日暮れて、やがて月が出る時刻。
「ザンザス」
十代目の指示により九代目の警護を務めていたヴァリアーの面々が揃ってボンゴレ本邸を出立する、白と黒の大理石を敷き詰めた正面玄関の車寄せ。
途中まで卒金に車椅子を押させて、玄関へは杖をついて老人は出てきた。老人自身に今回の攻撃は直接及んでいなかったが、地脈の竜が蠢いた瞬間の恐怖と戦慄は、その血の感能力によってまざまざと感じた。
「今度のことはお前の手柄だ。よくやってくれた。感謝している。何か望みはないか?」
ザンザスが老人を眺める。それが仲直りの申し出ということは分かった。三日で動けるようになって尚、大嫌いなボンゴレ本邸で一週間を過ごした理由は、警護という名目でそばにつけられた昔のオンナを離したくなかったからというこの状況で、望みを尋ねるボンゴレ九代目の意図は分かっている。
あれを戻してくれと一言、望めば叶えられたかもしれない。
「……」
ザンザスはそう言わなかった。この相手に対する言葉はもうなくしていた。願いごとをする気持ちにはなれなかった。叶えられたとしてもどうせ嘘になる。紙切れ一枚で取り上げられる弱みを作ってしまう。奪われることを恐れて奴隷のように仕えなければならなくなる。命令に逆らえなくなる。ひも付きの餌を与えられているあの金髪の、キャバッローネの若いボスのように。
ザンザスは養父である九代目を丁重な態度で無視して車に乗り込む。バタン、とドアを閉めたルッスーリアが九代目に会釈してから自分も助手席に乗った。
「……」
ヴァリアーへ戻る車中の三時間、誰も一言も口をきかなかった。おしゃべりなベルフェゴールも、外貨取引を一週間も中断してしまった遺失利益をボスに訴えようとしていたマーモンも、いつもキャラキャラと笑ってヴァリアー全体の雰囲気を血まじりのピンク色にだが明るくするルッスーリアも。
声を出せるような雰囲気ではなかった。広い車内は暖かいのにコートを脱がないまま、襟に顎を埋めるようにして彼らのボスは何かを考えている。
らしくない後悔をしているのかもしれなかった。
ザンザスはボンゴレ本邸の正面から帰っていく。一緒に帰れないイレギュラーな滞在者は、通用口から徒歩で出て行こうとした。少年時代に何度も通った本邸の構造は以前と変わっておらず、十年前に登録された網膜照合の記録もまだ残っていた。名前を名乗り、記録を照合されて、少し待たされた。
やがて通用門に車が廻されてくる。ああ、と思った。やっぱりそうくるか、と。
このまま何処かへ行ってしまえないかと思っていた希望が砕かれる。目の前に停まったのは見慣れたジャガーではなくランボルギーニ・カウンタック。跳ね馬のくせに猛牛のエンブレムの、趣味で乗り回している車に乗ってきたのはファミリーの公用ではなく私用だからだろう。運転手も連れず、助手席に側近のロマーリオは居るがハンドルは自分で握っている。
「よぉ。オツトメごくろーさん」
金髪に夜間運転用の黄色いサングラス。その下から笑いかける顔立ちは優しく整ったハンサム。顔だけなら甘すぎるところを、袖を捲り上げたシャツの左腕に這う見事な刺青が引き締める。自身で迎えに来てくれる情熱といい乗っている車といい、文句のつけようのないIo sono bello、ハンサム。
ロマーリオが助手席から降りる。シートを掌ではらう仕草をして、そうしてドアを大きく開き、小腰を屈めて銀色の鮫を招く。後ろには別の車もついているから、ロマーリオは帰路、そちらに乗り込むつもりなのだろう。
部下が居なければへなちょこに戻ってしまうディーノは、初恋の相手には部下の前と同様に格好つけたがる。ので、この美形と一緒に居る時に部下は必要ない。
