一瞬の攻防。

 ザンザス、と、呼んだのは沢田綱吉。

 オレを、という言葉は最後まで言う必要がなかった。渾身の力を篭めてはなたれた憤怒の焔が沢田綱吉に吸収され、津波になって、その会場を救った。

「地震か?まさか、爆発か?」

 招待された映画監督やデザイナー、たちは真実に気づかないまま、建物の揺れだけを体感する。爆発にしては音がしないので地震だろう。珍しいなと話し合って、それだけ。

「ツナは、みんなは?」

「九代目にお怪我は?」

 適性を持つ戦闘者だけが気づいた。会場全体を襲った圧迫、建物ごと潰そうという力に。それは神の一撃に近い圧倒的なものだった。何ヶ月も何年もかけて、沢山の人間がその日のその場所を潰すためにちからを振り絞ってきたのだろう、と思われた。

 東洋の言い方をするならば地脈。竜の尾の位置に当たるそこへ、白蘭が仕掛けた。何人の術者にどれだけの技を注ぎ込まれたものか、地脈の尾が跳ねて、地上の人間を建物ごと破壊しようと、跳ね飛ばそうと、する。

 自然の力を利用した狡猾な罠。人類が手にした最高の破壊神、核の力さえ問題にならない地殻変動の動き。

ボンゴレの表の顔、コングロマリット財団として深く関わっているファッション業界関係者のパーティーが狙われた。革製品を中心とするブランド錬金術従事者、とはいえカタギの面々がそれだけ集まった場所へ手を出してくるとは、まさか思わなかったボンゴレ側は防御が薄かった。

その場に居たのは、主催であるボンゴレ九代目。次代の披露を行う為にボンゴレ十代目。継承が尋常に行われたことを内外に示す為にもと御曹司のザンザス。

 パーティー自体を仕切っていたのはキャバッローネ。つまりはその若いボスであるディーノ。輝く金髪とマフィオーソより俳優が似合う男っぷりの良さでイタリアンブランド業界をのし歩き、その世界では相当の顔だ。錬金術といえども元金なしには成り難いのが人間の世界。

若手売り出し中のモデルやデザイナーたちは男女問わず、その目に止まろうと華やかに着飾る。挨拶をしたがられ握手を求められディーノは愛想よく応じるが、とおりいっぺん、誰にも特別な態度はとらない。

下心のなさが清潔っぽくてたまらないと、囁く招待客たちは知らない。優雅に微笑むハンサムな青年の唇は昨夜、というよりも今朝近くまで、同棲している情人の狭間を舐め捲くった。もう許してくれと願われても、痛いと悲鳴を上げられても、ちゅっと吸っても雫さえ滲ませなくなるまで、愛撫をとぉに通り越した過度の刺激を与え続けて、すすり泣く声が悲鳴に近くなるまで。

愛情のセックスではなかった。拷問、処罰に近かった。情人の部屋に掛けてある部屋のカレンダーに、つけられていたシルシが男の気に障った。

キャバッローネで外様扱い、ボスのベッドの相手のほかに仕事を与えられていない銀色の鮫のカレンダーに、百番勝負の日程以外が書かれているなんて珍しかった。それが今日のこのパーティー。格にうるさいボンゴレの主催にしては気楽な立食形式で、しかもこの鮫を挨拶に来させろと書いてあった。

挨拶に、というのは会場に置いておけということだ。ザンザスが来る立食の会場におけばどうなるかは火を見るより明らか。連れてこられた昔の仲間たちに囲まれ、楽しそうにじゃれあいがら、昔の男の前で笑っている。

それが時折、視界の端に映る。楽しみにしていただけあって実に楽しそうだ。昨夜あんなに泣かせてやったのに幸福そうにしている。もっと滅茶苦茶にして、立っているのも辛いくらいにしてやればよかった。九代目に挨拶を終えたら先に帰ると言い出すくらい、ひどくしておけばよかった。

