同じ頃。

「ボス、寒くないかしら?」

 キャバッローネの若いボスから、悪魔だ魔王だ、と、畏れられているヴァリアーのボスは眠っていた。

「んー。大丈夫じゃね?」

 車の中で、だ。もっともその『車』は全長8.7メートルのリンカーンフルストレッチだったから、シートを倒せばロングのセミダブルベッドくらいは楽にある。運転手はレヴィ、助手席にルッスーリア。後部座席のテーブルセットを挟んでマーモンとティアラの王子様が楽な姿勢で座り、一番奥のシートを倒して、ボスのザンザスは毛布を被って眠っている。

 顔は見えない。が、自然と手足が伸びたその姿勢で、安眠中だということは分かる。

「そう、ならいいけど。レヴィ、疲れたなら運転代わるわよ」

「いや。大丈夫だ」

「あ、ポスの目が覚めたよ」

「お前たちがうるさくし過ぎるからだ」

「ンだよ、レヴイ。ムカツク」

 勝手なことを喋る部下たちを、火傷の痕の残る男はゆっくり見回した。順番に。

「……」

 部下たちが口を噤む。みんなが少し俯き、目をそらす。見たくないからだ。ボスの、ああ、という、悲しみの表情を。

 寝起きのぼんやりしたボスが誰を探しているか知っている。ここに居ない人間を探している、居ないのに気づいて、居ない理由を思い出して、ああそうだったと気が付く瞬間の失望を見たくなかった。かわいそうになるから。

「ボス、ご気分は?」

 気をとりなおして、なんでもない口調で、声をかけるのはルッスーリア。マーモンがぴょんとベルフェゴールの膝から飛び降りて、保温庫を開けて中から暖かなタオルを差し出す。

「あと一時間くらいで着くよ。着くよね?」

 尋ねられたレヴィは短く、つくと返事をした。

 ボスはタオルを受け取って顔を拭う。そうか、と、どうでもいいように答えた。到着の時間などどうでもいい。ノエルから新年までボンゴレ本邸に泊まっていくようにと求められ、顔色を変えて出てきたボスは、そこから脱出さえ出来ればよかったのだ。

まだ父親であることを棄てきれないでいる九代目は足を引き摺りながら玄関へ出てきて息子を引きとめようとした。一瞥も与えずにヴァリアーのボスはボンゴレ九代目から逃れた。無理もない、と、部下たちはボスに同情している。ほんの二時間、隣に座らされただけでこうも疲労困憊しているのに、新年までの一週間を一つ屋根の下で過ごさされた日には息が止まってしまう。

お前の家なのだ、と、九代目はザンザスに言った。ここはお前の家なのになぜ、ノエルと新年をここで過ごさないのか、と。言われてザンザスは車に乗り込む足を止めた。九代目でなくボンゴレ本邸の玄関を眺めた。子供の頃から何度となく踏みしめた正面玄関、家人や来客を迎えるためのホールへと続く白黒の大理石を敷き詰めた豪奢な床は磨き上げられ、シャンデリアの光を弾いて、空間そのものが豪奢に輝いている。

 美しい。その美しさを愛していたこともあった。ボンゴレというファミリーに付属する全ての美しさを心から愛していた。けれどこの美しさは自分を拒んだのだ。愛し合っていたつもりだったのは錯覚、幻、何かの勘違い。相変わらず美しい横顔を見せたまま、冷たい視線さえ寄越さない冷淡。

 それが悲しい。だから近づきたくない。こんな場所が家であるはずがない。

 ザンザスは何も言わなかった。自分の気持ちを言葉にする習慣がないのは昔からだ。けれど偽るほど臆病でもなくて、その視線の一閃は切なく悲しく、絶望と諦めを含んで、それでもまだ愛しているからここに居ることさえ辛いのだと、雄弁に伝えていた。

 いつも、この男はそうだ。だから周囲はたまらなくなるのだ。誰にも何も訴えず理解を求めようとしない。何もかも一人で決めて一人で動いていく。けれど、何かを隠している訳ではなくて、悲しみも怒りも鮮やかに冴えて周囲をひきつける。

 言葉をなくした養父を置いて、ザンザスが出て行った時の騒ぎを銀色の鮫は知らない。その時点ではディーノの車に詰め込まれて、車止めに入る手前で待たされていた。傍に居ることを許されなくなったから、うたた寝から醒めてぼんやりした顔で、自分のことを探している顔を知らない。居ないんだったことを思い出してがっかり、寂しそうに起き上がる様子を知らない。

