翌日。
「スクアーロ」
名前を呼ばれ、意識は眠りの沼の表層へ浮上した。けれど瞼が恐ろしく重い。
「起きてくれ。行かなゃならねぇんだ。顔を見せてくれ」
乞われて、ぼんやり聞いていたが、はっとして目を開ける。切々とした口調で訴えてくる金の跳ね馬が何処に何の用事で行くのか、気がついて。
「よかった。おはよう、スク……ッ」
跳ね起きる。細い身体のバネの素晴らしさを見せ付ける素早さで。銀色の長い髪が軌跡を描いて瀬に落ち着く前に、ベッドの横に立っていた男の首に右腕を廻し、そのまま、声と気配で見当をつけただけで上手に、標的を見事に捉えて唇を重ねた。
「……、ン」
一瞬だけ怯みかけた金の跳ね馬は、唇に柔らかな感触が触れた瞬間、逆に自分が襲い掛かる勢いで腕を回す。背中と腰を捕らえてぎゅっと捕まえる。細い。関節がよくしなって、腕の中でよくたわむから、余計にそう思う。抱きしめる肩も背中も見下ろす尻も足も裸のまま。昨夜は二人ともへとへとになるまで揺れあって、最後には顔に触れる手が自分のものか相手のものか、分からなくなるくらいぐちゃぐちゃに溶けた。
「ちゅ、ン、ちゅ、ッ」
絹糸のような髪を、主人の傲慢で五指に絡め形のいい頭を抱く。何をしても苦情を言われない自信があった。従順の動機は愛情でなくとも、好きな相手を思い通りに出来るという至福は男の表情を緩めさせ気持ちを昂ぶらせる。
「は、ぁ」
「ン」
最後に互いに吸いあって、絡める舌を解き、息をつく美形をそのまま、胸の中に抱いて。
「分かってる」
腕を撫で下ろし、肉付きはうすいがよく引き締まって昨夜さんざん、自分を愉しませてくれた尻を撫でながら銀色の髪を鼻先で掻き分け、耳朶を舐めながら相手が望む言葉を囁いた。
「オレもマフィアの男だ。約束は命と引き換えでも守るぜ、スクアーロ。オマエが見せてくれた夢にはきちんと報いる。万一の時には交渉のテーブルをひっくり返してアイツの逃亡に手を貸す」
「……」
「安心しろ。オレはこれでもボンゴレ同盟ファミリーじゃトップスリーに入るキャッバローネのボスだ。っても、他の二つは歴史的な付き合いってだけで、今現在の金銭的な協力関係でいえばぶっちぎりでトップだぜ。そのオレが命がけの覚悟で居る。オマエは安心して、ゆっくり朝寝してろ」
起こしておいて調子のいい言葉だったが、抱きしめられる美形はこくりと腕の中で素直に頷く。気づけば男は既にダークスーツを着込みサテンの黒タイを締めてバッチリ、外へ向かって斬り込む姿で居る。
美形の身体から力が抜けシーツにへなへなと崩れ落ちるのを、いとおしそうに男は支え、座り込む肩に毛布を掛けてやる。いとおしいのも道理、今日一日はまともに歩けないだろう程度には、昨夜、思う存分に抱きつくした。
「オマエがオレにこうやってくれる限り、オレの力も持ち物もオマエのものだ。……オレ自身もな。マジだぜ?」
こうやって、というのは首に腕を回して肩口に頬を擦り付ける、懐いている証拠の仕草を指す。それが別の男を助けるためでも構わない、と、正気で思うほど、長年の想い人に男は改めて心奪われた。
「ロマーリオを置いていく。覚えてるだろう?何度かオマエとは会ってる眼鏡の男だ。なんでもワガママ言っていい。ん?」
シーツの上毛布の下で、美形が何かを呟く。
「……電話」
「ムリだ。ボンゴレ本邸から携帯じゃ掛けられない。妨害電波が敷地中に流してある。有線はぜんぶ聞かれているし」
「……」
「心配するな。なるべく早く帰ってくるから」
「……」
こくり、銀色の頭がシーツの下で頷いた。
「伝えられるかどうか分からないが、伝言は?」
「……」
ゆっくり、左右にかぶりがふられる。
「わかった。おやすみ」
ひどく物分りよく、金の跳ね馬は銀色の鮫の髪を一筋、拾って口付け、部屋を出て行く。パタンと扉が閉じられて、世界はまた、薄暗い静寂に満たされた。
毛布の下で手足を引き寄せて、銀色の鮫はまた眠りの海へ沈む。男とのセックスは本当に久しぶりで疲れ果てた。
八年の眠りから目覚めた後の『あの男』に、セックスの対象としてはもう、相手にされていなかった。それをあの金色に知られてしまったことが、なんだか。
