序幕・とある昼下がり

 

 

 歌舞伎町に歌舞伎座があったことはない。建設予定に先行して町名が決まったけれど実際に建てられたのは娯楽劇場であってそこで歌舞伎が演じられることはなかった。歌舞伎座は銀座にあり、新宿の一角を占める歌舞伎町との縁はお役所が先走った結果の名称しかない。

が、歌舞伎町の娯楽劇場に歌舞伎役者が出演することはある。名跡でなく人気に相応の報酬を払うその劇場には今月、若手新進の花形人気役者が出演していた。

劇場の裏手、ふだんは人気のない関係者入り口には十代の終わりから人生の終わりかけまで幅広い年代のファンたちが差し入れや花束を手にして並んでいる。銀座の歌舞伎座は敷居が高すぎて近づけない女たちも娯楽場ならば気安くこられるとあってその数は増えていくばかり。

「旦那がアイツのファンとは知りやせんでした」

 行列の中に知人を見つけた真選組一番隊の隊長は巡回を中断、コンビニで買ってきたアイスを食べながら畳ほどもある主演役者のポスターを見上げた。

「ご存知なくってもファンだったんだよ。サイン貰うまで帰れねーんだ邪魔すんな」

 梅雨の晴れ間の暑い真昼、じりじりと照りつけるアスファルトの上で女たちに混ざった万事屋は不愉快そうに言った。本当は仕事でサインを貰いに来ている。けれどそんなことを口にした途端、周囲からの顰蹙をかいまくるだろう。ただでさえパンフレットも持たない背の高い男は集団の中では異質、浮きまくっているのに。

「あーそーですかぃ。オレもちょっと知ってンですが、テレビのドラマに出てから人気出ましたねぇ」

 そこまでは普通にテレビを見ていれば知っている一般知識。

「由緒正しい梨園の御曹司じゃなくってドサ廻りの劇団出身のくせにツラが良すぎるってんで、シティー派の先輩たちに虐められて苦労してるとか、田舎にいる頃うっすら聞いた覚えもありやす。我慢した甲斐があってよかったですねぇ」

 万事屋に棒アイスを勧めつつ沖田がそんなことを話した途端、周囲の雰囲気が変わった。仲間意識というか二人の存在がすうっと受け入れられたところをみると、沖田が言ったことは正しかったらしい。

「アイツがこのお江戸でこーんなポスターになるたぁ、昔は思いませんでした」

「あれ、もしかして沖田クン、こいつと同郷?」

「広い範囲では。でもオレってぇか、近藤さんの出稽古の道場とこいつの実家がすっげぇご近所で……、お」

 周囲の女たちが聞き耳をたてていた沖田の昔話はクラクションで中断された。スモークで完全防御されたベンツ。劇場の地下駐車場へ直接乗り入れつもり満々の、ファンサービスに熱心でない出演者の車に違いない。

「お預かりしやす」

 差し出された沖田の手へ万事屋は色紙とサインペンを手渡す。ひょい、っと身軽くポールを超えて沖田がベンツに近づくと内側からドアが開けられる。昔から知っていたとか同郷だとかの話は嘘ではなかったらしい。人気役者の方が気づいて車に招き入れるというのは相当のことだ。

「えーと……」

 ベンツは沖田を乗せたまま地下へ入っていく。背中に穴の開きそうな視線を感じながら、万事屋はぼりぼりと頭を掻いた。

 

 

 

「お待たせしやした」

 手ぶらで車に乗った沖田が大きめの紙袋を持って劇場の裏口へ出てきたのは二十分ほどしてから。

「なんか色々くれたんで、ついでに全部、名前書いてもらっときましたぜ」

 気安く渡された紙袋には劇場の名前と出し物の演目が印刷され、中には万事屋が用意していた色紙の他にもパンフレットやうちわ手ぬぐい、風呂敷などがかなりの数、無造作に詰め込まれている。

「あ、ありがと、嬉しいなっ!行こう、団子おごるよっ!」

 背後から今にも食いつかれそうな集団の重圧感を感じて、目的を果たした万事屋は一目散にその場から退散。

 

 

 

 

 

「いやもう、ホント助かったよ」

 万事屋に近い甘味屋で万事屋は宇治抹茶金時という豪勢なカキ氷を口に運びながら笑う。

「たかがサインもらうだけでやけに報酬がいいなー、とは思ったんだ。成功報酬だからマジ焦ってたんだー」

 一日の労働が空振りにならなかったことを男は素直に喜んでいる。沖田も勧められるまま、三色団子の二皿目を頼んだ。

「やっぱあれだね、持つべきものは顔が広い友人だねぇ」

 万事屋はそこまで、たいへん機嫌が良かったのだけれど。

「喜んでいただけて嬉しいンですが、俺の顔じゃありやせん」

「またまたぁ、人気役者に手招きされちゃったくせにぃ」

「あいつモトカレなんですよ」

「はぁ?マジ?いや別に珍しいことじゃないけど、沖田クンそっちイケたの?昔の話?」

「だから、俺のじゃなくってですね」

 最後の団子を食べ終わり手を拭って、沖田は上着の内ポケットから封筒を取り出す。

「ウチの二枚目のモトカレでさぁ」

 封筒に入っていたのは公演のチケット。一枚だけで、しかも裏にはサインペンで携帯番号とおぼしき数字が書き連ねてある。

「出稽古先の道場ってのが土方さんのねーちゃんの嫁ぎ先でして、ウチの門下じゃありやせんが殺陣の稽古に時々来てたンでさぁ。あの頃は女形だったと思いますが、道場主がちょいと贔屓してて、俺らとも付き合いがありました」

 切符を封筒におさめ、ポケットに戻しながら沖田は席を立つ。そのチケットを誰に渡してくれと頼まれたのか、分からないほど万事屋も愚かではない。

「あいつも大した色男ですがウチのも相当のタマですから。知ってる限りじゃ江戸に来てからは会ってない筈ですが、俺の顔見て思い出したんですかね。楽屋でずーっとヤツのことばっか聞かれました」

「……ふぅん」

「そんじゃあこれで。ご馳走様でした」

「どういたしまして。ところで沖田クン」

「へい」

「昔なじみの役者さんにさ、トシにイマカレが居るって事は、教えてあげた?」

 尋ねる万事屋は笑っている。

「いいえ」

 答える沖田もにこにこと笑っている。

「へぇ、教えてあげなかったんだ。なんで?」

「知りやせんでしたんで。そんな面白い話は」

「そっか、知らなかったんだ。……じゃあ仕方ないね」

 知っていてわざとだったらただでは済まさなかったと、言外に悟らせる口調で万事屋は呟く。

「トシの彼氏、嫉妬深くってやきもち焼きらしいよ」

「いけませんねぇ、そんなんじゃウチののイロは勤まりやせんぜ。すっげぇモテますからねぇ昔っから」

「んなこたぁ言われなくたって知ってるよ」

 にっこり、にこにこ。

 微笑みあって別れた。