不治の病
とにかく来てくれたいへんなんだ、というメンバーからの電話を受けたとき、京一は
正に取り込み中であった。
だが、チームリーダーとして事故の報告を捨てておくわけにもいかなかった。要領を
得ない相手にいらつきながらもなんとか状況を把握すると、どうやら新入りが、走りに
来た他所者の車に当ててしまったらしい。
「そのくれぇてめぇ達で何とかならねぇのか」
『それができたら、電話なんてかけねぇよぉ』
今夜は清次も来てねぇし…と、電話の向こうからは泣き言が続く。
『ぶつけた相手が悪すぎる。京一でないと、どうにも…』
「筋モンにでもやっちまったのか?」
『いや、そうじゃなくて』
出された名前に、京一は一瞬目を見開き―――すぐに重い声で答えた。
「分かった。今から行く。そいつには、オレが話をつけるから待ってろと言っておけ」
すまねぇ京一、と明らかに向こうの声は安堵に変わった。
「と、いうわけだ」
京一は電話を切り、ベッドの方に向き返った。
「すまねぇが」
「いいわよ。私、帰るから」
そこにいたのは女。今時かえってめずらしい漆黒の髪を豊かに背に垂らした、かな
り上物の部類に入る女だった。
「電話に出ろって言ったの、私だし」
女はそう言うと、バスタオルを白い肌に巻きつけ、ベッドの下に落ちている衣類を
拾い始めた。
先ほどまでの濃厚な愛撫でさんざん昂ぶらせたはずの肌は、すでに落ち着きを取り
戻しかけている。その、淫らなようで貞淑な肢体と、我侭なくせに妙に聡明なところ
が気に入っている女だ。行為を中断させようとする無粋な電話を京一が無視しようと
したときも、今夜は雨だから、事故でも起きたのかもしれないし、と言ったのは彼女
だった。
「すまん」
「それより、事故ったりしないでよ」
女が意味深な目線を京一の下肢に滑らす。言わんとすることを察し、京一はにやり
と笑った。
「さかりのついたガキじゃねぇからな。5年前なら、抜かなきゃいられなかったろう
が」
「そういうのって、どうなるの?」
「さあな。タンパク質だから、身体に回って栄養にでもなんじゃねぇのか」
ふうん、と女はつぶやき、衣類を抱えてバスルームに消えた。京一の前では、服を
着替えたりしない女だ。ずいぶん寝たはずなのに、そういう小さな恥じらいを捨てな
いところも好みのひとつだった。
その女とのベッドインを中止してまで行かねばならない相手なのか―――?
京一は自問し、苦い自嘲の笑みを唇の端に浮かべた。答えは決まっている。
京一は顔を洗った。万が一にも、性欲の欠片でも残しておくわけにはいかなかった。
「鍵、持ってってもいいぞ」
女への詫びのつもりでバスルームに声を掛けると、
「なに柄にもないこと言ってんのよ。いつものとこ、入れておくから」
聡い女は笑って答えた。
「京一!」
明智平のレストハウスに派手なミスファイの音とともに到着したリーダーのもとに、
エンペラーの男達が数人走り寄ってきた。
「すまねぇ、京一、本当に」
電話の主である、エンペラーではナンバー4あたりとなる短髪の男が、運転席側ま
で傘で出迎えた。
「客はどこだ」
「まだ車の中に」
京一は駐車場を見渡した。アスファルトが水しぶきに煙るその最奥、ひっそりと、
と言うにはあまりにも有名になりすぎたそれは、オーナーによく似た優美な白いボデ
ィを雨に叩かせながら、主人を体内に含んだまま静かに佇んでいた。
「一歩も外に出ねぇんだ。オレたちのこと警戒してんだろうけど。京一を出せって、
そればっかり」
「事故った新入りってのは」
数人の男の中、見るからに若い茶髪が小さく手を上げた。
「中学校かよ、ここは」
京一はうんざりしてため息をついた。
「相手が誰だか知らなかったわけじゃねぇだろ、新入り」
「はい……」
「とにかく、いっしょに来い。状況を知りたい」
おどおどしている新入りを従え、京一は駐車場奥へと―――白のFCへと歩み寄っ
た。
ドアを叩く必要はなかった。眠っているかに見えたドライバーは、京一が手を上げ
