「スクアーロさんもこんばんは。お久しぶりです。怪我はもういいんですか?傷、残らなくって、良かったですね」

 同じ沢田の、でも綱吉は、銀色の鮫の前で足を止めた。

 頭を下げていないせいでよく見える顔を覗き込む。近づかれて銀色の鮫は少しだが怯んだ。背中を反らして遠ざかろうとするが、それもほんの少ししか出来ない。

「ああ、ほんとに綺麗に治ってますね」

 伸ばされる指を避けることは出来なかった。相手はボンゴレの次期後継者だ。頬に触れられる。指で撫でられる。フカに噛まれた頬の裂傷は、実は整形で治癒している。

金の跳ね馬か腕のいい医者を屋敷に招いてそれはそれは丁寧に縫わせた。体の傷は服を脱げばかすかな窪みとして残っているが、そこは微妙に性感帯であって、他の刀傷や銃創同様、手間隙かけてまで治してはいない。

「じゃあ、ちょっと早いですが、よいお年を」

 微笑んで離れていく十代目を呆然と眺めつつ。

「おぉ、マジ、ぜんぜんアト残ってないのなぁ、スクアーロ!」

 その直後、もと刀小僧の山本武が頬に伸ばしてきた指は、関節を逆に捻って触れさせなかった。

「って、イテテテッ」

「ふざけんじゃねぇぞぉ、ガキぃ」

「山本、早く並べ」

 ボンゴレ十代目の右腕を自称する獄寺が小声での叱咤。ヴァリアーの面々を超えて山本が広間入り口の横に立つ。と、すぐに廊下の、客が来る側とは逆、奥へと続く曲がり角から影が近づいた。

 ボンゴレ九代目。と、その介添えの門外顧問、沢田家光。

「……」

 全員が頭を下げた。来客の分たちの前を九代目は通らないが、キャバネーロのあたりまではその姿がよく見えた。また少し足を悪くしたらしい。家光に支えられ、杖に縋るようにしてゆっくりと、一歩一歩を、慎重に歩いていく。

 広間の扉を、山本と獄寺があけた。ゆっくりとそこへ老人が進んでいく。後ろについていた家光は少し遅れた。その前に背を反らして、廊下に居並ぶ連中を睥睨したからだ。まるで自らが、彼らの主人であるような態度で。

「……」

 山本と獄寺は扉を閉じる。口元と鼻先でそれぞれ、微かだが確かに笑っていた。好意的なものではない。どちらかというと嘲笑。それは本日の招き主であるボンゴレ九代目に対してではない。

「……」

 ヴァリアーの面々は視線を交し合って笑う。なぁ、どー思うよアレ、と、言葉はしないが全員の目つきが言っていた。その視線はスクアーロにも投げられ、同感だ、という風に銀色の鮫は頷く。ロマーリオは俯き腕を組み、眼鏡に指を掛けた。この男の場合、それで十分な意思表示。

 本来、門外顧問という立場はファミリーの組織内に地位を持たない。だからこそ『門外』顧問。構成者選別時のみにボスと同等の権利を発するのみ。なのに最近の家光はおかしい。まるで自分自身が、次期後継者になったかのような態度を、とる瞬間があった。

 それが面白くない。ひどく不愉快だ。もとから犬猿の仲だったヴァリアーは勿論、ボスをハメられたと思っているキャッバローネも、そして実の息子である十代目の側近たちでさえ、最近の沢田家光の威張り腐った態度には辟易としている。

「なぁなぁ、スクアーロ」

 山本が一番先に動いた。無邪気に、リング争奪戦でやりあった剣豪へ声を掛ける。近づいて腕を掴む。銀色の鮫は、今度は避けずに、なんだぁと尋ねた。

「コッチの控え室に遊びに来ねぇ?百番勝負の話ききてぇんだ。今、四十番ちょっとまで進んだよな?」

 これから約二時間、食事というか、式典の間、お供の部下たちにはそれぞれ控えの間で食事と飲み物が出される。廊下の向こうの方では大部屋で立食のブッフェ、しかしトップの数組にはそれぞれに個室が用意され、ソファや椅子もあり寛げるようになっている。

