エンドレス・ラプ 1
名前はエリシア・ヒューズ。身分はセントラル・カレッジの一年生。連絡先は。
「……?」
聞いていた調査官は眉を寄せる。とても本当のこととは思えなかったから。しかし美貌の女子大生は平然とした顔で繰り返す。連絡先は大総統府、後見人はロイ・マスタング大総統、と。
「本当のことを言いなさい」
「調べもしないでどうして嘘だって分かるの?」
深夜の路地で、女を巡っての乱闘。それは珍しいことではない。栗色の髪をなびかせた十八の美女は年若さからは信じられないほどしっとり落ち着いてかつ艶で、こんな女が路を歩いていれば男は、振り向くだけでなく背中を追う。声をかけ笑いかけ、少しでも近づこうと、足掻く。
「ロイを呼んで。それまで私、黙秘します」
彼女は容疑者ではない。しかし参考人で、乱闘していた男たちの殆どが病院に担ぎ込まれた現在、調書をとれるのは彼女しか居ない。取調室で調査官は戸惑い、ありのままを上司に報告した。上司が大総統府の受付に連絡をして、それから、ほどもない。
市井の治安を担当する警察署の前に、大総統府の紋章を外した公用車が音もなく止まって、中から細身の男が降りて来る。出迎えた署長に頷くなり、かつかつ、先に立って建物の何かに入って行く。
「こちらです」
案内の調査官を追い越しそうな勢いで、大総統は取調室のドアを開けた。がちゃり、という音に美女は冷たい視線をドアに向ける。しかしそこに立っているのが取調官ではなく、とるものもとりあえずの風情で、シャツにスラックスという身分にしては相当ラフな格好にコートを羽織っただけの、黒髪の大総統と知るなり。
「ロイ」
明るく微笑む。それまでの冷たい雰囲気が嘘のように、微笑み一つで、彼女は部屋中を、マーガレット・オレンジに染めた。
「来てくれたの、ロイ」
「あまり人を心配されるものじゃない。エリシア」
「心配してくれた?」
「息が止まるかと思ったよ」
「ごめんなさい」
強情にひき結ばれていた唇から謝罪の言葉が、すらりと零れ落ちる。
「夜中にごめんなさいね。眠っていなかった?」
「まだ起きていたよ。眠気も一気に醒めた。……連れて帰れるかな?」
調査官を振り向いて大総統が問う。調査官は敬礼したものの、ただいま調書作成中であります、と、職務に忠実な答えを申し述べる。
「身元は私が保証する。明日、必ず出頭させるから、今日は帰してくれないか。もう夜遅い」
「……は……」
取調官の逡巡を署長の目配せが救って、大相等の腕に絡みつくように両手を絡めながら、うら若い美女は署を出て行く。
高級車がエンジンのお供ひそめるようにして立ち去り、見送る警官が敬礼をおろして所内に
「なんだ、あれ……?」
「愛人、にしちゃ、若すぎる感じだったけど」
「隠し子とか?」
囁く連中の中に年配の、もと憲兵隊あがりの人間が居て。
「忘れ形見だ、旧友の」
そんなことを呟く。
「マース・ヒューズ准将のお嬢さんだ。よく似てる。育てなくても親身ったのは似るもんだな。准将が喋ってるのかと思った」
時が流れ、親友に『殉死』した愛妻家の切れ者を、既に知る者は少ない。
大総統の公用車の後部座席。つくりつけのミニバーから勝手にアイスティーを取り出し、牛革のシートに並んで大総統に身体をすりつけるようにしていた美女が声を発したのは、車がセントラル司令部を通り過ぎたから。
「何処に行くの?」
「君のうちだよ」
「いや。ロイの部屋に行く。泊めて」
「エリシア。ムチャを言うんじゃない」
「どこがムチャ?いいじゃない。パパのことはお部屋に入れていたんでしょ。あたしをパパの代わりにしてきたくせに、あたしだけ入れてくれないなんてひどいわ」
「……エリシア」
かつてこの国に君臨したキング・ブラッドレイの『戦死』後、軍の実権を巡って首脳部は混乱した。幾人かの将軍が短いサイクルで大総統代行として立ち台に上がっては失脚し、最終的にはまだ三十歳の焔の国家錬金術師がその地位を得た。それから十五年。アメストリスは相変わらずの軍事国家だが、内乱は劇的に減少し税負担も少しは軽くなった。