たその瞬間を狙ったかのように窓を下げた。現れた夜目にも鮮やかな美貌に、心の準
備はできていたはずなのに思わず鼓動が撥ねる。
「子どものお守りをしに来たわけじゃない」
京一が口を開こうとした矢先、予想に反して、第一声はFCの中から上がった。
「そこのボーヤはかなり頭に血が上っていたようだが」
「だろうな」
赤城の白い彗星にちょっかい出そうというのだ。若さゆえの暴走というにも限度が
ある。
「明らかに自殺行為のオーバースピードで突っ込んできた。オレが当てさせなきゃ、
今ごろ病院送りか、下手すりゃ葬式準備だ」
「そうか」
おかしいとは思ったのだ。いくらこんな雨の夜だろうと、この高橋涼介が、彼から
見れば箸にも棒にも引っかからないようなガキに、自分の手足のように操るFCに傷
をつけさせるようなヘマをするだろうかと。
当てさせた、と言った。計算ずくの、互いの被害を最小限に食い止められるように
しての仕組んだ事故だったのだろう。それでも、己の愛車を犠牲にすることに他なら
ない。まるでエボVが傷つけられたかのように、京一は唸った。
「悪かった」
頭が、素直に下がった。
「ガキの教育がなってねぇで。あやうく死人を出すところだった。感謝する」
その後ろで、ようやく自分のしでかしたことの恐ろしさを知った若造が、すみませ
んでした!と腰を折った。
「悪いが、今夜は日光に泊まるか、さもなければオレが家まで送っていく。それで修
理代だが…」
「お前のところに泊めてくれ」
京一の言葉を、涼介はさえぎるように言った。
「今夜の宿代。それでチャラにしてやる」
「そういうわけにはいかねぇだろ…」
うちは一泊十何万のホテルじゃねぇ、と困惑する京一の目の前で、ドアが開いた。
FCから降り立つ涼介―――その姿に、京一は眉を顰めた。
(なんで履いてねぇんだ?)
靴。世の中には土足厳禁を徹底している車もあるが、涼介がそうである可能性はま
ずありえず、仮にそうであっても、外に出るのに裸足のままというのは異様だ。
京一は視線を上にずらし、その風体の異常さにさらに気づいた。涼介が着ていた
のはごくシンプルな濃い色のシャツだったが、ボタンが下の2つしか留まっていない。
留められないのだ、なぜなら、ボタンがそれしかないのだから。
雨の中、前を掻き合わせるようにして、裸足で立っている細い肢体にしばらく目を
奪われていた京一だったが、はっとなって傘を差し出した。
「分かったから、ちょっとそこで待っていろ」
お前も今日のところは帰れと、後ろにいた新入りを追い立て、京一はメンバーのと
ころに戻った。とにかく、あんな涼介の姿を人に見せるわけにはいかないと思った。
「どうだった、京一」
「ああ、話はつけた。あいつはこの馬鹿の命の恩人だ」
「へ…?」
「くわしくは後だ。今夜は解散しろ。明日にでも説明してやる」
それから最後に、きつい一瞥を新入りに向ける。
「二度目はないと思え」
「はい……」
新入りはこれ以上ないというくらい、小さくなった。
「狭くて悪いが」
自分のアパートに涼介を招きいれた京一は、玄関に立ったまま動こうとしない涼介
を促した。
「どうした、上がれよ」
「………」
涼介は目を伏せた。その視線の先に、京一は気づいた。
(そうか)
涼介は裸足だったのだ。濡れて汚れた足で上がることを躊躇しているのだろう。
「ちょっと待ってろ。タオル持ってくる」
寝室のタンスを探りに行くと、ベッドはきちんと整えられていた。つい1時間も前
には、ここで女と行為の最中だったことを思い返し、京一は軽い動揺を覚えた。
(あいつがいなくて、涼介が泊まる)
考えてもみなかった場面だ。予想外の展開に、どう対応したらよいのか、今更京一
は考え込んだ。
(涼介のあの様子―――)
尋常な格好ではなかった。理由を聞くべきか。聞いたところで、涼介が喋るだろう
か。
(レイプされかけたみてぇじゃねぇか)
千切れたボタン。雨の中、靴も履かずに飛び出した理由。
されかけた、ならまだいい。された、のだとしたら?