「百番勝負の中にうちのヒバリは入れてくんねーなかったってなぁ。オレは?」

「入れねぇよ。てめーらは全員」

 リング争奪戦を遺恨を晴らす為の私闘と解釈されかねない。

「やっぱりかぁ、残念」

「行くぞ、山本」

「んー。なぁ、連れてっていいだろ?」

 話を聞きたいから、と、山本が獄寺に同意を得ようとする。

「オレが良くっても、そちらさんらがなぁ?」

 獄寺隼人が左右に視線を流す。ヴァリアーとキャッバネーロの十数人。

キャッバネーロは連れて行かれたくなさそうだった。それも当然、銀色はボスの情婦だ。いくら少年に近い若者たちでも、ボス以外の男のもとへ一人で出したくはない。ヴァリアーの連中は面白がっている。銀色の鮫が、以前からけっこう露骨に自分を狙っている山本武をどうあしらうかニヤニヤ眺めている。

「メシの用意が」

「ん?」

「そっち二人ぷんだろうが」

 食べるものがないから行かないと、きらきら光る美貌の男は、容姿に似合わず現実的なことを言い出す。

「えー。オレの分やっからさぁ」

「またな」

「スクちゃあん、こっちいらっしゃいなぁ」

 そこへ割り込む、ヴァリアーの格闘家の野太いオカマ声。

「お弁当つくってきてるわよぉ。もちろんあんたの分もあるわ。サンドイッチはキャビアでベルーガのフレッシュよぉ?」

 その誘いに気をひかれた銀色は、行っていいかという風にロマーリオを見た。いけないとも言えずロマーリオは頷く。『あの男』、ザンザスを覗くヴァリアーの面々とは外で会って話して食事をしてもいいと、ボスである金の跳ね馬が、直々に許している。

「キャビアあんのに酒が飲めねぇってのがなぁ」

 辛いなぁ、と、言いながら長い足で絨毯を横切り銀色は昔の仲間たちに混じった。ティアラの王子様が少し意地悪に笑って山本を振り向いて見たが、山本は気にせずひらひらと手を振る。面白くない表情で王子様は、代わりに隣を歩く銀色の髪へ手を伸ばす。ボスがしたように指を絡めて、ボスがしたがったように唇に押し当てた。

「……」

 その挑発には、さすがの山本も笑みを消す。ロマーリオの掌の下では眉間に青筋が立った。

 

 

 

 自分の『情婦』がもてるのは、男にとって、心配なことだが嬉しくないことではない。自分以外の連中がちやほやする美女に、触れられるのは自分だけだという自負は男にとって心地よいものだ。『美女』に愛されている自覚さえあれば。

「な、ちょ、おい……ッ」

 金の跳ね馬にはそれがなかった。だから情婦の人気っぷりを、自惚れに変換して愉しむことが出来なかった。帰りの車の中で荒れ、手こそ上げなかったが暴力じみたキスを繰り返し、あまりの勢いにかぶりを振る相手を押さえつける。

「ちょ、跳ね馬、髪、いてぇッ」

 後部座席に引きずり込んで、仮眠がとれる長いシートに押さえつける。背中で纏めていた髪の紐がはずれ、それをカラダに敷きこんでしまったオンナが苦情を言うのに構わず、男はオンナから上着を剥ぎ取ってシャツのカラダを抱きしめる。

自分の部下たちと揃いのスーツを着せて、ロマーリオと並べて背中に立たせるのは少し気分が良かった。けれど自分が広間に入った後で、自分のより優位の客に、あの男と沢田綱吉に、ちょっかいをかけられていた話を、男はロマーリオから聞いた。車が廻されるほんの短い時間に。銀髪のオンナはロマーリオの指図で先に車に乗せられていた。揉め事を防ぐ為に。

「な、ん、だぁ?面白くねぇコトでもあったのか?」

 押さえつけた掌の下から仰ぎ見らてくる銀色の視線に恐れはない。ノエルの宴会で、と、尋ねる銀色の鮫は正気で真面目だ。心配そうでさえあった。馬鹿にされているような気がした。

「あった。宴会でじゃない」

「ンだぁ、家光と揉めたの、ン……、っ」

 細い顎を掴む。もう一方の手で喉を押さえるようにして、車のシートの窪みで身動きを奪って唇を重ねる。凶暴な衝動が、皮一枚の下でどす黒く煮える。

 ボンゴレ本邸から帰る車の中。息を奪いつくすようなキス。暴れようとしていたオンナは途中で大人しくなった。男の本気を、切羽詰ったような焦燥を理解して。

「……どーしたぁ?」

 充血するほど腫れた唇を開放された時に、再び問いかける、声はさっきより深くて優しい。

「どうした、じゃねぇだろうスクアーロ」

 金の跳ね馬は目が据わっている。皮のシートに散らばった銀の髪を掴む。やっぱり切らせよう、と、そう思いながら。跳ね馬は誓いのことを知らないが、それでもこの長い髪が何かの祈りであることには気づいていた。

