エンドレス・ラブ 7

 

 

 

 翌日も、彼女は一分の隙もなく強気だった。
「名前はエリシア・ヒューズ。身分はセントラル・カレッジの一年生。身分は大総統閣下の隠し子。エリシアが来たって、ロイパパに伝えて」
 二時間どころではなく一晩中、朝まで泣き続けた目が真っ赤に腫れていても。
「用件?ランチを作ってきたから一緒に食べましょうって、伝えて」
 手にしているのは藤のバスケット。
 困惑の衛兵が上司を呼び、内線で連絡がとられ、たいして待つこともなく彼女に扉が開かれる。滅多な人間は足を踏み入れることも出来ない大総統府の最奥。質実剛健というか機能重視というか、コンクリート打ちっぱなしの飾り気のない壁に無意味に高い天井、壁に並ぶ同じようなドア、という、いかにも軍隊中枢部、な建物を抜けると中庭に出る。
 中庭は広い。そうして殆ど、遮蔽物がない。手入れのいい芝生が美しい緑を見せ、申し訳程度に花壇がつくらえられているが、本当は寛ぐことを目的とした『庭』ではない。侵入者を遮断するための空間。
 侵入者を撃退するために設けられた狙撃場。
 大総統府の各階にさりげなく設けられた銃眼の向うにはライフルを抱えた狙撃兵が立つ。
 すたすたとかなり早足で歩いても横断に三分かかる庭は、テロリストが陸上選手並の俊足であったとしても走りきるのに四十秒はかかる。それでいて全体がライフルの射程範囲内。ガチガチの警備体制を敷くよりさりげなく洗練されていて、それでいてあざといやり方は、『中庭』の向うに住む権力者の性質に相応しい。
「……やぁ」
 桜材の一枚板、大人が二人、余裕で寝そべることが出来そうに広い机は、
「ベッドみたい」
 そういう風に、見えないこともない。
「ちょっと固そうだけど、あたしは気にしないわ。一緒に寝ましょうよ、ロイ」
「まだそんなことを言っているのか。わたしの養女になると言っただろう?パパと呼びなさい」
「さっき言ったけどヘンなカンジ。違うパパみたい」
「出迎えなくて、すまなかったね」
「仕方ないわ。その格好じゃ立てないでしょ」
 手際よく栗色の髪を背中で結んで、強気な彼女はバスケットから昼食を取り出す。サンドイッチと、ワインとグレープフルーツ・ジュース。サンドイッチには粒マスタードを効かせたバターを塗ったパンと、そうでない普通のバターのがあった。具はサラミとチーズ、レタス、トマト、薄切りハムにタマゴ、鳥のソテーと、よくあるものだったが、売り物の商品と違って気前よく、たっぷり挟まれている。
 アルミの別容器に盛られたチェリーが女の子らしい感じで、権力者は顔をほころばせる
「君の手作りか。なんだか嬉しいな」
「ずうっとロイには、ゴハン食べさせて貰ってばかりだったから」
 殊勝な言葉を彼女は口にして、聞いた権力者がふっと表情を曇らせる。が、次の瞬間。
「はい」
 柄の繋がったチェリーの、片方を咥えて差し出される。はい、というのが『はい、どうぞ』の略なら、キスに近い形でもう片方を食べろ、という意味。
「……」 この国で一番偉い筈の男は当惑し、動揺して視線を揺らしたが逃げ場はない。立ち上がる事さえ出来ないのだ。膝で金色の猫が眠っている。
 昨夜から一秒も離れようとしない猫が、夜通し泣いて、疲れて眠っている。靴が埋まりそうな絨毯に直に座り込んで、執務机に着席した権力者の脚にもたれ、膝に頭を預けて。
 いまにも泣き出しそうな悲しい顔のままで。
「……」
 その目元にそっと掌を当て、目隠ししながら、権力者は口を開けた。チェリー一個分の距離をあけた、ママゴトのようなキスに似た行為。
「優しいのね、ロイ」
 それでも栗色の髪の彼女はひどく嬉しそう。
「君がランチを作ってきてくれたからね」
「えどおにーちゃん、起こす?」
「いや、眠らせておこう。昨夜、眠っていないらしい」
「ロイは眠ったの?えどおにーちゃんと私だけ泣かせて?ひどい人」
「薬を飲んでいるからね。鎮痛成分の副作用で、とても眠くなるんだ」
「……そう……」
 茶色の瞳が伏せられて、でももう、涙はこぼさなかった。
「えどおにーちゃんも昨日聞いたの?」
「教える前に自分で探り出したよ」
「美味しい?」
「とても。料理が上手だね、エリシア」
「サンドイッチを褒めないで。挟んだだけよ」
「とても美味しく作ってある。愛情を感じるくらい」
 それは本当のことだ。いかにも台所にあったものを詰めました、というかんじに、ライ麦入りのパンに挟まれた材料の組み合わせはバラバラだが、それでも。
「とても美味しいよ」
 嘘ではないらしい。ぱくぱく、黒紙の権力者は片手で持ったサンドイッチを食べていく。粒マスタード・バターを塗ったパンにハムを敷きレタスを置いて、缶詰のポテトサラダを盛り付けたひとつが、とびきりの味だった。
「あっちで会ったら、ちゃんと伝えておく。君がキチンとした綺麗な娘さんになったって」
「……パパに会ったら、ロイはどうするの?」
 軽い気持ちで言ったことだったのに、意外なほど真剣に尋ねられ権力者は戸惑う。死後の世界や再会を信じている訳ではなくて、本当に、言ってみただけだったのに。
「ママは今の旦那さんのお墓に入るから、パパは向うで、今、独りぼっちよ。かわいそう」
「……そんなあいつは、想像出来ないな」
「ロイにももう、えどおにーちゃんが居るわね。ロイはどうするの?」
「分からないよ。まだそれどころじゃない」
 想像力が、そんなところには届かない。
「この子を残していくのが心配で、心残りでね」
「わたしは?」
「君は大丈夫だよ」
「どうして」
「女の子だから」
「理由になっていないわ」
「世界で一番弱い女性でも、世界で一番強い男よりさらに強いんだよ」
「ロイはどっちなの」
「……強い方かもしれないね」
「なら私のことも心配して」
「君は未成年だから、正式な手続きには君の母上の同意が必要になる」
「養子縁組のこと?」
「公人としての私の全てはエドワードに譲る。私人としての財産は全部きみのものだ、エリシア」
「どうせなら奥さんにして。その方が相続上有利でしょ?」
「エドワードのことを頼むよ。泣いていたら慰めてやってくれ」
「好きな人に死なれた後で別の誰かに何を言われたって、なんの慰めにもならないわ」
 幼すぎる歳で別離の味を知った娘は確信を持って告げるが。
「そばに居てくれるだけでいいよ」
 親しい者の死を見てきた、数は遼に権力者の方が多くて。
「本当はそれだけで、物凄く慰められているんだ」
「パパに死なれた後のロイみたいに?」
「そう。君が居てくれたから、細くても息が出来た」
「ウソツキ。別に恋人『たち』が居たんでしょ」
「居たこともある。短い期間だったけどね」
 本当に短かった。一瞬に思えるほど。夢だったような気がする。でも優しく抱き合った暖かさを、ちゃんと覚えている。
 サンドイッチの量は多くて、最初から三人分だった。残ったそれはナプキンを掛けられて。
「えどおにーちゃんが起きたら食べさせてあげて」
「ありがとう。またおいで」
「……もう帰れってことね」
「またおいで。明日でもいい」
「本当に来るわよ」
「待っているよ」
 衛兵に送られて美しい娘が退室して、やっと。
「サンドイッチがあるよ、エドワード。……美味しいよ」
 膝に懐いて『眠っていた』猫の目元から、黒紙の権力者は片手を外した。「きみ、昨日から何も食べていないだろう。おあがり」