今夜、屋敷に連れて帰ったら。

抱こう、と思いながら、金の跳ね馬はパーティー会場で微笑む。泣いても許さないで一晩中、楔で自分に繋げておこう。あの形のいい頭の中に別の男の影も浮かばないように。

セックスには自信があった。とくにあの銀色の相手に『教えた』のは自分だという自負がある。殻を剥いたのは別の男でも、気持ちよさを教えてやったのは自分だ、という自惚れ。言葉を選ばないで表現するならば、カラダを仕込んだのは、オレだ。

内側を、ナカからも外からも、同時に弄ってやると泣きながら悶える。もっと、と、腰を浮かして先を催促する素直さを思い出してうっとりしているディーノの表情は一見、そんな淫らなことを考えているとは想像も出来ないほど端整。ただし性的なフェロモンは周囲に広がって、男も女も気を引かれ視線を向ける。

ディーノの視線は、決してそちらへ向けられることはなかったが。

 

ザンザスを呼びつけるための餌は今回、随分、近くに置かれていた。それだけザンザスにとっては耐え難い席だったからだ。自分が敗者と納得していることを、衆人環視の中で認めなければならない立場は、昔のこの男には受け入れがたかっただろう。

今はそうでもない。昔ほどの情熱も感情もなくして、ただ、なんとなく生きている。理由は部下たちが敗戦後も散らず、ぴったり、男に寄り添っているから。嘘をついていたのに、だまして従わせた挙句に負けて、甘い汁を吸わせてやることも出来なくなったのに、少しも変わらず、まるで。

そんなのはどうでもいいんだ、と言いたそうに。

 お前のそばに居たかっただけだ。お前を愛しているんだと、笑った銀色の美貌がチラチラ、瞼の裏側で踊る。欲しかったのはボスの座だけ、他は本当に何一つ要らなかった。どうしてあんなに欲しかったんだろう。昔の痛い欲望を思うと、要するに、ボスになれれば手に入ると思っていたからだ。あらゆるものが。信じられる愛情を含めて。

 持っていたのかもしれない。

今も、持っているのかもしれない。

 側近たちにぴったり取り巻かれ、どこにも行かないでいなくならないでと見上げられて、膝の周囲に座り込まれてなんとなく、惰性のままヴァリアーのボスの椅子に座り続けている。

ザンザスが消えればヴァリアーは分解する。実力伯仲の幹部たちは集っていることが出来ず、仲間も家もなくなって一人ぼっちの流れ者になってしまうだろう。強いボスの存在は群れの秩序そのもの。なくなれば死滅するまで噛みあって滅びるしかない。

それは不憫なような気がした。そうして理由が、もう一つ。

ヴァリアーのボスの席からは銀色の鮫が見える。わざと見せられているのは分かっているが、消えてしまえば見ることも出来なくなる。美術品のように綺麗だと、強面の男は内心、ドマジにそう思いながら眺める。

幸福そうに見えるから安心して眺めていられた。隣に派手めの男がいつも居たが、そんなのが気になるメンタリティは持ち合わせていない。麗しいボンゴレの歴史と伝統は自分を拒んだが、銀色は相変わらず笑う。それだけで十分。

そのパーティーの、お供はルッスーリア。ファッション業界の関係者らが集う場に連れて行って、一番生き生きとしているから。ボスであるザンザスには理解しがたいことだがルッスーリアの容姿とファッションセンス、髪型、言動といったものは、スタイルだけであぶく銭を稼ぐ傲岸不遜な業界人たちを感嘆させる価値があるらしい。

クロークにコートを預けて会場へ足を踏み入れた瞬間、専属モデルらを侍らせて悦に入っているデザイナーが何人も気づいて視線や周波を寄越す。ルッスーリアは流れるような足取りで会場の絨毯を踏みながら、微笑を返しながら歩く。今日はボスのお供なのまたね、と、目元と口元だけで崇拝者に告げながら。

 九代目とその横に居る十代目の沢田綱吉のもとへ、殆ど、出頭して会釈。九代目は体調を尋ねたが、頷いただけで離れる。沢田綱吉が何か言いたそうしていたが無視して、金と力を持つボンゴレのボスを取り巻く人波の外へ出た。