いいのか悪いのか分からない。金の跳ね馬の態度は明らかに優しく甘ったるくなった。そうかと問われて、ウソも白々しいから頷いた途端、跳ね馬は嬉しそうで、喜んで、抱きしめられてキスの雨を受けた。長く『空き家』だったのがどうしてそんなに嬉しいか、よく分からない。自分としては、惨めで悲しいことで、あまり考えたくない出来事だったが。
まあ、でも。
気に入った様子でよかった。何かの勘違いですぐ飽きられるとしても、そんなことはどうでも良かった。これから始まるアイツの、ザンザスの断罪が少しでもコレで軽くなるのならそれでいい。そばには戻れなくていい。投げ捨てられたのは邪魔だからだろう。のこのこまた、出て行って嫌がられるのも億劫だ。このまま目の前から消えられるなら願ったり叶ったり。
自分の身なんて本当にどうでもいいのだ。だってアイツに、もう要らないと言われたも同然。マフィアにとってボスとはそういうもの。恋に近い憧憬の対象。必要とされなくなれば存在意義をなくす。
そんなぐちゃぐちゃな気持ちの中、一心不乱に懐いてくる金の跳ね馬は可愛かった。外見は大きくなって中身は大物になって、なのに、十六の時と同じ懸命さで自分を欲しがるバカっぷりが愛らしかった。気に入った仕草は今日の会議の為の媚だが嘘ではなかった。ザンザスに見捨てられた自分の『オンナ』に、そんな価値があるなら搾り取ればいい。どうせ自分をそうした本人はもう、唇をつけてくれないのだから。
「……、なぁ……」
オマエの為にアイツと寝たぜ、と。
言っても多分、鼻で笑う男を、救いがたくまだ愛している自分が一番、バカなのも分かっていた。
夜明け前に眠り、麻に一度起こされてまた眠り、昼前に目覚めた。素っ裸のまま、シーツと毛布の隙間から抜け出てバスを使っていると、インターホンが和音で歌いだす。部屋ごとの出入りを管理するシステムがあるらしい。まあ、マフィアのボスの私室だ。あって当たり前。
空調は浴室まで効いていて、床暖房のシャワーブースで髪を洗っていたところだった。点滅するボタンに指で触れると丁寧な口調で目覚めの挨拶。そして、食事と着替えは寝室に用意しておく、他に何か望みはと問われる。
「でかいドライヤー、あったら持ってきてくれぇ」
長い髪から水滴をぽたぽた、足元に垂らしながら銀色の鮫は言った。カラダは眠る前に洗っていたからざっと湯を浴びただけですませる。新品のバスローブを纏ってパウダールームへ出ると、プロの美容師用のドライヤーを片手にロマーリオが、糖の椅子を引いて銀色の鮫を待っていた。
「昨夜とずいぶん、態度ちがうじゃねぇかぁ?」
口で嫌味を言いながらどかりと籐のでかい椅子に座る。バスローブの足を組むと、その膝の上にふわり、大判のバスタオルが掛けられて脛から奥の絶対領域を隠す。別のタオルで髪が包まれる。銀色の鮫は大人しくその奉仕を受けた。実際、それは、一人では苦心する大仕事だ。
「そりゃあ、ボスに優しくしてくれた人には気を使うぜ。側近の義務だろう。しかしまた見事な髪だ。昔はあんた、こんなに長くなかったのに」
タオルを何枚も替えて水気を拭われる。髪を何束かに分けて根元から優しく挟んでいくやり方は玄人はだしだった。
「なにか贔屓のシャンプーとかコンディショナーとかがあるなら言ってくれ。手に入れるぜ」
「石鹸」
「ああ。アレッポとかマルセイユとか、そっち系のオリーブ石鹸だな?」
「詳しいなぁ、オッサンのくせによぉ」
「オッサンになる過程で学んだのさ」
ドライヤーのスイッチが入る。美容院で使うような大出力だった。根元から毛先に向かって目の粗い馬毛のブラシで梳きながら、熱風を当てて手早く乾かす。最後に冷風で仕上げ、そして。
「リボンで結ぶかい?」
「いらねぇよ」
幅も模様もとりどりのレースのリボンを見せられて眉を寄せる。仕事の時や夏には根を高くとって結ぶこともあるが、それは殆どベルかルッスーリアがしてくれていた。思い出した途端に胸を、寂しさがよぎる。あらくれだが居心地のよかったあの仲間たちのもとほへは、もう戻れないのだろう。
「似合うと思うんだが」
「いい加減にしやがれ」
オンナ扱いは、という続きの言葉は飲み下す。オンナの媚でここのボスを『おとして』、今、危ない橋を渡らせている最中。
「スープとサンドイッチとキッシュを用意させた。気に入らないなら言ってくれ何度でも作り直させる。飲み物はシャンパンとベルニーナで?」
「待遇いいなぁ。居ついちまぅぜぇ」
「ぜひ、そうしてくれ」