「どうした、スクアーロ。……乗らないのか?」
尋ねるディーノの声は穏やかだが、ギアを握ったままの左手の指先は白い。サングラスの下の顔色もたぶん青白いだろう。よく見れば頬は一週間前よりもかなり削げている。ロマーリオが頼む、という風に笑う。
ああ、と、銀色の鮫は思う。また苦しめてしまった。こいつは何も悪いことをしていないのにどうしてこんな酷い目にあうんだろう。かわいそうに。でももっと、これから可哀想になる。するのは自分だが。
側近というか腹心というか、家族同然のロマーリオだけならともかく他の部下の前で恥をかかせるのも気の毒で、銀色の鮫はカウンタックの助手席へ乗り込んだ。瞬間、ロマーリオがほっとした顔をする。パタン、とドアが閉じられる。その瞬間、イタリアというよりドイツ車じみた密閉度と安心感を中に居る人間に感じさせる車だ。
跳ね馬は、以前はちゃんと跳ね馬のフェラーリに乗っていた。が、銀色の鮫を手元に引き取って以来、こちらに乗り換えた。フェラーリはイタリア車らしく電気系統が弱くて空調が効かないことがある。スポーツタイプの車は窓を開けても風が全く入ってこないから夏は熱暑地獄。それが可哀想だから、と。
車を変えた理由をロマーリオに聞かされた時は肩を竦めただけだったが、改めて迎えに来られ、走り出した車の中で二人きり、並んでいるとその気持ちが重い。男が車を換えるというのはけっこう大変なこと。
「待ってた」
大人しく静かに隣に座る美形に、金の跳ね馬が口を開く。
「お前を愛してる」
告白が真剣で重い。
「何にも怒ってやしないぜ。非常事態だったんだ」
別の男そのそばに一週間、望んで侍っていた恋人を金の跳ね馬はそうやって許そうとしている。腹が立っていな訳ではないが、もっと深刻な危機に、貞操を云々するどころではなかった。
「なぁスクアーロ。帰ったら、また仲良く暮らそう。な?」
「頼みが、あるんだぁ、跳ね馬ぁ」
「俺もある。悲しいことは言わないでくれ」
「もうお前と、セックスしたくねぇんだぁ」
「……」
「駄目かぁ?」
「いい、って」
跳ね馬の顔色が青い。人相が悪い。青い光を遮断して夜の視界をクリアにする黄色いレンズの夜用サングラスごしでも、変化はよく分かった。
「言うと思ってんのか?」
「言ってくれたらすげぇ嬉しいけどなぁ」
「ムチャ言うな」
「ムチャかぁ?」
「無茶苦茶だ。最初のときならともかく今まで仲良くしといて、今さらそんなのは」
「事情が変わったんだぁ」
「変わったのはお前の気持ちだろ」
「それも、あるけどなぁ」
内的要因も確かにある。けれど外的なそれの方が大きい。
アイツはもう自分のことを要らないのだと思っていた。棄てられて、不要になったのだと。待っていた男に見向きもされなくて絶望していた。だから欲しがる別の男にされるがまま、特に抵抗はなかった。
「……オレを嫌いになったのか?」
「いいやぁ。オマエのことは相変わらず、狙ってもなかなか撃てねぇ上物だと思ってるぜぇ」
銀色の鮫の、表現には問題があったが口調は優しい。一年以上、恋人扱いで大切にされてきて、今さらこんなことを言い出す自分が卑怯なのは分かっていた。でも。
「お前より好きな相手が出来ちまった。だからお前とはもう、セックスしたくない」
「自分が何を言ってるか分かってるか?」
「ひでぇこと言ってるよなぁ。でもなぁ、ホントに事情も変わったんだ。家光ももう、アイツを処刑するとはイワネェだろぉ?」
銀色の鮫は政治的な活動はしていない。今も昔も興味があるのは腕を磨くことで、組織内での出世や権勢には興味がなかった。十四歳で剣帝を倒したピカイチの実力だけで十分な存在価値だったから、自分で自分をアピールする必要はなかった。