それだけで用は済んだ。帰っていい筈だったが。

「待って、ボス。何か食べていきましょうよ」

 会場の雰囲気に浮つくルッスーリアに引き止められる。ここのローストビーフ、ボスの好物じゃない。とってくるわぁと食べ物の並べられたテーブルへ近づく。ああ、そうだったなと懐かしく目を細めたせいで、いいと言うタイミングを失ってしまった。

それは言い訳。本当は気づいていた。二百二人ほどの人間が出入りする広い会場の中、どこかに銀色の鮫が混ざっている。ボンゴレ首脳部には近づけないまま、自分を探して広間を廻っている。盆を捧げ持つボーイを指を上げて呼び止め、ハイボールを選んで手にしたのは、鮫がこっちに気がついて近づいてくるまでの時間稼ぎだった。

「まぁた飲んでやがる」

 突然、横から掛けられる、声。

「文句、あんのか?」

 言いながら手にしたグラスを差し出す。銀色の鮫は右手で受け取って、一口飲んでから返す。それは外で食事をする時の習慣。側近が確認したもの以外はよほどのことがなければ口にしない。九代目の分家の甥っ子たちが、突然現れた『養子』に対して暖かな態度をとるはずもなく、生存競争は厳しかった。

「一人か?のわきゃねぇよな。ルッスかべル、どこ行った?」

 左右を見回す鮫の視界に、ルッスーリアの派手な髪の毛がうつる。手にした皿には色艶のいいローストビーフ。ああ、という顔で、銀色の鮫が笑う。

「おまえ、ここの好きだったなぁ」

「忘れた」

 ザンザスは本当に忘れた。少年時代の、八年の眠りの前の記憶はあやふや、夢の中のことのよう。ただその頃をよく知っている二人が言うのだから好きだったのだろう。

この宴会場は近隣にあるホテルの直営で、料理もそのホテルのメインダイニングで調理される。ボンゴレの御用達ホテルの一つだ。差し出された皿に、添えられたフォークで器用に一枚の肉を、粒マスタードをつけて銀色の鮫が掬い取り口に入れる。

「うめぇなぁ、相変わらず」

 食べた皿を渡され、ザンザスはフォークを手にした。掌ほどもある褐色の肉を口に入れる。じわ、っと、広がる肉汁の味には確かに覚えがあった。上等の固まり肉を塩コショウしてニンニクを擦りつけオープンで丸焼きにしただけ。だけ、なのに、なぜ、こうも美味いのか不思議だ。

 忘れていた記憶が蘇る。ボンゴレ本邸の奥の部屋に、見た目はちょっと小奇麗だったが言動の粗野さで何もかも台無しというガキを引きずり込み、ルッスーリアの給仕で一緒にメシを食っていた短い時期。

本邸のシェフは主人の好みに忠実な老人で若いザンザスの好みにはあわなかった。ルッスーリアが上手に手早く作ってくれる食事が、口には出さなかったがとても気に入っていて、それを銀色のガキにも分けてやるとひどく喜んだ。自分の掌から餌を食べる相手が可愛くて、撫でて飽きなかった。

 ローストビーフだけはねぇ、と、確かにルッスーリアが、ワゴンを押しながら嘆いたことが合った。プロには適わないのよぉ。ナニが違うのかしら。設備かしら、肉の大きさかしら。そう言ってどこかからの取り寄せた塊肉を暖め、少年たちのリクエストどおりにスライスして皿に盛った。あれがこれだったか。

「スクちゃんこんぱんはぁ。今日も美人ねぇ」

 ルッスーリアが嬉しそうな声を上げる。おお、と、銀色の鮫は短く男らしく再会の挨拶を済ませる。

「あなたも食べる?スモークサーモンとブラックオリーブもあったわよ。とってきましょうか?」

「んー。お前、もーちょっとここに居るかぁ?」

 ルッスーリアの感嘆を聞き流し、振り向いてザンザスに尋ねる銀色の鮫は本当に美人だ。長い銀髪がやわらかく弧を描く様子はどこの映画女優かという雰囲気。眉毛も睫もきらきらの銀色。そうしてそれらに飾られた、カラダも顔立ちもピカイチ。身動きするごとに長い手足の動きが様になっていて格好がいい。

