第四章・幸い

 

 

 長い付き合いで、何もかも知って知られてた。だからわざと、嫌われることをやっても。

「……おい」

 わざとだとバレて効果はなかった。

「どうした。何か苦しいことがあったのか」

 白々しく問われる。そんなの決まっているだろう。何もかも苦しい。お前と会う夜は、息をすることさえ。

「気持ちが悪いか?吐いてすっきりするか?」

 尋ねられる。背中から抱くように支えられて洗面所へ。優しい仕草で背中を撫でられる。優しさに泣きたくなった途端、絶妙の力で脇を押さえられて。

「……、ぐ……」

 醜態を、晒す。

「息吸え。大丈夫だ。すぐ楽になる」

 えずく身体を宥めるように撫でられる。口元を冷たい水で清められて。

「胃液で荒れるぞ。口を漱いどけ」

そんな優しい言葉までかけられる。グラスに水を注いでくれて口元まで持って来られる。優しい。この優しさが曲者だと、知っているのに、縋りつきたくなる。

「もう大丈夫だな?座るか?」

 頷く力もなく床に崩れる。洗面台に手をかけて俯きながら、泣いた。

「ほら、ロイ。横になれ」

 セントラルでも指折りのホテル。の、洗面所の床はバスルームから独立して広く、脚を伸ばして横になれた。シャツの襟とベルトを緩められ楽な格好になる。奥の寝室から枕を持って来てくれた男は、続いて毛布とタオルケットを運び、とどめには、添い寝するように自分も。

「何処が痛い」

 人工大理石の冷たい床に、横たわってくれる。

「何が苦しい。俺はどうしたらいい?」

 髪を撫でられて優しくされて涙がまた滲む。大きな羽根の枕に顔を押し付けて嗚咽の声だけは防いだ。

「泣くな。次期    大総統有力候補の一角が台無しだ」

 そんなもの、今は関係ない。

「ちゃんと用意したぜ、約束のモノ。お前の役に立てるのが嬉しいよ、俺は」

……ヒューズ。

「きれ、たい……」

 嗚咽が混ざらないように声が震えないように、振り絞って告げた言葉は。

「素面で言えたらな」

 あっさり切り落されて拒まれてしまう。

「酔いは、醒めてる」

「気分は残ってるだろう。泣きながら言われても本心とは思えねぇな」

「本気だ。もうお前とは、別れたい」

「ホントにお前が俺を嫌いになれたら切れてやるさ」

 傲慢な言い方だった。でもそれも、無理はなかった。別れたいと口先で言いつつ、抱き寄せられた腕にしがみついてしまう醜態の前では。

「何を苦しんでる。また俺の女房と娘のことか?」

 ……そう。

「女のアレみたいだな。周期で苦しくなるモンか?」

 困ったみたいに少し呆れながら、それでも、俺の苦悶は軽い口調で笑われてしまう。このまま一晩かけて優しくされて懐柔されて、きっとまた朝になれば何もかも笑い事にされる。

 いつもの、ように。

「慣れろ。お前だって、そのうち結婚するさ」

 いつもこいつはそう繰り返す。東方へ左遷中の俺に、閨閥を背景にした縁談は休止したが、やがて華々しく中央へ凱旋の暁には花嫁候補がダースで用意されるだろう、と。

「どうなったって俺たちは別れられないんだ。慣れろ」

 無理、だ。そんなこと。

 最初からなら平気だったかもしれない。でも昔は俺がお前の一番目だった。士官学校時代、俺もお前も若い男だったから素行はそれなりで、色々あったけど、でも。

 お前は俺を、最優先してた。

「今だってちゃんと愛してる。証拠に怒ってないだろうが。二ヶ月ぷりの逢瀬にお前が、ぺろぺろで来ても」

 こいつは酔っ払いを嫌いだ。狭量と思われることを警戒して顔には出さないけど、酒に飲まれる人間の自制心のなさと弛みを心から軽蔑してる。知っていたから足元も定まらないくらい酔って、心配する部下にドアの前まで支えさせて指定された部屋に来た、のに。

「誰か待たせてるなら連絡を入れてやれ。朝までこっちに泊まる、って」

 聡い男が言う。必要ないと、俺はかぶりを振る。待っていろと言ったら拒まれた。どうせあんた、泊まりになるんでしょう?と、言って金髪の部下は別の部屋をとった。こんなに上層階じゃない下の、それでもツインルームをとらせて待機させた。