「……」

 王子様はそれが不満。知らせたいと思う。知ったらきっと帰って来るだろう。来ると信じている。

 それで帰ってこなかったら裏切りだ。その時は殺してやると、本気で考えている。

「……」

 ルッスーリアは知らせない方がいいと思っている。知ったところで二人とも、苦しむだけだから。妖精のままの王子様と違って肉体の愛情を知っているから。真紅のボスも金色の鮫も、揃って相手を諦めて、それで今、やっと生きているのだ。

 知ったら、死んじゃう、二人とも。

 そんな悲しい結末を見るくらいなら、お互い相手にふられたと思っている今を見ている方がいい。まだ愛されていることを知ったら銀色の鮫は戻ってきたがるだろう。きっと出来ないのに。そばに戻ることも、昔に戻ることも。

「……腹が減った」

「ティラミスあるよ?」

「サンドイッチでよければ。スープも。缶だけれど」

 王子様とルッスーリアの申し出に。

「酒」

 ボスは答える。仕方がない。王子様は冷蔵庫を開けて瓶入りのマティーニの蓋を開けて手渡す。本当は、酒はあんまり飲んで欲しくない。食事もとらずに、明らかに飲みすぎ。でもそれしか欲しがらなくなった人に、それさえ駄目とはいえなくて悲しい気持ちになってしまう。

銀色のあの鮫が早く帰ってくればいいのに。ボスの枕元に毎朝、座り込んで目覚めを待っていればいいのに。ボスが起きたら最初に顔を見せてやればいいのに。そうしたらボスは起きるごとに寂しい顔をしなくて済むのに。

「あのさ」

 瓶に口をつけるボスの足元に王子様は座り込む。身代わりのような気持ちで。

「センパイ、元気そうだったよ」

 みんなが何も話さないから、王子様だけがそれを口にする。

「キャビア、今日は喧嘩しないで食べた」

「そうか」

「うん」

 それだけ。長い言葉は喋れない。ボスの返事が短いから。でも長い返事の変わりに掌が動く。頭を撫でてくれるのは子供の頃みたいで、十分なご褒美。ヴァリアーから追放されてしまった銀色の鮫のことを、ボスの前で話すのはこの王子様だけ。話したら必ずご褒美をくれる。笑ったり、撫でたり。

 大人がみんな、忘れた方が幸せになれるから敢えて触れないようにしていることに、王子は一応、気づいてはいるけれど。

 そんなの、勝手な思い込み、余計な気配り、じゃないかと思っている。このボスは忘れたくないのだ。証拠に話すと嬉しそうにしてくれる。その気持ちが凄くよく分かるんだ。だってあの銀色も王子様も、忘れられずに、ずっと待っていたから。

痛くていいんだ、構わない。

なくすくらいなら抱きしめていたい。それが刺さって、傷だらけになってもいい。

 

 

 

 

 

 

 年に何度か、同じことは繰り返される。ボンゴレの会合に出てみない九代目の養子を引っ張り出すために、他所へ追い出した筈の銀色の鮫を呼び出す。

「あ」

「キスしてる?」

「見えません」

 ヴァリアーのボス、ザンザスの行為はエスカレートするばかり。最初は髪に触って梳いただけ、次には顎に手を掛け顔を上げさせた。やがて抱きしめずには別れないようになる。抱きしめられる側は嫌がらない。大人しいよりもう少し踏み込んで抱き返す。ただ、そのままついて行こうとしたことは一度もない。

連れて行くたびに撫で回されることを腹に据えかねたディーノが、連れて来いという命令に逆らおうとしたこともあった。が、ロマーリオに止められた。アレがウチのならボスの意思どおりだ。でも違うだろう。命令権はアッチにあるんだぜ、と。

口惜しそうに歯噛みする若いボスを気の毒に思いつつ、ロマーリオには彼なりの計算がある。ヴァリアーと十代目がつるむつもりなら、ウチがそこに一枚、噛みこむ為には必要貴重な手札だと思っている。

 キャバッローネとヴァリアーのボス二人に焦がれられる本人はというと、イマイチ、事態を実感しきれて居ない。ザンザスには何か必要があって、自分を愛しているフリをしているのだと心から信じている。だから落ち着け、挑発にのるなよと、苛々が募ってヒスを起こしそうな跳ね馬を宥めることさえあった。