「……」

 返事はない。昨日から殆ど、口もきかないで泣くだけ。今も権力者の片手は暖かく湿っている。

「心配だから食事をしなさい。口移しでもいいから」

「……れて、けよ……」

「だから、それは」

 居なくなるなら俺も連れて行けと、何度も繰り返される懇願。

「どうせ君だって死ぬよ。百年後には誰も生きて居ないんだから」

「そんなはなし、してるんじゃない……」

「とにかく食べなさい。声が聞こえにくい」

 語尾が聞き取り憎いほど本当に力がない。

「……、らない……」

 そのくせ泣いているのだから、権力者の心配も深刻。

「身体がもたないよ。私よりさきに行く気かね」

「先に、いって、話、つけとくさ……。俺より前の、あんたのワケアリたちに……」

「エドワード」

 またじんわりと泣き出した相手に、権力者は困り果てる。

「君がこんなに嘆くとは思わなかったな」

「スキナンダ」

 その膝をまた暖かく濡らして、国家錬金術師の威厳も将軍としての見栄もなくした、ただの男が泣く。

「おれあんたのことすごくスキなんだ」

 昨日からの涙が別離への恐怖なら。

「嬉しいよ」

 愛情は疑いようもなく証明されて。

「わたしも、だよ」

 覆い被さるように、揺れる肩を抱いた。

「君を待っていると誓う。だから、頼むから」

「……つれてって」

「おかしなことは考えないでくれ」

 輝く金の、この将軍には前科がある。

 死者を蘇らせる、人体錬成の禁忌。

「君を信じてる。だから呼び戻して知らせた。君はわたしの信頼を裏切らないね?」

「あんた、じぶん、かって……」

「まぁ、そうだ」

 確かにと、権力者は苦笑。

「本当は会いたかったから呼んだだけなのだがね」

 生身の左手を伸ばして、将軍は恋人の掌を捜して、指を絡めた。自分の涙で湿った指先を、もう離さないように、きつく。