「あたしを独りぼっちの部屋に放り込むつもりなの、ロイ?一人のうちに戻りたくないから街でうろうろしてるのよ、分かって」
「エリシア」
「泊めて。それがだめなら、ロイがうちに泊まっていって」
「……客が、来ているんだ」
この国で一番えらい男は、たかが十八の小娘に向かって、血を吐くように辛そうに言葉を零す。
「ごめん」
「こんな時間のお客さま?そう」
明るく美しい美貌がみるみる、暗い失望に彩られて。
「そうね。……ロイ、大人の男の人ですものね。きっと、仕方がない、のね」
手にしていたアイスティーの缶さえ持ちきれないように肩を落として俯く。
「エリ、シア」
「パパ可哀相……」
美女は泣かなかった。でも泣きそうな顔をした。
「ロイにまで忘れられたら、パパ可哀相よ。ママはパパのこと棄てて再婚したわ。ロイも他の恋人をつくって、パパよりその人を好きになるの?」
「君を愛しているよ」
にどりよる美女の手もとらず、大総統閣下は告白した。
「君の寝室の前で」
「中に入ってよ」
「今夜一晩、警護してあげたいくらい愛している」
「ベッドの中で、だっこして守って」
「でも約束があるんだ。すまない」
「……そう……」
溜息をついて美女は黙り込む。車はセントラルきっての高級住宅地へ向かう。再婚した母親に反発して一緒に暮らすことを拒んだ娘は十二歳から学校の寮に入り、肺スクール卒業と同時に一人暮らししている。彼女の後見人がロイ・マスタングというのは本当の話で、その権力と財力でもって、彼女には管理人常駐の高級マンションと潤沢な生活費が与えられていた。
「いつも一人で淋しいの……」
「……グレイシアと仲直りしなさい」
「無理よ。わたしまだ、パパを愛してるから」
「エリシ……」
「明日、迎えを寄越して」
気を取り直した表情で栗色の髪の美女は顔を上げ権力者を直視。それは女が男に媚びる表情ではなかった。むしろ、逆の、男が女を懐柔しつつ脅迫する時の顔に似ていた。
「ごはん食べずに待っているわ」
「明日は忙しい。何時になるか分からない」
「何時になってもいいから」
「……八時を過ぎたら、食事はすませておきなさい」
「いや」
「必ず迎えをやる」
「絶対ね?」
「あぁ」
約束をとりつけて、美女はマンションの前で車を降りる。部屋に入ったら明りを点けて手を振りなさいと、車の中から大総統は言った。
「ロイ。あなた本当に綺麗ね」
「なにを言うんだ、エリシア」
「本当に綺麗。夜目のせいかしら、二十歳みたいに見えるわ、いま」
「なにを、きみは……」
権力者は苦笑する。もうその倍さえ、はるかに超えたのに。
「キスして」
「エリシア」
「パパが大好きだったその顔でキスしてよ。パパにしたみたいにして」
「君はヒューズじゃない」
「いまさらよ」
厳しく、美女は男の臆病を弾劾。
「わたしがヒューズの代わりだ、君のパパだよって、ロイは繰り返し言ったわね。でもあれは嘘だった。本当はロイ、わたしをパパの身代わりに愛してくれただけ。バパに死なれて淋しかったから。そうでしょ?」
「エリシ……」
「責めてるんじゃないの。ロイのそういう弱いところ好きよ。でも途中で放り出すのはやめて。最後まで、わたしをパパみたに愛して」
「エリシア……ッ」
一度は降りた車の中にしなやかな肢体がもう一度、滑り込んで来る。やわらかな肉体はシートの上に権力者を押し倒し、覆い被さって唇を重ねキスを奪う。少女のように、男は無抵抗だった。
「ロイ、ろい……」
容姿は、似ていない。髪の色も顔立ちも母親に似て、でもそう、声、というか、喋り方。間の取り方や、舌使い、が。
「わたしを棄てないで。大人になったからって嫌わないで。最後まで愛して。……逃げないで」
懇願とも脅迫ともつかない言葉を囁かれながら、何度もキスを繰り返されてようやく、解放された権力者がセントラル司令部奥、大総統府の、自室に帰りつくと。
「遅ぇよ」
輝く金髪の若い将軍が洗い髪のまま、バスローブ姿のままで待っていた。