「それボスに言っていい?」

「構わねぇぜ」

「よかった」

 伝えたところであの男が喜ぶとは思えなかったが、ほっとして嬉しそうに笑う王子様は少し可愛かった。

 やがてルッスーリアがバスから出てくる。ホテルのバスローブを粋に着崩して。お色気過剰の湯上り姿を他の二人は無視した。わざわざ見せに来ていることは分かっている。文句を言っても喜ばせるだけだ。相手をしないに越したことはないと二人は知っていた。放っておけば裾を翻しながら豪奢な部屋の中を歩き回り、湯気が収まったところでパウダールームに戻って着替えてくる。

 楽な部屋着。だがパジャマではない。腕に自信を持っているヴァリアー幹部たちは周囲に対する警戒心が世間の暗殺部隊より低いが、それでも、自分のベッド以外では動きやすい部屋着姿で眠る。パジャマは着ない。

「見てみて、デニムレギンスよぉ。ジャポネの流行なの。了平が送ってくれたのよぉ〜。あたしに似合う色を探したけど、どれもこれも似合いそうだったって、十二色セットなの。今日はスクちゃんと会うからブラッディオレンジよぉ〜。うふ、うふ」

 言われてちらりと郡色の鮫はかつての仲間を見る。既製品らしいがサイズ展開が豊富なメーカーなのか、伸縮性のある生地のせいか、到着後に手直しをさせたのか、ルッスーリアの筋肉質な長い足にぴたりと収まっている。

「……楽そうだな」

 レギンスは時々はいているが、デニムの厚地で暖かそうなのがよさそうで、椅子に座ったまま銀色の鮫が声を出す。

「刀の坊やに言ったら送ってくれるんじゃない?」

「いいね。スクアーロ、オレのも頼んでよ。ルッスいっつも見せびらかすばっかで貸してくれないんだもん」

「今度、生地から仕立ててもらいましょうか。アルマーニエクストラが使っている工房ならジーンズ生地も縫ってくれるでしょ」

「あり、あのデザイナー、まだ息してんの?」

「行方不明よ。今度は商品開発部主任とお友達になったの」

「ちゃんとバレねーところに隠しておけよ。騒ぎになってボスにメーワクかけんじゃねぇぞぇぉ」

 キャビアの瓶を、朝食に食べることにして冷蔵庫へ納めながら銀色の鮫が言った。この話題になるといつも言っていた定番の文句だったから、軽い気持ちでそう口にしたのだが。

「うぐっ!」

 いきおり背中にブチ当たられ、冷蔵庫に掌をついた鮫が濁音の声をあげる。

「てめ、ベルッ」

 背中を向けると体当たりしてくるのは、そういえばティアラの王子様の定番な嫌がらせ。それが本当はボスの鉄拳や膝蹴りと同様に不器用なコミュニケーションだということに気づいてやれない鮫は振り向いて苦情を言おうとした。が。

「……」

 脇の下に腕を差し入れられ、ぎゅうぎゅうと抱き締められて、何も言えなくなってしまう。こういう甘え方をされるのは初めてではなかったが久しぶりだ。八年の間、まだ子供だったベルフェゴールは思春期前、寂しがって時々抱きついてきた。

なんだ一体。そう思いながら、ずいぶん久しぶりに抱き返してやる。ぽんぽん背中を叩きながら引き摺るようにソファに戻ると、そこではシャンパンの瓶とグラスを手にしたオカマが。

「うおおおぉぉい、頬を赤くするんじゃねぇ。キショぃぞぉ!」

 湯上りツヤツヤの頬も耳たぶも首筋も、可愛らしいサーモンピンク色に染めている。

「だ、って、アンタが……」

 サングラスのせいで目元は見えないが声は潤んでいた。

「ボスのこと、ボスって言うんだもん……」

「なぁにがモンだ。おら、ベル。オマエもいい加減にしろ。風呂入って来い」

 このトリオで行動するのは昔からよくあった。八年間、お偉いジジイどもに便利使いされていた間、仕事でよく、国内外のあちこちへ三人で行った。

 だから行動のパターンはだいたい決まっている。風呂や洗顔、ベッドの順番も。『女』のルッスーリアが最優先、『子供』のベルがそれに続き、銀色の鮫はいつも最後。ベルフェゴールが本当に子供だった頃は最優先だったが、それをルッスに譲った頃、王子様はオトナになったのだろう。

