結局、その若いときは。

「……え?」

 逃げられた。

「護衛はボンゴレに帰ったぜ、ボス。代わりにボスには九代目さしまわしの家庭教師が来てる」

 何回か触れ合っただけで。

「なにか……」

 キスもしていなかった。させてくれなかった。

「言ってなかったか、アイツ」

「いいや、特には。ボス」

 まだそう呼ばれると苦しそうに顔を歪める若い主人へ、幼いころからついてくれているロマーリオはさりげなく答える。

 父親の葬儀が終わるまではそばにぴたりとついてくれていた。身分をごまかす為にイタリア傭兵隊の制服を着て、目深に被った軍帽に伸びてきた髪と美貌を隠して。ボンゴレとイタリア軍との癒着を知るファミリーの面々は、それが九代目から名づけ子を守るために遣わされた本物の軍人だと信じて疑わなかった。

 細身のバネのきいた身体は軍服がよく似合って、その姿は金髪の喪主の心を慰めた。何の覚悟も自信もなく『世界』に放り出され、不安に震えるへなちょこの、ほとんど心の支え、だった。

「……あいつ」

 だまされた。裏切られた。そんな気持ちが胸の中に満ちる。雨の日の遭難以来、キャッバネーロの御曹司は九代目さしまわしの護衛の『言うこと』をよく聞いて『いい子』にしていた。

「ボス。家庭教師がお待ちかねだぜ」

 逃げたりせずにおとなしく、していた理由は『可愛がって』欲しかったから。何度も願った。でもそのたびに、仕事が終わってからなぁと言われ続けていた。足腰にガタがきていちゃマフィアの世界で護衛は勤まらねぇンだよ、と。

 言われていい子に我慢した。長い間憧れていた相手に嫌われたくなかった。護衛に代わって家庭教師が来たとたん。、約束も果たさず挨拶もなしで姿をまさか、消されるとは思わなかった。

「チャオッス」

 ボンゴレ九代目が最も信頼するアルコバレーのヒットマンは、後に言った。へなちょこのやわだと聞いていたけれど初対面は結構、気合の入った顔つきをしていてそこが気に入った、と。

 気合が入っていた訳ではない。腸が煮えくり返っていただけだ。生まれて初めての深刻な怒りを胸に燃やしていた。生殖本能を踏みにじられたオスの凶暴な衝動は、金色のへなちょこが跳ね馬に脱皮する最初の原動力だった。

 

 

 

 

 二十歳を迎えて、一人前のボスとしてファミリーの内外に認められ、家庭教師の指導を得て跳ね馬と称されるようになって、ボンゴレの本邸へ足しげく出入りするようになっても。

「……」

 独立暗殺部隊であるヴァリアーの構成員とはなかなか会わなかった。探す相手が反逆という前科もちの札付き、監視対象とされている危険人物であれば尚更。

「ボス」

 ボンゴレにくるたびに無駄と知りつつ周囲を見回す主人にロマーリオが優しく声を掛ける。

「目立つぜ?」

 先代が傾けたファミリーを再建し発展させつつあるボスの姿は同盟ファミリー内でも注目される。容姿がとびきりの若者とくれば尚更。九代目の私用で呼ばれた証拠のラフな私服姿。デニムのジーンズで大理石の廊下をのし歩く特権は、ボンゴレの長老たちにさえ与えられていない。

「あんまりきょろきょろしない方がいい」

「ああ」

 若いボスは部下の進言にはいつも素直だ。分かったと頷く。けれど頭がじっとしているのは五分ほど。あとは回廊の向こうで中庭の果てで、人影が動くたびにはっとしてそちらを見る。

「ヴァリアーの人間とは、ボンゴレの幹部でさえめったに会えないっていうぜ」

「ああ、そうだな」

 分かっている。アイツがこんなところをうろうろ、している筈がないことは。

「今日の用件はなんだったんだ?」

「……うん」

 うつむいて口元で笑う、表情がロマーリオには気になる。以前は見せなかった大人びた表情。腕を上げたとか年をとったとか、そんな次元ではない、『暗さ』に近いが、『凄み』にも似ている。

