盛られていて。

 口惜しいくらい、美味かった。

 

 俺はさっさと食事をすませ、風呂に入って自室に引き揚げた。

 座敷で、男2人はまだ飲みながら、コタツを買うの買わないの、と話している。

 ふん、勝手にしろ。そう考えながら、のべてあった床に入る。そこが温まった、頃。

 からりと、襖が開けられて。

「ゴキゲン斜めだね、アニキ」

 布団の中からそっちを見ると、いい機嫌そうに啓介が言って敷居を越えてくる。

「……来るな」

 俺は布団の中でカラダを返し、くるんと背中を向けた。勿論、そこで引き返す啓介じゃない。

「なに言ってんの。風呂にまで入ってくれといて」

「……そんな意味じゃない」

「わりぃけど、駈引き楽しめるほど余裕ねーの、俺」

 ……知るか。

「縛るよ。聞き分けが悪いと」

 返事はしなかった。代わりに布団をカラダに巻きつけ掌でぎゅっと掴む。暖かな褥から、

「……、お、まぇッ」

 不意に、引きずり出された。

「京一……ッ」

 無防備だった裾から、ネルのパジャマで眠ってた足首をつかまれてずるっ、と。それも半端ではなく、全身が畳の上に出るまで。

 上衣の裾がめくれて、冷たい外気が腹に当たる。慌ててカラダを起こそうとしたが、

「大人しくしてないと、ホントに縛るよ?」

 優しく、でも一抹の怖さをひそめた声で弟が俺を脅す。脅しながら、俺の手首を広げて畳みに、貼り付けた。

「……寒い……」

 痛い、と言うのがなんだか口惜しくて、そんな言葉でせめて抗う。

一対一でも、なりふり構わない本気さで抵抗しないと、かなわない連中。

もしかしたら、それでもダメな相手に二人がかりで来られて逃げられる余地は、ない。

「……、ぁ……」

 無造作に、剥かれる。

「ヤメロ……、や、め……」

 下衣を京一に、上衣を啓介に。

「……、イヤって言っている、だ、ぁ……」

 俺のセリフは最後まで言えやしなかった。

 啓介に、ムリヤリに近いくちづけで塞がれて。

 犯される。そう思ったほど深い、キスだった。

「……、だよ……?」

 愛の言葉を甘く、合間に囁きながら、重ねる角度を変えて何度もそう、されてしまうと。

「……、ん、う……、ン」

 力が抜ける。抜けてしまう。カラダの関節が飴みたいに熔けて、もう。

「あぅ、あぁ……、ァ、ンッ」

 二人の手指で舌で、狭間に胸、うなじ、耳元。そんな弱い場所を嬲られて。

「きゅ……ッ」

 明りを点けられた寝室はあかるいのに、俺は涙で視界がきかなくなる。時々ちらっと、涙ごしに光が見えるだけに、なる。

 力の強い、ごつい指が、俺の尻を掴んで。

「……、イ……、タイ……、イタ……ッ、や、ぁ……」

 強張りを、揉み解すように、丸みを左右、交互に。

「やめて、くれ……、ヤメ……」

 そんなことを、されると、もう。

「アソブぶの、ヤ・メ、ロ……」

 俺、だって……。

 のたうつ俺をどちらかが慰撫、しながら、腰を引き寄せる。

 それは途中で止められた。 

「おい……、弟。俺が先だ。お前がこの前、最後だったろう」

「そーだったか?覚えて、ねぇよ」

「嘘つきやがれ。いい加減、限界のこいつをガンガン、膝の上でヤッて失神させただろうが。揺すっても揉んでもそのまんま起きねぇから、オカゲで、見送りもしてもらえなかっただろ」

