意識をとり戻した瞬間、否、その前ぶれのうわ言から。
「ザンザス、は」
『養父』がそればかり言っていると、門外顧問に聞かされた。
「ザンザス、は?無事か、生きてているか?」
大空戦でゼロ地点突破の焔を全身に浴びた息子は満身創痍だったが、尋ねる老人よりは元気だった。沢田家光に殆ど護送という姿で病室に連行された時は、銃をつきつけられた本人よりその姿を見た九代目が深く嘆いた。
「すまな、かった」
罪人のように頭を垂れたのも、声を震わせての謝罪も。
「すまなかった、ザンザス」
深い後悔も。
「わたしを許してくれ」
寛恕を請う涙も。
「……」
火傷の痕が増えた男は返事をしなかった。許せなかった訳でなく、どうでも良かったから。銃口で背中を押されて養父のベッドに近づく。痩せた老人を眺めおろす。髪に艶がなく肩が薄い。歳をとったな、と思った。
母親に連れられた石畳の路地で『出会った』時から年寄りだったけれど、八年前に自分を凍らせたあの時はこんなに衰えてはいなかった。病室でうなだれるただの老人に見えた。こんなジジイの裏切りが腹立たしくて気が狂いそうだった昔の自分が、男は信じられなかった。
「ザンザス。わたしが本当に悪かった。おまえに嘘をついていた。教えてやれずにお前を傷つけ苦しめた」
全くだ。だまされた。そう思いながらも男は、老人を目の前にしても心が動かないことを不思議に感じていた。昔いだいたあの怒りはなんだったんだろう。情熱はもう消えてしまった。恋が冷めるように。
鮮やかだった感情の色は褪せ、黄ばみかけたモノクロの世界の中に男は居る。見下ろす老人に対してもいまさら、面倒な溜め息しか出ない。それでも。
「あんたとは」
何かを言えと銃口を押し付けられて、鬱陶しかったから口を開く。
「会わない方がよかった」
銃口がごりっと音をたてるほど肩甲骨に押し付けられたが訂正しようとは思わなかった。老人が悲しげに顔を歪め、胸を押さえてシーツに崩れ落ちる。救急のコールボタンが押され人払いされていた医師と看護婦が駆けつける。門外顧問の家光が老人の脈をとりながら男のことを睨みつけてきたが、睨み返す気にもならなかった。
全部もうどうでもいい。どうにでもなればいい。二度目の反逆もリング争奪戦も破れて、男は既に自分に絶望していた。九代目にもしものことがあったらお前を庇ってくれる人間が居なくなるんだぞと帰りの車の中でまた脅された。何も答えず、ぼんやり外を眺めた。
さすがの家光もその様子がおかしいことには気づいた。子供の頃から知っているザンザスに向かって、処刑を望んでいるのかと低い声で尋ねられる。他にないだろうと思いながら枯れていく秋の街路樹を見る。この世から、もう、さっさと消えてしまいたかった。居なくなりたかった。
望んでいた未来は叶わず、自分自身の存在意義を否定されて、負けた日本人のガキに頭を下げて行くよりもそっちがマシだと思った。処刑を覚悟しているというより、消滅を望む顔つきのザンザスに門外顧問は眉をひそめる。それからは露骨に圧迫的な態度はとらなくなった。
家光もバカではない。これでザンザスに『何か』があれば、その裏で何事かが企まれたことを皆が察する。たとえそれが本当に自殺だったとしても偽装殺人を疑われる。アイツがヤったんじゃねぇかと後ろ指を差される第一は沢田家光。第二は男から次期ボスの地位を奪い取った息子の沢田綱吉。
日本人の血が濃くマフィアとは無縁に暮らしてきた自分の息子が十代目を継ぐことに、ファミリーの全員が承服すると思うほど家光は楽観主義ではない。敗れたザンザスには、敗れたからこそ生きていて貰わなければならない。
九代目は病床で息子に会いたがった。日に一度はひったてて顔を出させなければならなかった。会わせたところでザンザスは口を開かなかったが、姿を見るだけで九代目は安堵して喜んだ。その様子は父親が息子に会いたがる範疇を超えていて、こっちにも自分が警戒されていると、家光に悟らせる。ボンゴレの九代目は血は繋がっていなくとも愛している息子が、それを後継と認めない門外顧問の手によって抹殺されることを危惧していた。