「ボス?」

「言ったらお前は反対すると思う」

「だからってまさか俺に黙ってナンかする気じゃねぇだろ?」

「反対しないでくれるか?」

「あんたもう俺のボスだからな。文句は言うかもしれねぇが、あんたの判断は絶対だぜ」

「ありがとう」

 感謝の言葉と微笑みに続いて、言われた内容にロマーリオは眉を寄せた。

「ボス」

 ボンゴレには世話になっている。名づけ親子の縁にすがって、殆ど庇護を受けていた時期もある。それにしても。

「自分のところの汚れ仕事をウチに押し付けるつもりか、ボンゴレは」

「もともと俺を、その為に育ててくれたんだろ」

「……」

 ロマーリオが口を噤んだのはその台詞自体に驚いたせいもあった。けれど、下心つきの愛情をさも当然のように言う、若いボスの覚悟のよさに一番、驚いた。

「それに、これにはヴァリアーが一枚噛んでる」

「ボス」

「うん」

 部下の心配を若いボスはおとなしく肯定。

「そういうことだ」

 開き直り、に似た度胸を見せて。

 

 

 

 

 仕事で、今度は庇護の対象でなく協力者として会ったもと同級生の問いかけに。

「俺に何か言うことは?」

「立派になってめでてぇなぁ」

 ヴァリアーの腕利きは悪びれないで答えた。キャッバネーロが呼び出した標的、裏取引の餌に引っかかってのこのこ出てきた裏切り者をビルの屋上から見下ろしながら。。

「それだけか」

「食い殺さないでおいてやった甲斐があったなぁ」

「そういうことになっているのか、お前の中では」

「中でも何も、御曹司」

「もう違う」

「跳ね馬」

 自分のソレでない以上、ボスとは呼ばない。

「てめぇがあんまりヘナチョコだったから見逃してやったんだぜぇ?」

 薄く怖く、笑う美貌は月を背景に死を司る女神のように白い。

「今ならどうする」

「刀の錆だ」

「負けねぇよ?」

「やらねぇよ。どーせてめぇも口だけだぁ」

「……」

 それはそう。同盟ファミリーの『ヒットマン』と、こんなところでやりあう事は出来ない。へなちょこでなく男になったということは、そういう不自由な仁義を守って生きていくということ。我侭を言っていい子供時代は終わった。

「メシ、食いにいかねぇか」

「行かねぇ。オレぁここから、即、姿を消す」

「一緒に行っていいか」

「いい訳ねぇだろぉ。てめぇは明日、待ち合わせ場所で死体を見つけて驚けぇ」

「……聞いてみただけだ」

 風邪の強い屋上、ジャケットのポケットに両手を突っ込んだ『ボス』の姿勢で金色の跳ね馬は細い銀の姿を眺めた。

「髪、伸びたな」

「切ってねぇからなぁ」

「よく似合う。でも少し痩せすぎだぜ。ちゃんと美味いもの喰って眠れよ?」

「うるせぇ」

「ザンザスは」

「それ今度、口にしたらかっ捌くぞぉ」

「じゃあ、オマエの恋人は」

「あぁ?」

「オマエに優しくしてくれているのか?」

 やつれた横顔が気になる。へなちょこの頃はあることにさえ気がつかなかった目元の翳も。

「うるせぇ。かんけーねぇだろぉ」

「関係はないけど気になる。オレはオマエに騙されて逃げられてふられたけど、オマエのことをまだ大好きだ」

「はぁ?」

「優しい恋人と仲良く幸せ、だといいな、って思ってる」

 十代の頃より細くなったように見える横顔は薄幸そうで、金色の若いボスの心の柔らかな場所をジクジク、痛ませる。

「つまんねーから、黙れ」

「オマエはキレイだ、スクアーロ。オマエの愛を得ている人間がオレは羨ましくて仕方ない。でも、愛してもらえなくても、俺は今でも、オマエを愛してる。オマエの持ち主がオマエを大切に……」

 甘い言葉の最後は風が聞いた。ビルの屋上からやや低い位置にある隣のビルへと飛び降りた暗殺者は、屋根を伝ってすぐに見えなくなる。標的が動いたらしい。

「してくれればいい……、なんてな」

 風に呟き金色の跳ね馬は微笑む。

「ウソだ。大嘘。そんな純情可憐なオトコがこの世に、居る訳はないだろう、スクアーロ」

 屋上でつきに向かって呟く、台詞は自分でも弁解じみて聞こえる。好きなオンナの不幸は甘い。つけこむ余地が自分に出来るから。でも心配でたまらない気持ちが胸のソコから消えない。痩せて寂しそうだった。かわいそうだった。

 ザンザスの姿はここ五年以上見えない。奴が何処でどうしているのか知る者はない。後継者争奪戦に破れ粛清されたという噂がまことしやかに流れるが、奴を倒した者の勝ち名乗りを聞かない以上、それをうかつに信じることもできない。第一、あのザンザスを倒せる男がボンゴレに居るのか?

