不穏な危惧を孕みつつ、それでも風変わりな『同棲』はそれなりに順調に進行した。

「お帰りスクアーロ」

 傷の全快とともに、リング争奪戦でついた黒星の恥辱を漱ぐべく、銀色の鮫は世界中の名の知れた剣豪に挑むことを望み。

「なんだお前、こっちに居たのか。上まで挨拶しに行って返事がねぇから着替えに来たんだぜぇ」

 出向先の、キャッバローネのボスはそれを許した。旅立つ前に五分以上の『行って来ますキス』をすることと、二週間以上続けての留守はしないこと、旅の途中でマフィア関係者とは接触を持たないことの三つを条件に。

マフィア関係者とはディーノの中で、ある特定の人物を意味する。黒髪の、顔の火傷の痕さえセクシーな、クラシックなマフィアの闇を背景に常時背負っている雰囲気の、アイツ。

「無事でよかった。怪我は?」

「ねぇぞぉ。ってーか、あっけど別口だぁ。もしかしてオマエ、分かって訊いてんじゃねぇかぁ?」

 小さなボストンバック一つ、それだけの旅装を自室のテーブルの上に置いて銀色の鮫は着替える。コートは既にソファに掛けられている。帰ってきた、という知らせを聞いてこの屋敷の主人はすぐに立ち上がったが自邸で部下を出迎える訳にはいかず、自室から出て銀色の鮫の部屋で待ち構えていた。手前の居間、ソファセットの三人掛けに、ごろんと仰向けに転がって。

「ああ、知っている。オレとの約束を破ったな、スクアーロ」

 長い足がソファの手すりからはみ出している様子は以前可愛がっていたガキに似ている。もうガキでなくなったけれど。

「まず傷を見せろ」

 言われて素直に脱いだシャツの下、右肩の切り傷を示す。リング争奪戦後、一年近くぶりに会ったティアラの王子様に、手荒な再開の挨拶を受けた痕。ナイフは全て避けたがワイヤーをかわしきれなかった。血が滲んだ程度、大した怪我ではない。しかし。

「ヴァリーにはオレから厳重な抗議をしておく」

「ナンっでもするからその恥は勘弁してくれぇ」

「どうして。オマエに傷をいれられてオレが黙っていられると思うのか?」

「五十分キスすっから勘弁しろぉ。五時間でもいいぞぉ。腫れると思うけどなぁ」

「そんなにしていたら、セックスする間がとれないじゃないか」

「違いねぇ」

 言いながら銀色の鮫は部屋着の黒いハイネックセーターに着替える。部屋着で百パーセントのカシミア、柔らかな肌触りと細身のシルエットが手足の長い身体を包み込む。

「なぁ、下っ端の喧嘩にボスが出てくるんじゃねぇよ」

 そう言って、ニッと笑って、カシミアに包まれた腕を伸ばす。包み込んで唇を重ねる。見え見えの誤魔化し、単純なご機嫌とりだったが、甘い男はその罠に敢えてのってやった。

「ん」

「……、ン」

 自分の首に廻された腕の、カシミアごしの感触が素晴らしかった。いっそ絞め殺されたいと思った。自分の腕を相手の背中と腰に廻してぎゅうぎゅう抱きしめる。しなやかな手ごたえ。

「本当に怒っていたんだ、オレは」

 キスは美味い。でもキスで済ませるつもりはなかったから、舌を絡めてちゅっと吸ってやるだけで済ませた。盛り上がった事後に時々する、涙目になるまでの呼吸を奪うやり方はしなかった。

「だからこっちで待ってた。でも、オマエが自分の部屋より先にオレの部屋に行ったから、まぁ……」

 機嫌が治った。許してやってもいい気持ちに少しだけなった。

「説明しろ、スクアーロ」

「セツメーったってなぁ。多分、報告が行ってる通りだぁ」

 スクアーロの旅には監視という名のお供はつけられていない。しかし現地の業界にはディーノ率いるキャッバネーロから挨拶が行っている。『ウチ』のが近々そちらへ乗り込むが昔からやっている個人的な武者修行であってファミリーとは無関係、挑発しようとか敵対しようとかの気持ちは全くない。そちらには失礼がないよう重々気をつけているが、何か不都合があったら遠慮なく言って欲しい、と。

 居間を時めく経済ヤクザ、ボンゴレ九代目の金庫番とも称されるドン・キャッバネーロからの礼を尽くした挨拶に応じて、大抵の現地マフィアたちは便宜を図ってくれた。どこのファミリーもカネが欲しい。しかもドン・キャッバネーロが取引で稼ぎ出すのは改めての資金洗浄が必要ない表ざたに出来るカネで、その価値は高い。カネで股を開くのがヤクザだ。

 スペロビ・スクアーロがやっている百番勝負は業界内で評判になっていて話は通りやすい。勝負の行方と本人の動向は注目の的で、見張りをつけなくとも手に取るように、ディーノのもとへは報告が入ってくる。