家光は忙しかった。ヴァリアーの他のメンバーの動静も監視しなければならず、イタリア本国との連絡、バンゴレ幹部会への報告その他、大変に多忙だった。
だから。
「オレは、ザンザスに重い罰を受けさせることはボンゴレの利益にならないと思う。ヤツの存在感は圧倒的だった。支持する人間はまだ本国に多いだろう?」
金の跳ね馬、同盟ファミリー・キャッバネーロの若いボスであり、リング争奪戦では雲の守護者の家庭教師を勤めてくれたディーのがまさか、真っ向からの反対意見を表明してくるとは思わなかった。
「ザンザスの反逆が二度目といっても、一度目のゆりかごを内密にしたのはボンゴレ首脳部だろう。オレだって知らなかったんだ。知られなかったことはなかったことにするべきじゃないのか。今でも、リング争奪戦を日本でやったことを本国の連中は快く思ってない。勝負に公正さが欠けたんじゃないかって、オレのところにまで抗議が何件か来てる」
息子を後継者にしたい沢田家光がずるをしたのではないか、と。
「これ以上、ボンゴレの幹部や同盟者たちの不平を煽るつもりか?ゆりかごのことをいまさら公表して、どうしてそんな大切なことを教えなかったんだって捻じ込まれるのは、オレはごめんだ。その時はオレは正直に言うぜ。オレだって知らされていなかったんだ、って」
九代目が頷く。まだ怪我が完全に治りきっていない身で、息子に囚われ争奪戦の生贄にされかけて、発言力を削がれた老人は名づけ子が息子を庇ってくれるのを嬉しそうに聞いていた。
「それをナシにしちまうと、公表できるザンザスの罪名は争奪戦での不適切な行いだけだ。まさか九代目が誘拐されていたなんて不始末を公にする気じゃあるまい?そうすると、だ。マフィアの跡目争いがきれいごとで済むわけないだろ?処罰するには理由が弱いんじゃないか?」
熱弁をふるう跳ね馬の動機は知れている。自分の懐に引き込んだ『人質』に腑抜けにされているのだ。フカの腹から救い出した昔の『友人』に付き添うため、リング争奪戦の最中に『欠席』した話はリボーンから聞いていた。
「オレはキャッバローネのボスとして言ってるんじゃない。ボスとしてならツナとザンザスの間でボンゴレが割れて揉めてくれる方が喜ばしいんだぜ。他所の弱体化はウチの利益になる。同盟してても、だ。ただ、オレは九代目の名づけ子で」
イタリアでは名づけの親子の縁は深い。名付け親は実父母に準じて子の世話をやくし、子も名付け親に孝養を尽くす。
「九代目を父親のように思ってる。だからだ」
「立派な言葉だが、私情が透けているぞ」
苦虫を噛み潰した表情で家光が言った。
「情婦の哀願に負けてモノを言っていないか」
「私情?」
若い跳ね馬が生き生きとした表情で笑う。
「私情を持ち出せば、オレはツナの兄貴分だ。弟が可愛いくてたまらないんだぜ。だからでしゃばりを承知でボンゴレ後継者争いに噛んだ。そっちの幹部たちの反感を覚悟の上で、な。礼を言ってくれるのか?」
「……」
家光が口を噤む。ドサクサに紛れて抱きしめた情婦の願いをきいてやることなどは、自分の息子をボンゴレ十代目にしたいという沢田家光の壮大な私情の前では影が薄い。
「それに、ツナはザンザスに厳罰を望んでいないぜ」
思いがけない言葉に家光は息を呑んだ。
「九代目に関することはともかく自分とのリング争奪戦での諸々のことは、なんとも思っていないから厳しい処罰はしないでくれと言っている。ツナは今日、学校の文化祭で来れて居ないが、俺は委任状を預かってる」
「おい、勝手に……!」
「勝手に、なんだ?」
沢田綱吉、次期十代目に決定した少年。その意向は九代目に次いで尊重されるべき。門外顧問といえども軽視することは許されない。
「ツナは今日のことを何も聞かされていなかったな。色々、オレが説明したら驚いてた」
「勝手なことをするな、跳ね馬」
