10年後の食卓・朝食
山際から顔を出した時から太陽は明るくて、今日も暑くなりそうな予感に満ちた朝。早朝と言っていい時刻なのに黒ずくめのスーツにごく薄い色の、無地にも見えるピンストライプのシャツを合わせ、スーツと同じ色のネクタイで白い喉元を締め上げて、黒髪の若い男は長い回廊を歩く。
郊外の館、広い敷地の中でも最奥の、中庭に面した私用のダイニング。象嵌を彫り込んだピカピカの両開きの扉の取手は象牙の彫刻。白手袋でそれを無造作に掴み押し開ける。高い天井まで届く大きな扉、手榴弾を投げつけられてもびくともしないトンの重さだが、網膜照合でロックが外れれば手ごたえは殆どなく、軽い。
「だから……」
ほんの少し開いた扉の隙間から飛び出してきたのは怒鳴り声。部屋の中には先に二人が居た。ファミリーの双璧、ボスの両腕と自他共に認める、昔なじみの連中が。
「何べん言やぁそのオガクズな脳みそで理解すんだぁ、山本ぉ」
ガラは悪いが育ちと容姿はお坊ちゃんな獄寺が、背の高い相棒を呆れつつ凄みながら見上げる。崩して着ているスーツはロロ・ピアーナ。細身のスタイルのいい身体を包み込む仕立て品は二十代半ば、花盛りの端正な美男子によく似合っている。
「俺ぁてめーとはヤレねー。ファミリー内での密通はご法度だ。私的な閥を作ることになっからな。組織の中でオンナと寝ていいのはボスだけだ」
オンナを作るのは自由、愛人は何人囲ってもいい。けれどそれは『外』でのことに限られ、少数ながら存在する組織の女構成員を相手にすることは出来ない。ファミリーは文字通り精神的に家族、家庭、一族、身内という意味だから、内部での情交は一種の近親相姦として忌まれる。
「わかってっけど、二人で謝まりゃ、ツナなら許してくれんじゃねぇ?」
凄まれて嬉しそうににこにこ、笑っている背の高い男の本業はプロ野球選手。そう派手なチームにではないが高卒で入団し、若手では有数の強打者として知られ一軍の常連。代打としてはなかなかの成績を安定して残している。スタメンに入ったり外れたりしているのは調子の良し悪しにムラがあるから。若手野球選手という顔の他に、マフィアの幹部という仕事を兼任していれば怪我をすることもある。
今はシーズン中。だが移動日と休日がうまくあって、この季節にしては珍しくこの館に顔を出せた。出したら必ず相方を口説いていく、現場に出くわしたらしい。
「十代目はお心が広い。許しては下さるだろう。でも掟は破れねぇ。そーなったら俺かてめぇが、ファミリーを抜けなきゃならねぇ」
子供の頃からマフィアの世界にどっぷり漬かって生きてきた獄寺は組織の厳しさと掟の神聖さを信じている。
「俺は十代目の右腕だから抜けねぇ。てめぇが消えることになるが、俺ほどじゃなくても役に立たないでもないテメェが居なくなったら、十代目が困られるだろーが」
「黙ってりゃ分かんないんじゃね?」
締め上げられる山本『選手』がにこにこ笑っているのはお気に入りの顔が近いから。整いすぎてヤワくさえ見られることのある綺麗な顔。
「セックスしましたー、とか、言ってまわんなきゃバレねぇって」
テレビのスポーツ番組に出演したとき局のスタイリストから貰った国産・ミユキのスーツを大事に着て居るのは獄寺に初めて似合うと褒められたものから。獄寺は局のスタイリストのセンスを褒めただけだと主張したが山本の下った目尻はもとに戻らなかった。中学時代そのままの性格は明るくおおらかで優しくて、やや大雑把だが無神経ではなく、ファコリー内での人望はボスである沢村綱吉に次ぐ。ただ一つだけ欠点があるとすれば、それは。
「お前を好きだ、獄寺。いい加減、俺と仲良くしてくれ」
ファミリーの中枢幹部でありながらいまだにマフィアを理解していない。血の掟の怖さ恐ろしさを。もっとも。
「な。みんなには黙ってりゃいいし、ツナにはさ、俺が謝っからよ」