 愛煙家の部下にも見抜かれるほど、俺の決意は穴だらけだったらしい。でも本気だった。何度も繰り返す別れ話は、そのたびに真剣で、そしてそのたびに苦しい。

 まだ愛してる。こんなに愛してる。

 けど、もう、お前とワケアリで居るのは、苦しい。

「だから素面で、泣かないで言えよ、それを。俺を嫌えたら別れてやるぜ。愛してるからな」

 最期の一言が余計なんだよ、お前。

 俺の目の前で妻と娘を、抱き締めておいて。

「やっぱりソレか。いい加減、慣れろよ必要なカバーだろうが。結婚してる相手と娘に、年中あんな真似してるわけじゃない。お前が居たからだ」

 俺とこの男との『関係』は周知の事実で、もちろん、こいつの妻もよく知っている。昼間にこのホテルで行われたパーティー、南方戦線の祝勝会で軍関係者を前に、ヒューズ家の若夫婦と娘は括り付けられたように手を繋ぎあって抱き合って、会場を泳いでいた。

「舅と姑にはなぁ、気を使うんだぜ、本当に」

 その岳父、つまりこいつの妻の父親が今夜のパーティーの主役、南司令部の司令官で、ご令嬢は母上ともどもパーティーの順主役で、組んだ腕と抱かせた娘を見せ付けるように、艶やかに微笑みながら俺の前を何度も、何回も横切った。

 胴を絞ったドレスに包まれた肢体は、とても子供を産んだようには見えない華奢な曲線を誇って、でも、彼女のそんな高慢は、俺には許容範囲だった。

妻のドレスの、その裾が揺れて絡まるたびに、屈んででなおしてやっていたお前が嫌なんだ、ヒューズ。

「仕方ないだろう。本当はつわりで苦しくて屈めないんだから。行くなって俺は言ったのに無理してあんな服着てヒール穿いて、物騒で一人歩きさせられなかったんだよ。……お前が来てたからだ」

 あの美女に俺は、ビンビンに意識されている。それはいいんだ。どうでも、いい事だ。

 お前が彼女に、優しく笑ってたのが我慢できない。

「夜、抜ける代わりの約束だったからな。グレイシアも悪い女じゃない。俺を好きなところは可愛い。育ちが良すぎて時々、手に余りそうになるけどな。そういう意味じゃお前とよく似てる。俺はそういうオンナが好きらしい」

 しらっとした顔でそんなことを言う相手を、俺は心の底から憎んだ。

「動けるなら奥に抱いていくが、どうだ?」

 憎いのに優しくされると、憎んでるのとは別の場所がぐすぐぐずに崩されていく。

「うご、ける」

「無理すんなよ。つかまれ」

「……、ズ……」

「ん?」

「……、ご、め……」

「いいさ」

 支えてくれる男は優しかった。本当に優しかった。学生時代から、まだ十代の若い頃から、二人だけの時は別人みたいに優しくて柔らかい。『外』では普通に『友人』らしく、減らず口をたたいたり軽い喧嘩をしたりもするけど、二人だけで恋人の時間だけは。

「苦しめてるのは分かってる。だが俺からは手放せない。お前を愛してる」

 甘い言葉を紡いでいく嘘つきな唇。でも、騙されてもいいと思うほど、抱き締めてくれる腕は優しかった。

「水、飲むか。茶の方がいいか?」

「コーヒー……」

「やめとけ。胃に悪い」

「じゃ、水」

「ほら」

「……うん」

 部屋の片隅の、ミニバーの冷蔵庫から取り出してくれたミネラル・ウォーターを飲む。ベッドの上で行儀悪く、ゆっくり喉を潤すうちに少し恥かしくなった。まるで不倫中の、不安定な女の子みたいな真似をしてる自分が。

 これが不倫だとすると、俺は逆に糾弾される立場だ。ヒューズより地位は俺の方が高い。だから関係を強要されたとは言えない。グレイシアは俺より若くて正式な妻。尊重されるべき立場。

「まだ寝るな。明日つらいぞ。少し喋ってからにしろ」

 身体が飲み込みきれなかった酒精は吐き出したが、それ以前にとりこんだアルコールが意識の弛緩とあわさって、ゆっくりと血管を廻りだす。くたり、シーツに崩れた俺をヒューズがまた、優しく撫でてくれた。

「……ズ」

「ん?」

「する、か……?」

 してもいい、というつもりのコトバだったけど。

「こんなに飲んでちゃ勃    たないだろ」

 あっさり、ヒューズは俺の強がりを見抜いた。

「まぁ、いいさ。待ちながら思ってた。なんでお前がこんなに来ないのか考えながら。グレイシアが妊娠中だからお前を欲しがったって、お前に思われるのも不本意な話だ」

 そんな、ことは思ってない。

「今度いつ会えるかって思うと切なくなるけどな。触れただけで、いいと思っとく」

 そうっと大事そうに髪に触れられて、ものすごい希少なチャンスを逃した気持ちに、なった。

「今度……」

「あぁ」

 とても。