「そういうアンタこそ不遜だぜ。ボンゴレ十代目にこんなに大切な会合のことを教えていないっていうのは許されることなのか?たとえ実父であったとしても門外顧問と次代の後継者は別々の存在だし、それぞれに意見があって当然だ。違うか?」
「……」
沢田綱吉の勝利によってボンゴレ後継者というカードを手に入れたのは、実父ではなく慕われ信頼されている兄貴分だった。並盛中学校の便箋に一生懸命、辞書を引きながら獄寺のアドバイスを受けながら、英語で書かれた委任状がそれを証明している。
「と、いう訳で、オレはザンザスの処刑には反対だ」
「誰も命を取るとは言っていない」
「そうだったのか、それは失礼した。ボンゴレの関係者からオレのところに、心配募っての問い合わせが多くてな。門外顧問はてっきり九代目の養子を抹殺したいんだと思っていたぜ」
「……」
門外顧問が眉をこれ以上ないほど寄せた。寄せたが、反論は控えた。キャッバローネの跳ね馬の手にある、実の息子の委任状の存在が重い。
「オレの意見は、まぁそんなところだ」
話し終わった金の跳ね馬は立ち上がり、ソファに腰掛ける九代目のそばに寄った。屈んで、九代目の背中をそっと撫でる。苦しそうにしていることに家光は気づいていなかった。こほ、と小さな咳をして九代目は名づけ子が水差しから注いでくれたペリエを一口のむ。
コップを跳ね馬は支えていた。九代目の指先が震えているのは体調不良のせいか名づけ子の熱弁に感動しているのか。アルコバレーノの赤子は沈黙を守ったまま。沢田綱吉、次期ボンゴレボスの家庭教師としてそばに居るヒットマンが委任状を書いていたことを知らなかった筈がないのに黙っていたということは、本人の意思を尊重するということなのだろう。
なんて、ことだ。
家光は臍を噛む。しまった、という気持ちが強い。九代目は水を飲み終わっても跳ね馬を離さなかった。ソファの隣に座らせ寄り添わせる。跳ね馬は九代目の肩を抱く。大丈夫だよ、と、老いた父親を慰める息子のように。
「……今回のリング争奪戦に関して」
沢田家光が、静かに口を開く。
「キャッバネーロが果たしてくれた、役割は大きい」
そう、とても大きい。同盟ファミリーという枠を超えて、十代目候補、ザンザスの対抗馬という過酷な位置に立たされた少年の兄貴分として活躍、その上、九代目を病院へ救急搬送してくれたという恩もある。
「感謝をしているし、意見は尊重されるべきだ。ただし、三度目は絶対に起こらないようにしなければならない」
「家光。ザンザスを目覚めさせたのはわたしだ」
みな、が。
分かっていたけれど言わないでおいてことを、九代目は自分から告げた。愛していた息子を仮死状態のまま置いていることに耐えられなくなった父親の盲愛。
「一度目も、二度目も責任はわたしにある」
「……」
まさにその通り。だが、誰もその責任を問えはしない。
こほん、と、家光が咳払いをして、九代目の告白をなかったことにする。
「三度目の予防策としてヴァリアーの解体を要求する」
「そりゃあ無謀な提案じゃねぇか?」
そこでようやくアルコバレーノの赤ん坊が口を開いた。
「ヴァリアーはあれでけっこうな勢力だ。幹部連中のザンザスへの忠誠も高い。解体を言い出したのが家光、オマエだと分かったら連中は立てこもりくらい平気でやらかすぜ」
門外顧問とヴァリアーは長年、敵対関係にあった。主にザンザスの処遇を巡って。今回と同じように。
「分かっている。全体でなくていい。ザンザスから副官を引き離したい」
ぴくり、と、九代目に寄り添っていた金ね跳ね馬が眉を上げた。ヴァリアーのボス補佐はモスカだったが、副官といえばあれしか居ない。銀髪の、ごく若い頃から名前の通った剣士。
「スクアーロをどうするって?」
ゆっくり、金の跳ね馬が立ち上がる。喧嘩なら買うぜという意思を篭めて。
「ボンゴレからは追放だ。ただし完全な自由を与えるのは危険すぎる。信頼できる同盟ファミリーに身柄を預けたい」
「!」
それが家光からの、跳ね馬への譲歩、感謝の気持ち、仲直りの申し出だということは、その場の全員に分かった。