「ザンザスに、髪にキスされてどうだった?嬉しかったか」

「……は?」

 嫉妬で陰鬱な表情の跳ね馬と対照的に、銀色の鮫はいつでもさばさば、はきはきと男らしい。

「なぁに言ってんだぁ、てめぇは?」

 不振そうに眉を寄せる。

「髪にキスされたんだろう?」

「ああ。そーなのか?」

 銀色の鮫には見えていなかった。頭を下げて、顔を伏せていたから。下げた頭に手を掛けられて髪を引かれたのは分かっていたが、ただのちょっかい、つつかれたたけだと思っていた。

「どうだったかって聞いている。答えろ」

「イヤガラセ、なんじゃねぇか?」

 目覚めた後に放置されていた銀色の鮫の不審は根深かった。唇はおろか掌にさえ、キスさえさせて貰えなかった悲しみは多分、一生消えはしない。

「オマエがオレをあんまり気にしてっから、ちょっかい出してみたんだろ」

「その後でツナにも撫でられたって?」

「あー。そっちはびっくりしたぜぇ。ツラ触られた。怪我の痕がどーとかってよぉ」

「アイツの後でツナにそうされたんじゃ、アイツだけ抗議をすることも出来やしない」

 跳ね馬が口惜しそうに呻く。

「どうして触らせたんだ、スクアーロ」

「何されたって拒否権ねーんだよオレには。ボンゴレはオレを煮るのも焼くのも自由だ。罪人だからなぁ。オマエに向かって足ひらけって言われてひらいたのと同じだぁ」

「……ッ」

 金の跳ね馬が息を呑む。顔色が一瞬で真っ青になる。銀色の鮫は男の抗議が面倒臭くなって嫌味を言ったのだが、それがあまりにも効き過ぎたので、つい。

「いや、あの、なぁ、その」

 フォローの言葉を捜してしまう。

「そう……、だった、な」

 跳ね馬が俯く。いつも若々しく色艶のいい唇まで白っぽい。真っ直ぐに美貌を見据えていた目が弱々しく伏せられる。オンナを押さえつけていた硬い掌からも力が抜け、跨っていたオンナの上から退いた。

「オレにはナニを言う権利もない。やつあたりして、悪かった」

 力で強いた現実を思い出す。同じようにされて同じように拒めなかっただけだと言われて、返せる言葉はただの一つもない。

「その、だから……、あのな」

 目の前であんまりしょんぼりされて銀色の鮫がおろおろ。戸惑う肩を、男が支えてくれシートに起こされて、散らばった髪を掻き寄せられて纏めてくれる。背中で、紐で結んでくれて、そして。

「……」

 男はシートに座りなおす。背中が丸い。ヤバイ、と、銀色の鮫は思った。思ったときには遅かった。刺青の這う左手を持ち上げて、そして。

「お、おおぉぉおぉぉ、いぃ」

 顔を覆って跳ね馬はうなだれる。泣いているかもしれない。

「ちょ、おい、ディーノ、嘆くなぁ、オレが言い過ぎた。なぁ、なんか、苛めたみてぇじゃねぇかぁ」

 銀色の鮫は弱い。怒鳴られたり脅されたり嫌味を言われたり後ろ指を差されたりはまったく平気だが泣かれると弱い。この手でガキだった王子様に過去、何十回もひっかけられてきたが、それでも相変わらず、おろおろと戸惑う。

「なぁおい、ノエルの夜じゃねぇか。仲直りしようぜ。なぁ?」

 珍しいことに銀色の鮫の方から機嫌をとるように男の肩に触れ、頭を寄せて腕を廻す。触れられて暖かさを感じて男は少しだけ和んだ。左手を外す。泣いてはいなかったらしい。だが、ほんの数秒で憔悴、ショックのせいか、肌さえ褪せて見える。

「自由にしてやったら」

「跳ね馬。なぁ、オレが言い過ぎた」

「きっと逃げるだろうな」