 パーティー会場で、珍しく口を動かしながらザンザスが頷く。それに安心して銀色の鮫は料理を取りに行こうとする。ルッスーリア目当ての若いデザイナーたちが銀髪に見惚れながら進路をあける。

かなりの量のローストビーフをぺろりと食べ終えたザンザスの、空いた皿をルッスーリアは恭しく受け取りテーブルの端に置いた。ふだんは派手めでイケイケのルッスーリアが主人らしい男に、辞を低くして仕えている様子が若いデザイナーたちには新鮮で、日本なら、主従萌えーッと、天井に文字が浮かんだことだろう。

やがて、紙皿ではない陶器のそれを三枚、器用に軽々と、右手に挟んで銀色の鮫が帰って来て。

「肉と酒ばっか食ってんじゃねぇぞぉー」

 言いながらボスに突き出した皿にはローストビーフに添えて、ブロッコリーと生ハムのピンチョスが置かれている。ボスは苦い顔をしたが文句は言わなかった。もう二枚、自分とルッスーリアの皿にはローストビーフとスモークサーモンにオープンサンドという、均整のとれた盛り付け。

「ボス、ねぇ、クリュグがあるわよ」

 と、シャンパン好きのルッスーリアが言うのは、一口で良いから飲みたいという意味。こういう場所で護衛を兼ねているお供は当然のこととして禁酒。ただし、毒見にかこつけて一口だけは飲める。

「モンペンシエールの赤も出たぜぇ」

 一行を目指して、他の客の合図を丁寧に無視して、ボーイというよりギャルソンと呼んだ方が似合いの、他よりやや年齢の上の給仕が銀の盆に、立食パーティーでは有り得ない高級酒の瓶とグラスとアイスバスケットを載せて運んできた。そこには勿論、ザンザスが好むシングルモルトウィスキーも見慣れた幾つかの瓶で並んでいる。

「あぁ?」

 飲ませろ、と左右から催促されザンザスは額に青筋をたてる。怒りんぼうなボスに慣れている二人はそんなことでは怯まず、勝手に好きな酒をリクエストしては一口だけ喉に通し、残りをはい、とボスの手に渡す。

ワインやシャンパンは水と変わらないザンザスは苦い顔をしながら受け取って、両方、味わいもせずに飲んだ。ギャルソンは内心で美酒のために惜しんだかもしれない。しかしながら、この男が梳きでもないそれらを、不快そうでも飲んだというのは、滅多にないことだ。

 ギャルソンは三人から離れず、ザンザスの目線に応じてマッカランのロックを作り、それを本人ではなく銀色のお供に手渡す。銀色はグラスの縁を舐め、ボスに廻して手渡した。

 そこへ、別のボーイがやってきて、上役らしいギャルソンに耳打ち。軽く頷いたギャルソンは、腕を胸に軽く当てながら小腰をかがめてルッスーリアに近づきその耳元に囁いた。

ご一行の為に、桟敷席を用意させていただきたいと主催が仰っています。いかがされますか、と。

 ルッスーリアはそのままをザンザスに伝える。ザンザスは珍しく迷った。パーティー会場で珍しく足を止め、グラスを手にしているのを何処からか見られているのだ。愉しむつもりがあるのなら席を用意させるからそこでゆっくりして行けばいいと、特別扱いの申し出。

「……」

 銀色の鮫がザンザスに近づく。囁いた声は小さいが、ザンザスの口元を緩ませる。ジジィは足がワリィ。桟敷にあがっちゃ来ないだろうぜ、と、鮫が言ったのは誘い文句。家光は今日来てねぇし、もーちょっといいじゃねぇか、と。

 その誘惑が結果としてボンゴレファミリー存続の危機を救った。