「一緒に寝る」

 この性悪の王子様が、自分の臍くらいまでしか身丈のなかった時期を知っている。末っ子の銀色の鮫には、自分より小さな子供が新鮮で、ずいぶん可愛がってきた。王子様だけではなく基本的に、鮫は乱暴者だが優しい。へなちょこだった頃の跳ね馬にも、雨戦いでやりあった山本武にも優しかった。

 一人きりで世界中に反逆を企てた寂しい御曹司にも。

「ボスの代わりに、一緒に寝てやるから」

「……」

「イヤなのかよ、センパイ」

「イロイロ、イチオウ、なぁ」

 少し、さすがに、考えた。自分の立場がドン・キャッバネーロの愛人であることは承知している。そういうことになって以来、あの男が一緒に居ない夜も娼婦を寝床に呼んでいないことは分かっている。ファミリーを率いるボスとしての仕事や自分の遠征のせいで少し離れた後は、いつも、とても、すごく。

 情熱的で、その熱に時々、皮膚の下まで焼かれる。

「あのクソウマがこえぇの?らしくねー」

「色々、約束してんだ。あいつがちゃんと守ってくれてんのに、オレが裏切るワケにゃいかねぇだろ」

「あんた律儀だものねぇ」

「バカだよ」

 二人の批評を銀色の鮫は黙って聞いていた。

「まぁとにかくベルちゃんはお風呂入ってきなさいよ。寝る前にミルク頼みましょうか。きっとよく眠れるわ」

「もっと高いのにして。バカウマのツケだろ?」

「はいはい。じゃあ一番高いマッカランの25年でボスに乾杯しましょうね」

「ロマネ・コンティにしろ」

 蒸留酒を飲まない銀色の鮫が言う。こういう時の勝負はじゃんけん。珍しく鮫が勝った。一杯だけ勝負前の鮫も呑んで、三人で27万をあっという間にカラッポにしたが、景気のいいキャッバネーロのドンの懐を空にするには、それを百本呑んでも足りはしない。

「おやすみ」

 見張りもたてず不寝番もおかず、三人揃って寝床に入って明かりを消した後で。

「……」

 むくりと起き上がった王子様が自分のベッドに入ってくることを、優しい鮫は寝たふりで許した。

 

 しかし、翌朝。

 

「テメェまだ覚えねぇのか、いい加減にしやがれぇ!」

 怒髪天、の勢いで、ティアラの王子様に腹の底から怒鳴る。本当に銀髪の毛先が重力に逆らって上を向いている。

「やめて、スクちゃん。髪が静電気を帯びているわぁ、いたんじゃう、いたんじゃうわよぉ!」

 ルッスーリアが金切り声を張り上げてまず心配したのは銀色の鮫の髪のことで、、ルームサービスで届けられた朝食のトーストを齧るまだ少し寝ぼけている王子様のことはその次だった。

「ベルちゃんだって悪気はないのよぉ。どんな食べ方がスキかは人それぞれじゃない?」

 前髪のせいで顔は見えないが、王子が寝ぼけていることは反論が来ないことで分かる。むしゃむしゃ、黒い粒々が載ったトーストを齧っていく。

「うっせぇ!何回言ったら覚えるんだバカ王子!キャピアをナイフでトーストに塗るんじゃねぇ!口に入れる前に粒が潰れちまうだろうがぁ!」

「ええ、そうね。スクちゃんが言うことが正しいわ。職人も問屋も、ベルーガの粒をどれだけ潰さずに加工流通、させるかに命をかけているものねぇ。だからキャビアは薄いスプーンで、優しく掬ってあげるのが本当よぉ」