「オマエいったい、いまどうしてんだ?」

 銀色の月は答えなかった。

 

 

 孤独にしていた、ことを金の跳ね馬は後日、知る。

 躍動感溢れるような、十四の頃の輝きと勢いを取り戻した銀色の鮫は勝負に敗れて大怪我を負い、掌の中へ落ちてきた。

 ザンザスはリング争奪戦に敗れて罪人となった。返せと言えなくなった状況につけこみ手元に置き続けた。門外顧問たる家光からの身柄の要求にも、息子である沢田綱吉への協力と愛護を盾にして跳ねつけた。金色の跳ね馬の手配によって病院へ運ばれ命をとりとめた九代目は、共犯の一人を引き取りたいという名づけ子の願いを受け入れた。

「ボスは?」

 それを伝えた時の返事も、それまでにかけた全ての言葉の返事と少しも違わなかったのはいっそ見事だ。

「ザンザスは?あいつはどうなった?」

 知らないし、知ったことじゃない。殺された、と言ってやれればどんなにすっとするだろう。

「門外顧問の手元に居る。どうなったかは、分かったら教えてやるよ」

 同じ返事を繰り返す。

「死んでねぇんだな?」

「九代目は存命だ。あいつを殺すことは許さないだろう」

 何度も繰り返した慰めの言葉を聞くと。

「……」

 銀色の鮫は少しだけ安心するらしい。座らされた椅子のクッションの上で俯き息を吐く。傷が深かった左肩と額に包帯の残る体で、らしくなく大人しく捉えられているのは。

「オレの話をちゃんと聞いていたか?スクアーロ」

 脅しが効いているからだ。反抗も逃亡も、罪を犯せばそれはザンザスの処罰に加算する、と。飢えた狼の咆哮を上げていたこの剣豪がその名前を聞いた途端、牙も生え揃わない子犬のように大人しくなった豹変を、金の跳ね馬はうらめしく思った。

 素行はがさつで口は乱雑だが、鮫の知能は低くない。

「自分がどうなるのかは理解したな?」

「ヤんのか?」

「そうだ」

 金の跳ね馬が細い顎に手を伸ばす。掴んで顔を上げさせる。表情は悲惨でも悲痛でもない。どうでもよさそうな無関心。

「オマエはオレの、情婦を兼ねた奴隷になるんだ。オレが飽きるまではそばから離さないし、オレの許可なく誰かと会うこともどこかへ行くことも許さない。オレが右を向けと言ったら向け。足を開けといったらひらけ。髪を切れと言ったら……」

 跳ね馬がそこで言葉を切ったのは、銀灰色の瞳が見開かれたから。珍しい生々しい反応だった。切りたくないと瞳は願っていた。

「切りたくないなら、言わない」

 その意味を知らない金の跳ね馬は見事な銀髪を撫でながら囁く。手に入れた銀色が自分を見たのが満足だった。

「今夜、抱く。覚悟しておいてくれ」

 強権で服従を強いるマフィアのやり方で、長い間、欲しかった相手をようやく、手に入れる。

 

 

 

「なぁ。ボス」

 寝室へ向かう途中の廊下、壁に背中を預けたロマーリオに待ち伏せされて、金色の跳ね馬は眉を寄せる。

「やめねぇぜ、ロマーリオ」

「止めねぇさ。そうじゃなくって」

 ロマーリオは右手でメガネを押し上げ、そのまま手を下げない。表情を隠しながらこうやって喋るのは言いづらいことを口にする時の癖だと、ディーノには分かっている。

「身体検査をさせてもらった」

「おい」

 ディーノが顔色を変える。そんなことは命令していない。第一、雨戦いの後からずっと捉えていたのだ。まだ怪我は完治していないし、武器など持っているはずがないのに。

「ヴァリアーでも娼婦でも、ボスの相手を務める以上は協力してもらう」

 ロマーリオは淡々と話す。ファミリーのボスという立場上、近づける『相手』には警戒が必要だ。ディーノはチッと短く舌打ち。それで腹立ちを押し殺した。娼婦を買うのと同じ扱いをしたくはなかった。銀色の鮫の自尊心を守ろうとしている為ではない。優しくして潤わせた方が美味く喰える。

「オトコの恋人が居るカラダじゃなかったぜ」

「……え?」

「一言、報告しとこうと思った。じゃあな」

 頑張れよ、と手を振られディーノは立ち尽くす。若い頃は相当の遊びに人で、今でも玄人を『選別』させれば目利きだと評判のオンナな側近の、遠ざかる背中を眺めながら。