が、分からない訳ではない。ボンゴレと関わった最初から御曹司の背中越し、権力中枢、ど真ん中を見てきた。だから今度のことでザンザスの価値が変わったことは分かる。ミルフィオーレの罠に対抗して張り合った「ちから」は、沢田綱吉にザンザスが、本人の意思以上の搾取だったが、手を貸すことで生じた。
「だからもう、お前の援護射撃は要らねぇんだぁ」
「そうか。でもまだ、オマエはオレの預かりだぜ?」
「だなぁ。身柄はなぁ。でもセックスは違うだろぉ?お前が俺の頼みきいてくれたから、俺ぁ目ぇ閉じたんじゃなかったかぁ?」
「話をキレイにしようとするな、スクアーロ」
男の声が厳しい。優しいフリを忘れかけるほどマジになっている。自分で気づいて、ごくりと息を飲む。深呼吸をして、少しでも落ち着こうと努力した。無駄な足掻きだったが。
「ボンゴレから俺が預かったのは、オマエの身柄だけじゃない。生死与奪の全権だ。オレの命令には逆らえない筈だ」
「だったなぁ。でもよ、俺がお前と寝たのは、お前が俺の頼みきいてくれたことと、お前をキライじゃなかったからだぜぇ」
「……」
命令ではなく、愛情に近い気持ちからだったと言われて金の跳ね馬が唇を噛み締める。嬉しいからではない。いや嬉しくない訳ではなかったが、そこから別の話に持っていかれそうな警戒心が嬉しさを上回る。
「お前のこと気に入ってる今のまんまでいてぇなぁ。ダメか?」
「アイツをそんなに、好きなのか?」
「んー。スキ、ってーか、うん。もちろん好きなんだけどそうじゃなくってよぉ。アイツさぁ、色々可哀想だろ?」
「どこが」
ボンゴレ九代目の御曹司のことを、魔王だと思っている金の跳ね馬は銀色の鮫に同意しない。あんなに傲慢で強力で、後継者から外されて尚、特別扱いの別格として優遇され続ける男のどこを称してそう言っているのか全く理解できない。
「可哀想なんだ、アイツ。お前と違って、ずーっと一人だぜ?」
「……どこが?」
養父である九代目にも、隣で俯く銀色の美形にも、ボンゴレの十代目になる予定の沢田綱吉にも、とびきり特別に愛されているのに。
「お前はキャバッローネのボスになって、でかいファミリー率いてこれからも、のし上がって行くだろ。アイツは可哀想に、ボンゴレ愛してたのに継げなくて、なのにジジイに掴まって離れられなくって、チンケな部隊一つだけしか自由にならなくって、すっげぇ可哀想だ」
「……ヴァリアーだろ?」
業界最高峰の暗殺部隊。名を聞けばイタリアマフィア界だけでなく世界中の裏社会が戦慄する、その集団のトップとして部下たちの忠誠を受け、怖いもの知らずの様子にしか見えない男の何処が可哀想なのか、跳ね馬には本当に分からない。
「アイツにゃ先がねぇんだよ」
これ以上の上昇が与えられない、という意味なら分からないでもないが、それは若くしてのし上がり過ぎたせいであって、同情の対象ではないと跳ね馬は思う。
「せめてよぉ、俺らだけでも、一生、仕えてやんなきゃ、かわいそぉだろぉ?」
俺らというのはヴァリアーの仲間。組織のことをファミリーと呼ぶのは名称だけではない。そこには確かに絆が存在する。
「アイツが欲しいだけアイツのモンだぁ、俺はなぁ」
そう言う銀色の鮫は幸せそう。セックスを、体を望まれて、だから他とはもう寝たくないと言っている残酷さとは裏腹に表情は優しい。優しくて嬉しそう。
「夢を」
「ん?」
「見ていたと、思うことにする」
「なんだぁ?」
「一年とちょっと、オマエと仲良く出来て幸せだった」