「かんけー、ないよ。だって、おれオージだもん」

 もぐもぐ、美味そうにトーストを食べる王子様の手元にはクリュグのシャンパン。もちろんそれもキャッバネーロのツケ。

「口のなかでプチプチ、はじけるの、気持ちわりぃんだもん」

「だったらてめぇはキャビアを食うなぁ!」

「でも味はスキだから」

 言いながら、シャンパンをくいっと呑んだ王子様が新しいトーストに塗るべく、またキャビアの瓶へ手を伸ばす。黒灰色の、でも表面は上品に朝日を弾いて金色に輝く、最上級のベルーガ、低塩のフレッシュ。

「やめろぉ!」

 キャビアを食われることが惜しいのではない。哀れにブチブチと、トーストの上でナイフによって、潰されていくのを見たくなくて、銀の鮫は瓶を取り上げようとした。したがその手を、さっと引く。カツンと硬い音をたてて、その手が寸前まであったテーブルにナイフが突き刺さる。テーブルは大理石だったが、ナイフはそこに刺さって立った。素晴らしい腕前。

「……」

 真剣勝負前の気持ちの盛り上がりがその腕前に刺激されたのか、単にキャビアの粒を守るためか、銀色の鮫は椅子を引き音もなく立ち上がる。

「やんの?いーけど。馬に飼われて腕が鈍ってないかどーか、王子が試してやるよ」

 王子も応じて袖口に仕込んだナイフを掌へ落とす。

「いいわねぇ、若者たちは朝から元気で。あたしは朝はいけないわ、さっぱりよ。最近じゃアサダチもふにゃふにゃでもう情けなくって。エラを張ったキングコブラみたいな枯れにもう一度会いた……、ぶにゃっ!」

 場を宥めるつもりかもしれないが許しがたいシモネタを口走るルッスーリアがまず、二人がかりの時間差コンビネーション攻撃で沈められて、それから。

 マーモンが知れば、『見物料がとれるカードなのに』と残念がること必至の勝負が始まった。

 

 

 

 

 

 そっちにもあっちにも勝って、銀色の鮫は意気揚々と帰ってきたのだが。

「スクアーロ」

 腕と肘を掴まれ、真正面間近ドアップで端正な顔立ちのハンサムに迫られ、その生真面目な目に思わず負けて顔をそむけてしまう。かすり傷のある右肩は掴まずそっちは肘を捕らえて引き寄せる、強引さと優しさの絶妙なバランスに、いつも。

 女ならうっとりだろーなぁ、という感慨と、マジなツラしてよくやるぜ、という呆れた気分を同時に感じる。

「オレが悲しむとは思わなかったのか?」

 約束を、破られて。

「や」

「や?」

「やべぇ、とは思ったけどよぉ。部屋に入った時点でもぉアウトだったから、なら手伝わせてさっさと終わって、早く帰って謝ろう、って判断した、んだぁ」

「知らせが入ったとき、オレはすぐ、ザンザスの居所を調べさせた。ヴァリアーの本拠地から動いていなかったし、客の人相風体はアイツとは違っていた」

「ルッスとベルだぁ。オカマとガキで、お前が気にする、ほどのヤキャクサマじゃねぇ」

「そうだな。だがそれが分かるまで、オレの気持ちは大揺れだ。オーストリアに乗り込む寸前、レストランで食事をしている写真がロマーリオにメールで届いて、それでやっと、行くのを思いとどまった」

 ヴァリアーの格闘家とナイフ使いのことはディーノも知っている。確かに面会を禁止していたマフィア関係者だが、そうではなくもっと、違う繋がりがある仲間だということも。

「楽しそうだったな、スクアーロ。オマエはオレには、あんなには笑わない」

「た、のし、ってーかよぉ。ガキの頃からで、長い付き合いで、なん、ってーかぁ……」

「家族みたいなものか?分かるぜ。俺にもロマーリオやボノたちが家族だ。ファミリーって言うくらいだからな。オレはオマエに、オレの一番近い家族になって欲しいって思ってる」