 真面目に嘆くな、面白がれ、というアドバイスは多分、的確なものだった。妻を奪われようとする夫のように真剣な顔をするな。自分の奴隷に執心するザンザスを笑いとばしておけば、お前には傷がつかないのに、と。

 心配そうに言う鮫は優しい。けれど残酷。出来もしないことを言う。愛しているオンナのことを愛していないふりなんて出来ない。その時点でザンザスに完敗。他の男の持ち物になってしまったオンナを、堂々とまだ愛している恥知らず。

 

 その日も。

ボンゴレ本邸の格式の高い玄関で、男にぎゅっと抱きしめられ、撫で回された愛人に。

「後ろに、来い」

「あぁ?」

「隣に来い」

「おいおい、なに言ってやがる」

「膝に来いって言っているんだ、早く」

「命令かぁ?」

「……命令だ」

 キャバッローネのボスはひどく苦しそうながら言った。ハンドルを握っていたロマーリオは内心で感嘆。マフィアのボスらしい命令だったから。

 命令なら仕方がない。そんな表情で美形はキャバッローネの若いボスの膝へ。そこから先のことをノローリオは知らないが、到着したとき、降りてきたのはボス一人だけ。ドアを開けたロマーリオはボスに見られて頷いた。それで十分、意思の疎通は成立する。着替えを持って、エンジンを掛けっぱなしで空調を効かせた車へ戻り、服を差し入れた。

 やがて降りてきた美形はおやすみの挨拶を残して自室へ引き揚げる。そのことを伝えたら、いつものカジュアルな部屋着に着替えたボスはそうかと頷いた。連れてこなかったことをがっかりされるかな、と、心配していたロマーリオはボスが案外、平気な顔でいたのが意外でもあり、ほっとしたのだった。が。

「ボス?」

「うん」

 辞去しようとするロマーオとともにディーノは自室を出て、廊下を歩いていく。部下と同じ歩調でホールへ続く階段の途中の踊り場、その前を通らなければ外へ行けない位置に、テラスつきで配置されている『女主人』の部屋へ向かう。

 行くのか、とロマーリオは思った。もちろん止めなかった。ここはキャバッローネの本邸、主人は今、ほんの少しだけ前を歩いている若者。ファミリー内でボスの意思を拒める者はおらず、閉じる部屋はない。象徴的な意味だけでなく、ディーノの網膜照合で開かないドアは本当に一つもないのだ。

「……ひどい男だと思うか」

 ぽつり、背中を見せながら、若いボスは少年時代からの側近に尋ねる。恋を最初から知られている安心感があった。

「行かないで眠らせてやる方がいいと思うか?」

 尋ねられる。いいや、と、ロマーリオは答えた。

「行って眠らせてやりゃいいじゃねぇか。オンナを独り寝させとくとろくな夢みやがらないからな」

 ロマーリオが言う。ディーノはなんだか救われたように笑う。可愛い、と、ロマーリオは思う。新進ファミリーのボスになった今も、金の跳ね馬は少年の頃の素直さをなくしていない。自分の言葉に力を得たように、女主人の部屋の前に立ちインターホンを押す。ややあって、返答があった。なんだぁ、という不機嫌な。

「オレだ。開けてくれ」

 もー寝るぜ、オヤスミ、と、中のオンナはドアの外の男を追い返したそう。分かってる、オレも寝る、と男は答えた。セックスはしなくていいから部屋に入れてくれと言っている。

 やがてガチャリと、ドアは内側から開く。膝までのTシャツにスパッツという姿はこのオンナの寝巻きだ。ホントに寝るからな、と、念を押しながら男を部屋へ招き入れる。セックスしないぞと釘をさされても、開けてくれたという事実だけでディーノは嬉しそう。腕を伸ばして銀色のオンナをぎゅ、っと抱きしめる。

 ロマーリオはそっと扉の前から離れた。何かを二人、話しながらパタンとドアが閉まる。おめでとう、という気分が半分、それで安心するんじゃねぇぜと叱咤したい気持ちがもう半分。敵は魔物だ。美味いメシを食わせて上等な酒を飲ませて、ふかふかのベッドで抱きしめて眠ってやったところで腕の中で別の男の夢を見る、こともある。

 それを含めて男の責任というなら、男というのはなんてしんどい生き物なんだろう。だがしんどさが美学だ。途中で折れるくらいなら死んでしまう方がいい。息をする価値もない。