 京一の指摘に、チッと品のない舌打ち。俺はそれどころじゃなかった。泣きながら息を継ぐ。

「てめぇ、アニキんこと、ずっと弄ってやがったじゃねーかよ。三ヶ月ぶりだぜ、こっちは」

「俺だって本番はそうだ。画像、見てただろう、そっちも」

「ナマとは違うぜ。あったかくねぇし。うぉ、えげつねぇイロ、しやがって……」

「ひとのこと、言えるのか」

「アニキだいじょーぶ?久しぶりなのに壊れない?」

「ふざけてねぇで、さっさと出せ」

「ゼリー、塗ってあげるから、力抜いてて、な……?」

 水気を含んでもう、崩れそうな俺に。

 やさしい指の動きはいっそ、拷問のようだった。

「……、ァ、は、ぁ……」

「もちっと?」

「イヤ……、も、や……」

「こっち側?」

 涙に、くれながら。

「……、し、て……」

 吐き出すことを強要される、腹の底の汚れ。

「して、クレ……。なぁ……、焦らさないで、……シテ」

「……どっち?」

 俺がいい、それともアイツ?

 耳元で囁かれる、声に。

「……、リョウ……、ホウ」

 死に際みたいに細く、俺は、応えた。

「じゃ、教えて。どーしてさっき、不機嫌だったのか」

 三ヶ月ぶりに会えたのにと、耳元で攻められて。

「……った、カラ……」

「ん?」

「い、や……」

「何が?」

 お前たちが。

「仲良く……、してるの、イヤ……、だ」

 俺が寂しくなっちまう、から。

 そう答えると、啓介はくすくす、笑いながら指を引いた。未練げに俺が纏わりつかせる粘膜を、あとでと慰められて、入れ替わりに、俺には、火傷しそうな楔があてられて。

「仲いわけじゃねぇよ、ゼンゼン。ただ、あんたを囲い込むのに、俺の腕だけじゃ足りない、ダケ」

 そんな事はないとか。

「あんたを二度と、俺、逃がさないよ」

 汚れた街の、底には。

「大事にするから。……してねるだろ?」

 やさしい問いに、俺は応えられなかった。

 貫かれる衝撃と快感は、俺にも三月ぶり、だったから。

 

 いつも通りの、夜。

 交互に抱かれて、喘がされて。

 指一本、動かすことが出来なくなったカラダを褥に、横たえられる。

 毛布を掛けられそうになって拒んだ。アツイから、まだ。内側から発散する熱にやかれている、から。

 二人は褥の左右に体を伸ばして、俺を挟んで髪を撫でたり、背中を擦ったりしてくれて、いた。やがてうとうと、している俺が眠ったと思ったのか、どちらかが、そっと物音をたてないよう部屋の奥の押入れから夏のタオルケットを取り出してふわりと、俺に掛けてくれる。

 頭まで包まれて、俺は、心地よさに微笑んだ。

 二人には見えなかった。

 二人は、声を低めて話をしてる。アニキを連れて海釣りに行こうと啓介が熱心に言い張り、京一はあまり、気が向かないように答えてる。明日は日曜の大潮で釣り船は多いだろう。貸切はムリだし、左右に気を兼ねながらの釣りで涼介が楽しめるとは思えない、とかなんとか。

 四時起きが面倒なのかと、俺は思ったが。

「てめぇ、釣りはいつでもできるけどアニキは今しか喰えねぇ、とか思ってねえだろな?」

 啓介は、もう一つ、深いところを察していた。

「船に乗っていくのだけが海釣りじゃねーだろ?」

「湾の魚は磯臭い。泥底の川魚と同じだ」

 二人のやりとりがどう、決着がつくか、俺は分からなかった。眠気に負けて、とろり、と。

 会話はいつの間にか、コタツのことに戻っていて。

「……あるにはある。六人用の、でかいのが。そんなの買ってどうする。場所をとる」

「コタツの一つ二つで狭くなるよーな家かよ。どうするかって、決まってっじゃねーか」

「温まるなら、暖房でじゅうぶ……」

「アニキ縛るんだよ。俺、いっぺん、やってみたかったんだ」

「……、コタツの脚に、か」

「いい眺めそうだと思わねーか?」

「……」

 おい。

 黙るな、京一。

 大人の良識で窘めろ。

 俺は眠い。もう、目がひらかな、い……。

「……、だな……」

 空耳だ。

 きっと、そう。

 自分に言い聞かせながら、眠りの沼に、落ちる。

 静かに。そして、安らか、に……。