「今回狙った奴はカタギで、駐オーストリアNATO軍の剣術師範役で、勝負申し込んでも逃げ回りやがって」

 マフィア・軍人・市井の道場主と属する世間は違っても剣士には剣士の繋がり、一種の『業界』がある。術士や格闘家がそうであるように。銀色の鮫の百番勝負からマフィアの構成員ならば逃げない。尻尾を巻いたと評判になるより堂々と受けて立ち、見事に負ける方が傷が少なくて済む。

負けるとしても勝負相手に選ばれた剣士たちは少しだけ鼻が高い。少なくとも、『ベスト100・オブ・ザ・ワールド』の一員だったという証明になるから。中にはオレの順番は何時だと内々に問い合わせてくる奴さえ居る。

 そういう相手だと遠征も短かくてすむ。だいたい、剣の勝負なんてそう時間がかかるものではない。十四で剣帝テュールとやった時、何日もかかったのは実力伯仲の二人がヴァリアー本拠地の周辺の森を駆けずり回ったから。あれほどの名勝負はこの世にそうそうない。だからこそ伝説になっているのだ。

「逃げられて、時間かかりそーで、どーすっかなと思ったトコロで、来やがったんだ。ルッスとベルが」

 実際は来たというほどカワイイものではなかった。部屋で待ち伏せされていた。ちょうど今のように。ルッスーリアは、まるで当然のように湯を沸かして茶の用意をして、ベルフェゴールはソファに寝そべっていた。

 

 

 それが、あまりにも自然で。

「スクちゃん、ダージリンのストレートでいいわねぇ?」

「よー、センパイ、お帰りー」

 思わずおぉ、と、双方に対して一度で返事を済ませ、ベルが寝転がるソファの向かい、一人掛けのそこに腰を下ろしてから。

「……って、お前ら、ナンで居るんだ?」

「遅くね?」

「はい、おまちどおさま」

 差し出されたカップを受け取らないことなど思いつかなかったし。

「ダブルベッド二つかぁ。王子奥の方ね。先輩とルッス、どっちかソファで寝てよ」

 どうやらこの部屋に泊まるつもりらしい王子様を追い出すことなど、出来そうになかった。

「おぉおおぉぉーい、質問に答えろぉ。てめーらナンで、ここに居やがるんだぁ!」

「スクちゃんの応援よぉ〜」

「先輩なんかおもしろそーなことしてるじゃん」

「百番勝負はボンゴレでも評判なのよぉ〜。あんたもやっと、テュールの跡をとって剣帝を名乗る気になってくれたのねぇ。嬉しいわぁ」

「王子暇だし、ちゃちゃいれ」

「言ってっこと全然ちがうぞぉ統一しやがれぇ!ってーかお前ら、許可とってきてんのかぁ?」

「許可?アタシが勤務時間外に私的に、スクちゃんの試合の応援をするのに誰のどんな許可が必要なのかしらぁ」

「関係ないよ。オレ王子だもん」

「俺ぁ追放されてんだよヴァリアーからッ!」

「そうじゃないでしょ。まだアンタの所属はヴァリアーの筈よぉ。ボスが紹介状を書いていないもの」

「そうそう。センパイが他所に行くとかありえねーし」

「用紙を持って迫る門外顧問に、ボスなんて言ったと思う?絶対に書かない、許さないというなら指を折れ、って。ステキよねぇ〜。男らしくって惚れ惚れしちゃうわぁ〜」

「きしし。ルッスあん時、ほっぺ赤かったぜ」

「ベルちゃんだってオメメが潤んでたんじゃないのぉ?」

「まっさかぁ。だってオレ王子だもん。ああそうだ、はい。これボスから先輩に」

「なんだぁ?」

 差し出された紙包みを受け取る。中には赤ワインとキャビアの瓶と、クラッカー。

「……?」

 どのラベルにも見覚えがあった。半年間、かなり足繁く通ったボンゴレ本邸の御曹司の部屋に、冷蔵庫の中とキャビネットに、行くたび欠かさず用意してあったトリオ。

「酒は勝利後の乾杯としても、キャビアは食えるんじゃね?」

「どーゆーんだ、コレ」

「ずーっと賞味期限切れで勿体無いから、持ってきちまった」

 それは塩分3パーセントと少し、塩をしただけで加熱殺菌していないフレッシュの品は未開封で製造日からチルド冷蔵で二週間、開封後は一時間しか風味がもたない。もっとも125グラムの瓶でもクラッカーに載せてばくばくと食べれば、健啖なスクアーロは1000ユーロ、約十八万円をぺろりと完食する。

「それがねぇ、ずーっとボスの、冷蔵庫に入ってるのよ」

「……あ?」

「どうゆうのかしらねぇ、こういうの。ボスはキャビアもフォアグラも食べないのにねぇ」

 ザンザスは偏食ではないが魚卵や臓物は食べない。肉は好きだが骨があると面倒くさがって食べない。だからルッスーリアは鳥の手羽肉や豚足を料理した時は骨を外して一口でぱくりと食べられるようにしてから皿の上に乗せる。同じようにして出すと魚も食べるから要するに、おぼっちゃんなのだろう。