金の跳ね馬の言葉に銀色の鮫は微笑む。嬉しそうで柔らかい、滅多に見せない、本当の微笑を、金の跳ね馬は横目で眺めて、胸の底に畳んだ。
「色々、感謝してる。お前のことけっこう好きだったし幸せだった。すげぇ大事にされて楽しかったぜ」
「今日から辛くなるな」
「んなことねーって。お前いー男だ。好きになってくれる次はすぐみつかるって」
「無責任なことを言うな。それに、辛くなるのはオレじゃない。オマエだ」
「跳ね馬?」
「可哀想なのはアイツじゃないオマエだ。今夜からキライな男にレイプされ続けるんだからな。これからずっと、毎晩」
「……え?」
「今、眠れるなら眠っておけ。着いたらオレの部屋で服を脱いでベッドに仰向けに転がれ。シャワーは浴びなくていい。今夜は眠らせない」
「おい?」
「命令だ、スクアーロ。逆らうことは許さない」
「わりぃジョーダンだよな?」
珍しく機嫌をとるように尋ねてきた、愛おしいオンナに。
「本気だ」
答える金の跳ね馬は辛かったが、断固とした口調は崩さなかった。そして心の中であの男を、魔王を一層に憎んだ。
愛し合っていたとは言わない。でも仲良くしていた。
跳ね馬の方は愛していた。その愛情に銀色の鮫は戸惑いながら流されて、優しく抱き返してくれることも時々はあった。あのまま慣れて馴染んで、そばにずっと居ついてくれることを神に祈っていたのに。
「選択肢はない。オマエにじゃない。オレに」
手放すことは出来ない。だってもう、居てくれないと、生きていけないから。優しいままで終わるなんてきれないことは出来ない。縛っても嫌われてもそばから離さない。
「はね、うまぁ……」
銀色の鮫が、ふるっと、頭を左右に振る。イヤだ、という正直な意思表示。
「アイツ昔から、オンナいっぱいいっけどよぉ、いつも格好つけてっから、結局一人で……」
「黙れ、スクアーロ。アイツのことは聞きたくない」
「結局オンナも、アイツの家とか金とかばっかが目当てで、もちろん割り切って遊んでっけどよぉ、マジあいつのことマンマ愛して、やれんのはなぁ、俺しか、居ねぇんだぁ」
「聞こえなかったのか?黙れ。命令だ」
喉をごくりと鳴らしながら、泣き出す寸前のような表情で銀色の鮫は口を閉じる。瞳が不安そうに揺れるのを金の跳ね馬は気づかないことにした。
愛していた。だから時々膝の上に乗って撫でさせてくれるなら、その代わりに出来ることはなんでもしてやろうと思っていた。精一杯に尽くせば時々は優しくしてくれて幸せだった。でもその幸福も終わる。これからは首輪をつけて鎖で繋いで飼わなければならない。外にも出してやれなくなってしまう。可哀想に。
でも仕方がない。それが本来、あるべき姿なのだ。最初から、関係の初めから、手に入れた瞬間から本人の意思に反してでも、セックスを含む服従を強いて従わせて、力ずくでも自分のモノにするつもりだったのだから。
今までの時間が幸福な幻だっただけ。偽物の、ウソの幸せは崩れた。
「オレにもオマエだけだ。キャバッローネのボスとか跳ね馬とか、そんなのは全部、ホントのオレじゃない」
キャバッローネのファミリーも地位も財産も、左半身を這うボスの証である刺青も、熱心に自分を見つめる女たちの眼差しも、すべていびつな、ムリにつけられた付加価値。
「昔のオレを愛してくれたヤツだけが本当だ。ロマーリオとオマエだけ。あとは全部、大事だけど本当じゃない」
言いながら金の跳ね馬は苦笑する。相手の反論を封じておいて、勝手な告白だと我ながら思った。横目でちらりと伺えば銀色の鮫の頬が青白い。かわいそうに。
「なるべく早く死んでやるよ」
多分もう、この愛しい相手の為に自分がしてやれることはそれだけ。