赤い目をしたヴァリアーのボスが目覚めたとき。

「おい……、カス、水」

 拾い寝室に人の気配はなかった。バスを使っている様子もない。一人きりの部屋で無意識に居ない人間を呼んでしまって、ちっと心の中で舌打ち。誰に知られる訳でもなかったが。

 仕方がないので自分で起き、クローゼットの隅にそっと隠されている冷蔵庫からベルーナを取り出して口をつける。スペイン国境に近いロンバルディア産でイタリアのミネラルウォーターにしては珍しい軟水。

この男が水といえば普段はスピリットを生で飲む時のチェイサーでしかない。味がついているのは邪魔で炭酸の刺激もない、大人しいものを好む。

「……」

 寝起きが悪い男は時計を見た。やがて昼になる。銀色の鮫はもう日本へ発ったのだろう。そういえば行って来るとか耳元に囁かれた気がしないでもない。浴室へシャワーを浴びに行く前にベッドサイドの赤いボタンを押す。食事の用意をしろ、という指示。

ルッスーリアはランチを作らない。だから幹部たちも昼だけは各自、自分で手配しなければならない。といっても勿論、幹部には厨房が食事の用意をするので、持って来いと指示を出すだけだが。

汗を流しバスローブ姿で居間へ出る。ソファセットの横には三人がけのソファより大きなライガーが前足を伸ばし、獅子像のように姿勢を正して主人を待っていた。尾はピンと垂直に立てられ先端が前を向いている。主人に甘えて、かつ、挨拶をしている上機嫌な証拠の仕草だった。

「あれは何時に出てていった?」

男が近づくとライガーは絨毯に這うようにして頭を低くした。背の高い男はそうされるとかえって撫でにくいのだが、この獣なりの服従の表現だから我慢して、ぐっと屈んでたてがみに触れてやった。ひょうしに昨夜、銀色が掻き毟っていた背中の皮膚がひきつって痛む。

男は意地で爪を立てるなとは言わなかった。代わりに抱きしめる力を強くして背中を引き締めれば、夢中で足掻く銀色の右手の爪は筋肉に抗し得ず傷はつけられない。けれど表皮は掻き毟られていて、シャワーを浴びれば上腕や背に白い筋が薄く浮かび上がる。

居間の外から来訪者を知らせる音楽が鳴って。

「おはようございます、ボス。入ってよろしいかしらぁ?」

 ルッスーリアの声がする。男は機嫌よく背中を伸ばした。これが居たなら美味いものが届いただろう、と。かなり空腹だった。

「入れ」

「失礼しまぁす。あら、お風呂上り?きゃーっ!」

 湯気のたつボスローブ姿に喜ぶオカマを無視して、ワゴンの横に乗っていた新聞を手に取る。ソファに腰を下ろし、記事を読んでいく男の前にてきぱき、ルッリアはプレートに盛り付けたランチとフレッシュのグレープフルーツジュースを並べ、保温ポットからカフェをカップに注いで手元へそっと置いた。

「スクちゃんは朝早くに空港へ出発しました。バスターにイタズラするなよぉ、って、ボスに伝言をお預かりしています」

「ふん」

「門外顧問がジャポーネへ出発したようです。スクちゃんの後を追って」

「そうか」

 ローストビーフを挟んだバニーニを、読みながら口に運んでいた男が笑う。くくくと意地悪く。

「レヴィは昨日の商談の荷物を引き取りに行きました。マモちゃんは私用で外出です。ベルちゃんも一緒に。ワイン展に」

 そういえヴェロナで今日から大規模なワインの展示会があっている。醸造酒に興味のない男は聞き流していたが、銀色は行きたそうだった。仕事なので文句は言わず大人しく日本へ向かったけれど。

「限定モノのアマローネを買い込んでスクちゃんに売りつけるつもりでしょう」

 ほほほとルッスが明るく笑う。ウァリアーの幹部たちは相当の高給取りだが本人の生活は本部に住み込み、養う家族もない。自然、与えられる金銭は嗜好品に費やされる。銀色の鮫は濃厚な赤ワインを好み、城の地下の酒蔵には専用の一角を設けて瓶を備蓄し、楽しみにしている。

「城にはわたしが居ますから、御用の節はお呼びくださいな。じゃあね、ベスターちゃん」

 巨大な獣に投げキッスを与え派手なオカマは帰っていった。獣はゆっくり主人に近づき、一抱えほどもある巨大な頭をソファの上で組まれた腿に擦り付ける。

「おい」

 そうすると鬣が顎の下を擽るほどライガーは大きい。自分の大きさをよく分かっていない獣の首に畳んだ新聞を置き、毛並みを押さえて腕を伸ばし、主人は指先で器用に卓上のカップを手に取った。

「甘えやがって、全く。躾がなってねぇな。どいつもこいつも……」

 自分の大きさを自覚せず子猫のように懐きたがるライガーを見ているとつくづく、自分は甘いと、男は思う。ヴァリアーのザンザスが甘いと聞けばこの国のマフィアたちはふるふると頭を横に振るだろう。外に向かって猛々しく吼えるタイプでこそないが存在感は凄まじい。縄張りの奥に陣取って姿を表すことが滅多にない大きなライオンの群れの主のように、声を出すことも滅多になく見渡す限りの平原を牛耳っている。