ブローを終えたロマーリオは籐の椅子を引いた。本人の資質とは無関係な優雅な身のこなしで銀色の鮫は立ち上がる。椅子を戻したロマーリオがドアをあける。寝室に用意された服に美形が着替える。その間に、居間の、ダイニングでなくソファの前にローテーブルを置いてその上に昼食。
衣服は情人になる前も与えられていた。けれどこんなに身体にぴったりのオーダーではなかった。ざっくりした編みのグレイの膝まであるセーター、動きやすくて楽なレギンス。女の格好に近いが文句は言わなかった。左肩はまだ少し痛む。シャツを脱ぎ着するのは苦しい。
昼食はグリル野菜とチキンのバニーニ、ライ麦パンにサラミとチーズを挟んだサンドイッチ、野菜たっぷりのミネストローネ、うずらとホーレンソーとベーコンのキッシュ、デザートのドルチェは甘さ控えめ、秋の木の実がたっぷりのカスタードクリームを添えたタルト。
「ウチを気に入って、ぜひ長居してくれ」
ダージリンの茶葉をポットで煎れながら、メガネのロマーリオは世辞でもなさそううな口ぶり。シャンパングラスにはクリュグが既に注がれ、細かく繊細な一筋の泡がグラスの底から水面へ向けて連なっている。
「おいおい、マジかぁ。不忠な家臣だなぁ。主人のタメを思うならオレをさっさと追い出す算段をしろぉ」
銀色の鮫は腹が減っていた。紅茶がサービスされるのを待たずバニーニに手を伸ばし、素手で口に運んで噛み千切りシャンパンを煽る。美味い。
カボチャとズッキーニのグリルはしゃきりした歯ごたえを残す絶妙の焼き加減、チキンは塩コショウを振りかけた炭火焼。美味い脂が炭に落ちてその煙でスモークになった絶妙の味わい。酢のきいた粒マスタードの加減もちょうどよく、一口ごとにシャンパンに手が伸びる。
「オレを飼ってもいいこたねぇぞぉ。ガキも産まねぇしなぁ」
「ボスが喜ぶ。あんなに楽しそうなボスは久しぶりに見た」
そう言ってポットからカップに紅茶を注ぐロマーリオ自身、とても嬉しそうな顔をしているのに銀色の鮫は気がづく。バニーニをもぐもぐと食べ終わり、スプーンを手にミネストローネスープ、フォークを手にキッシュ、そしてまた右手の素手でサンドイッチと、健啖な食欲を見せる。
「あの人はいつも快活に笑っているけど、本当は何も楽しくないんだぜ」
「マフィアのボスだからなぁ。仕方ねぇだろーよぉ」
嫌なことばかりを身に背負う業の深い立場。それを察して、嫌って、運命を拒もうとしていた『へなちょこ』は確かに勘がよく頭も良かった。逃げ切れなかったけれど。
「ボスは今日、本当に嬉しそうだった」
ロマーリオがグラスにシャンパンのお代わりを注ぎ、瓶の口を麻のナプキンで拭う。
「マフィアのボスになりたがらなかったあの人を、無理にその席に座らせちまったのは俺たちだ。だから、あの人が辛そうなのを見ているのは苦しい」
「甘やかしてやがんなぁ、相変わらず」
「ボスは本当に長い間、あんたに恋をしてた。恋が叶って嬉しそうだ。ドン・キャッバネーロになってよかったとボスが少しでも思ってくれるなら、俺は心からアンタに感謝するぜ」
「そんなもんかぁ?」
焦がれるほどボンゴレのボスになりたかった男のそばに仕えてきた銀色の鮫にはその葛藤が、よく分からなかった。
「ワガママなんじゃねぇかよ、ソレは」
御曹司に生まれてボスになりたくない、というのは。
御曹司に生まれてボスになるつもりだったのに、なれなかった男も居るというのに。
「我侭じゃない人間は居ないだろう。特に自分の人生に関しては。隣の芝生は青い。人の女は甘い」
「違いねぇ」
口元で笑う銀色の鮫は胆が据わっている。自分自身を含めて笑い飛ばせる。
「悪いタマじゃない、あんたは」
眼鏡を押し上げながらロマーリオは、そのふてぶてしさに感嘆しながら言った。食後のカフェをカップに注ぎながら。
「護衛としては超一流で」
「いまさらなに言ってんだぁ?」
剣の腕前に関しては未だかつて文句をつけられた覚えのない銀色の鮫が眉間に青筋をたてる。それに関しては傲慢の二つ名にそむかない見事な自負心を持つ。
「すまん。気を悪くしないでくれ。あんたの腕前はよく分かってる。ちょっと別のことを考えていた」
腹に一物の表情を、ロマーリオは眼鏡を押し上げる掌で隠す。ぺろんと剥がれた羊の皮が、脱げないよう押さえる仕草だった。