「……、えぇと……」

「オマエが、楽しそうだった」

 そのことにショックを受けているらしい金の跳ね馬を、どう慰めればいいのか分からずに、銀色の鮫は立ち尽くす。

「里帰りを」

「あ?」

「たまにはさせてやれ、って、ロマーリオに言われた」

 メガネをかけ地味に切れる側近の男。

「オマエの『実家』に」

 生家ではなく、ヴァリアーに。

「オマエの前夫さえ居なきゃ、年に何度か、行かせてやってもいい。でもあのザンザスが居る限りはダメだ。絶対に」

「そんな、風によぉ、警戒すっほど、オレぁもてねーし」

「スクアーロ。オマエに嘘をつくつもりがないのは分かる。でもオマエの無自覚がオレには心配の種だ。自分の美貌をちゃんと自覚してくれ」

「ツラがヤワイのは分かってっけどよぉ、それとモテルのは別だぁ。それに、第一、アイツがオレにもう興味もってねぇのは、オマエカラダで確かめたてだろうがぁ」

 痛いほど強い視線を向けてくるこの相手との最初の時、銀色の鮫はセックスは殆ど一年ぶり、くらいだった。それも気が向いて娼婦の誘いにのっただけで顔も覚えていない行きずりの情事。男に抱かれたのは八年と半年振り。十四の時の短い期間、少しだけ可愛がったもらえた後は長い長い時間を寂しくすごしていた。

「……」

 そのことを、言うといつでも、金の跳ね馬は優しくなる。同情されているのか満足されているのかは分からないが、ステディにするオンナに他人の手垢が比較的ついていないことを悦ぶ気持ちは同じ男として、銀色の鮫にも分からないことはない。

「オマエが」

 右手の肘を掴んでいた男の手が外れ、代わりに後ろ髪を撫でた。

「名前を呼ばなかったことは評価してやるよ。お前の口からヤツの名前が出たら嫉妬で死ねそうだ」

「なぁ、跳ね馬。約束、やぶっちまって、悪かった。すまねぇ」

 不可抗力でも違約には違いない。悪いと思っていない訳ではない。二人と一緒に居た時は、それが自然で当たり前で、俺のそばに来るなとは言えなかったけれど。

「詫びになんでも、するから言えぇ。エロイことでいいぞぉ?」

「約束は修正だ。昔の仲間と外で会ってもいい。ここでは会わせてやれないし、実家に帰してやることも出来ないからな」

「おぉい?」

「だが、会うことになったらすぐに連絡をくれ。早朝でも真夜中でもいいから。誰かから先に知らせを聞く前に、オマエの口からオレに教えてくれ」

「お、おお。分かった。絶対そーする」

「しあわせに、したい」

 ハンサムに整った顔で真面目に、正気で言われてぞわり、と、銀色の鮫は戦慄。

「オマエを幸せにしたい。いつも機嫌よく暮らしていて欲しい。笑ってくれるためならなんでもする。お前の為にじゃなくオレのためにだ。オマエがオレの、全部のモトなんだ、スクアーロ」

「そーゆーの、あんま良くねーんじゃねぇかぁ?」

「良くないな、盲目の自覚はある。でも、もう、なっちまったんだから仕方ない。愛してるってそういうものなんだろ?」

 尋ねられても返事は出来なかった。どう答えても『前夫』のところへ話が向く。仕方ないから唇を押し付ける。誤魔化しだなと自分で思ったが、甘い男はそれでノーコメントを許してくれる。ちゅ、っと濡れた音がした途端、細長い足をカクンと、膝で折られて床に座らされる。

「……イヤか?」

 律儀に尋ねてくる瞳には、既に抜き差しならない欲望が燃えていた。いいや、と、銀色の鮫はかぶりを振る。自分のカラダをセックスに使うことは相手の当然の権利だ。

「ベッド、あるぜ?」

「もたない」