 だが。

「マフィアの飼い犬って言うのはな、命令なしに動いちゃいけねぇんだぞ?」

 たてがみを抑えた新聞をライガーは邪魔そうに首を振って絨毯に落とした。そうして再び、主人の長い脚に頭を摺り寄せる。ゴロゴロ喉を鳴らす巨大な毛皮を男は、カップを持つ肘で突いて構ってやる。

「オレがガキの頃、ジジィに飼われてた連中はひでぇモンだったぜ?」

 幼い頃の記憶を男が口にするのは珍しい。銀色の鮫にさえ滅多に喋らないことだ。

ボンゴレ本邸の最奥、九代目の私室に侍る生き物には躾が行き届いていた。人間も番犬も機械のように、声をかけられないかぎりピクリとも動かず、掛けられれば目的の為に正確な動作を繰り返した。番犬たちには個別の名も与えられず、姿勢を正したまま何時間でもじっと動かずに時を過ごしていた。

「甘やかされやがって……」

 天空ライオンの匣を開匣できる焔の持ち主は滅多に居ない。それを成して匣を譲られた後で、出てきた匣生物を部下たちが弄っているのには気がついていた。自分で育てる気はなかったから好きにさせていたら結局、こうなった。ゴロゴロと喉を鳴らす、広げた新聞くらいの大きさの毛皮の頭が膝の上で動くとさすがの男も全身、ソファごと揺れてしまう。

てめーらのせいだぞぉ、ちっちぇ時だけ可愛がりやがってちゃんと世話しろぉと銀色が時々仲間に怒鳴っているけれど、本人が一番、このライガーを甘やかしている。大きくなった後も、今も。

だから一番、責任をとるべきはあいつだ。部下たちに甘やかすことを許してきた自分ではないと、男は思っている。

「ちょっと可愛がるとこれだ。図に乗って……」

 バスローブの袖から覗く自分の腕に白い筋を眺めながら男は呟く。熱いシャワーの火照りが完全に消えれば見えなくなるだろう爪痕。口調ほど表情は不快そうではない。銀色の昨夜の嬌態を思い出している口元の歪みはいやらしげでセクシー。

 マフィアのボスの寝室に侍る情婦の態度ではなかった。行儀も悪ければマナーもなっていない、本当に躾の悪いオンナだ。気持ちよさに夢中になって、奉仕どころかこっちを貪りやがった。本格的に思い出す男の口角がかすかに上を向く。

だきつかれて頬を寄せられてなぁと震える甘えた声で乞われると男はつい甘やかしてしまう。あの銀色に関しての責任が自分にあることはさすがに分かっている。

苛めた後で可愛がって、ヨがって震えだすのを抑えつけ阻んだ。我慢をさせていると震えだすしなやかなカラダの蠢きは包まれている男自身に信じられない快楽を齎した。腕に抱いて、ナカで抱かれて、何重にも重なり合う錯覚のなかぐちゃぐちゃに蕩けて。

離してくれと腕を掻き毟られても、そこもっと、と、腰を浮かしながら背に爪をたてられても、腹が立たない自分を男は受け入れていた。いることをオンナに知らせるつもりはないけれど。

「ベスター。あのカスザメをスキか?」

 ふかふかの毛並みに向かって尋ねる。言葉を理解しているのか居ないのか、ライガーはぐるると喉を鳴らして大きな尾をゆっくり左右に振った。主人に珍しく長く優しく構って貰えて本当に上機嫌だ。

「そうか。だが、おれはオレもお気に入りだ。一線を越えるな。撫でるのは構わんが舐めるな。いいな?」

 この男にしてはひどく温和な、優しい物言いだった。ライガーは揺らしていた尾をぴたりと止める。喉のゴロゴロもとめて全身を静止させた。

「怒ってんじゃねぇ。するなと言ってることをしなきゃいい。わかったな?」

 ライガーは頭を擦り付ける動きをそっと再開した。けれど尾はまだ力なく垂れ、叱られてしょんぼり、そんな風に見える。男がカフェのお代わりを欲しくなって腰を浮かすとぱっと飛び下がり、尾をカラダにぴったり付けて絨毯の上に蹲った。弱気になって、体を小さく見せることで、相手に自分は弱いから襲わないで欲しいと伝えようとしている。

 どんなにカラダを縮めてみても、600キロの図体は小山のようなのに。

「は、ははっ」

 男がその様子にうけて笑い出す。聞く者が居たら驚愕しただろう、本当に珍しい笑い方で。

 声につられてライガーはそおっと身を起こす。また近づき、大きな舌を出して男の、カップを持っていない方の手をぺろぺろと舐めた。舐める、というのは動物にとって最大の愛情表現。しかもあの銀色はいい匂いがする。舐めたくなる気持ちもわからないではない。だが。

「してもいいのはオレだけだ」

 それだけ覚えておけと、言って聞かせる男の声は本当に優しかった。