「運び賃に、王子半分食べてやるよ」

「ダメよ、ベルちゃん。あなた期限切れ近いのを十日に一度は食べているでしょう」

「きしし。切るとキャビアとトリュッフで真っ黒の具が出てくるオムレツ、王子の大好物だもん」

「オムレツかぁ。喰いてぇなぁ」

 つられて銀色の鮫は言った。ルッスーリアの焼くオムレツは天下一品だ。外側はかりっと硬く焦げたバターのいい匂いがする。中は幾層か重なって真ん中はとろとろ、ナイフの刃を当てて割っても流れないけれど口の中ではとろける。それを食べ慣れているとそのへんの店のが喉を通らなくて困る。一流ホテルの朝食で供される、シェフが注文に応じてその場で焼いてくれるオムレツならなんとか食べれるが、でもルッスーリアが焼く方が美味い。

「あらぁスクちゃん、可愛いこと言っちゃって。明日の朝、ここの厨房を借りて作っちゃうわよん」

「なに、センパイ、オムレツも食わせてもらえてないワケ?」

「いや。待遇は悪くねぇ」

「そうでしょうね。こんなお部屋をとってもらっているくらいですもの」

 ルッスーリアが部屋をぐるりと見回す。天井の高いスイートルーム。ダブルベッドが二台入って、足元にはシルクの絨毯が敷かれ、壁にはゴブラン織りのタペストリーが掛かっている。窓からはシュテファン寺院の白い尖塔が見え、テーブルの上には生花が大きな花瓶にあふれんぱかり活けられている。

「ほっぺもツヤツヤで、元気そうで安心したわ。アンタが苛められていなくって、本当に良かった」

「だねぇ。ボスは痩せたのに先輩は元気そうだよなぁ」

「痩せたのか?」

 ベルのその言葉が銀色の鮫には気になった。マイセンのティーカップから唇を離して聞き返す表情は生真面目で、ルッスーリアとベルは顔を見合わせる。

「よかったわ」

「だね」

「なに、二人で会話してやがるっ」

「スクちゃんがまだボスを愛してくれていてよかった」

「……」

「あんたが何したかは見当がついてるの。だって跳ね馬が私たちとボスをあんなに庇うなんておかしいもの。寝技きかせてくれたんでしょう?」

「忘れたなぁ」

「ドン・キャッバネーロは昔っからあんたにご執心だったものねぇ。あんたが酷い目にあっていなくて良かったわ。髪もさらさらでほっぺもツヤツヤで、元気で嬉しいのよ。でもボスは寂しそうで、あんたに会いたそうで、ねぇ?」

 ルッスーリアが王子様を振り向き同意を求める。王子様は肩を竦めたが否定しなかった。

「金の王子様に愛されて、あんたがあっちを好きになっちゃっても仕方ないけど、ボスを棄てないでくれると嬉しいわ。ボスとあたしたちをね」

「王子のこと裏切ったら殺すから」

「なぁに言ってんだお前ら」

 生意気を言った王子様の形のいい鼻を抓んで、銀色の鮫はあいまいに笑った。リング争奪戦後、ろくに話も出来なかった仲間と会えたのは素直に嬉しかった。ボスの話は信じられなかったけれど。八問の眠りから目覚めた後は一度も、二人きりで撫でてくれたことはなかった。棄てられたのだと、そう思っていた。

「泊まるンなら早めにメシ喰いに行こうぜ。明日は早起きだぞぉ。逃げた標的追いかけるからなぁ。寝坊すんなよぉ、ベル」

「車だろ?王子は後ろで寝てるから。起きれなかったら先輩、王子のこと運んでよ」

「甘えるんじゃねぇ」

 その日は外に食事をしに行って、部屋にエキストラベッドをもう一つ運び込ませて、少し話をして眠った。時々二人はザンザスの話をした。食事が減ったこと、酒が増えたこと、口数が減ったこと、でも何故か主だった部下たちには、なんとなく優しくなったこと。

「……」

 何か言葉をと、促されているのは分かった。でも何を言えばいいのか正直なところ思いつかなかった。愛情を受けることはもう諦めていたし、受け取ってくれない惨めさも既に十分味わった。

「先輩、まだ怒ってンの?」

 ルッスーリアがバスを使っている間、真剣勝負前で酒を飲まない銀色の鮫に遠慮の欠片もなく、部屋にシャンパンをとりよせてキャッバネーロのツケで呑んでいた王子様が不意に尋ねる。

「雨戦でボスが笑ったの怒ってる?」

「いいや」

「よかった。それボスに言っていい?」

「構わねぇぜ」

「よかった」

 伝えたところであの男が喜ぶとは思えなかったが、ほっとして嬉しそうに笑う王子様は少し可愛かった。