愛嬌満点に片目を閉じてみせる手足の長いこの好男子が、何かをおそれたことは今まで一度もなかった。どんな強敵であっても。
「イヤだ」
「いつまでも俺を苦しめるな、獄寺」
「俺が掟を破ったことを誰が知らなくっても俺自身は知ってる。許せねぇから、イヤだ」
「お前のその生真面目なところ、好きだけどな」
口ではそう言いながら長身の好青年は苦しそうにため息。
「お前を好きなんだ、獄寺」
「知ってる」
「愛し合いたい」
「ダメだ」
「じゃあ、キス」
「挨拶だかんな?」
「分かってる」
扉の取っ手に手を掛けたまま、少しだけ待った。そして。
「おー、おはよう、ヒバリ」
「あれ、居たのオマエ」
扉を押して中へ。有り得ない近さで立っていたボスの腹心二人は、その距離を目撃されても慌てもせず入ってきた人物に挨拶。部屋はそう広くない。せいぜい三十畳。百人が着席できる大広間に比べれば小部屋だ。ただ天井が高く、ドーム型の屋根は強化ガラス製。眩しいほど明るい。
「ってーか、オマエなんかフラついてね?」
室内には大理石のテーブル。麻のテーブルクロスが掛けられた上には銀食器。そばに立つ二人の側近の傍らには保温器つきのワゴン。
「具合が悪いならソファで休んでたらどうだ。ツナが来るまで」
側近二人は立っている。ボスのお出ましを待っているからだ。ボスの朝食の給仕をすることは側近中の側近にしか許されない役目で組織の憧れの役目。
「あー……、そったら?」
以前は犬猿の仲。途中から仲間と言えなくもなくなって、今はもっと微妙。
かすかに頷いただけでろくな返事もせず、足音をたてないで部屋を横切った三人目は壁に寄せられたソファへ。大きなソファの肘掛を掴んで引き回し壁の方を向ける。そしてそこに、倒れこむように身体を預けて、動かない。
「……、えー、っと……」
獄寺が部屋を見回す。山本は無造作に上着を脱ぎ、ソファの背からばさっと広げて目を閉じたままの三人目に掛けた。られても、ピクリとも、三人目は動かない。
「……眠ってんのか?」
恐る恐る、近づいてきた獄寺がソファの背から壁側を覗き込んだ。それでも三人目は目覚めない。全身から力を抜いて無防備に目を閉じている。
「失神の方が近い」
「死んでんじゃねぇかよコレ」
この警戒心の強い三人目、雲雀恭弥という名前の男が他人に寝顔を見せるのは珍しい。ソファを壁に向けたのはらしかったが。
「連れて来られてたのねコイツ。どーりで十代目が起きてこねー訳だ」
「なぁ、獄寺」
「お前さぁ、上着、ヤバイと思うぜ。自分以外がコイツに構うの、十代目すっげー嫌うからな」
「怒られたらゴメンって謝るさ。俺はこんなに酷くはしないから」
「されてたまっかよ」
三人目の閉じた目蓋が青白い。綺麗な顔をしているのは昔からだが最近はそれに凄みが加わって迫力がある。
「あ、ボスだ」
「お、ツナ起きたのか」
中庭を通ってくるのが窓から見えて二人はワゴンのそばに戻る。いかにも寝起きの様子であくびを漏らしながら、自宅だから当然だが無造作に、
「おはよう〜」
若いボンゴレの十代目はダイニングへ入ってきた。気楽な部屋着姿。
「あれ、恭弥は?」
「あっちで寝てます。起しますか?」
「居るんならいい。ふぁーっ」
「ツナ。そんなあくびばっかしてっと、コーヒーで火傷するぞ」
「あー、山本、さんきゅ。今年は調子いいみたいじゃないか。試合、衛星で見てるぜ」
「おかげさんでな」
「上着、着とけ。俺はいいけど他の奴に見つかると面倒だ」
ボスの食卓は組織にとって神聖な場所だ。正装でなければ侍すことを許されない。
「ああ、すまん」
山本が謝りソファのヒバリに掛けていた上着を取り戻す。代わりに獄寺は窓にかかっていたレースのカーテンを無造作に引っ剥がした。
「おら」
「おう」
純白のレースを掛けられた美形は花嫁か死者に似て見えた。