涼介には敵が多い。その中にはあの綺麗な取り澄ました顔を踏みにじりたいと思う
奴がいるかもしれないし、単純に、整いすぎた容貌に欲望を抱く男がいても不思議で
はない。
かろうじて纏っているだけといったシャツを剥いだら、そこには陵辱の痕が残って
いるのだろうか。
京一は頭を振った。考えただけで、体中の血が渦巻きそうだった。
足拭き用のタオルとバスタオルを用意して、京一は玄関に戻った。すると涼介はひ
どくぼんやりとした表情で、視線を遠くに飛ばしていた。
(やめろ―――)
そんな顔をするのは―――と、京一は心の中で唸った。それは京一の知っている高
橋涼介ではない。いつもひどく冷静で、傲慢で、綺麗な顔から吐かれる言葉は猛毒を
含んで。そんな“公道のカリスマ”と、目の前にいる男の落差に京一は激しく心を揺
すられ、それを隠すために必要以上にそっけなくタオルを渡した。
「風呂、入るだろ」
無言で足を拭っている涼介に、京一は言った。
「着替えはオレのでいいな?サイズはこの際目を瞑ってもらうしかねぇが」
「……面倒をかけるな」
「このくらい、面倒にもなんねぇよ」
涼介が口をきいたので、京一はほっとした。人形のような顔で黙っていられたので
は、あまりにも落ち着かなかった。
独身の男の一人暮らしの割には、京一の部屋は片付いている。散らかっていると、
必要なものが探せず合理的ではないからだ。だから不意の客に、ましてや男の来訪者
に戸惑うことなど今までなかったのだが。
涼介のための寝具をどこに敷くか、たったそれだけのことに京一は神経を悩ませた。
ベッドの横にスペースはあったが、涼介の寝息に擽られて眠るなどまっぴらだった。
それこそ身体に毒だ。かといって、2DKのキッチンに寝かせるわけにもいかない。
仕方がなく、居間にしている部屋のテーブルを片付け、そこに布団を敷いた。そう
してしまうと後は手持ち無沙汰で、京一は冷蔵庫からビールを出すと、面白くもない
TVをつけて時間つぶしをするしかなかった。
それから30分。
(長ぇな)
京一は時計を見た。涼介がバスルームに消えてからを考えれば、すでに40分は経
過している。
「おい、涼介」
心配になってバスルームまで行ってみると、扉の向こうから小さな水音が聞こえた。
ほっとして、京一は声を掛けた。
「悪ぃが、オレは先に寝るぞ。布団、出しといたから使ってくれ」
返事はない。
「涼介」
京一は扉を叩いた。
「聞いてんのか?」
それでも返らぬ言葉に、京一は眉を顰めた。
「涼介?」
長すぎる入浴。沈黙。
「おい、開けるぞ。いいな?」
最後に念を押して、京一はユニットバスの扉を開いた。密室には水蒸気が立ち込
めているかと思ったが、クリアな視界に湯船の中で手足を丸めて頭から少量のシャ
ワーを浴びている涼介の姿が映った。
「おい、返事くらい―――」
しろ、と言いかけて、京一は異常な雰囲気を察して押し黙った。
俯いた涼介の顔は見えない。だがこの肌の異様な白さは何だ。白いを通り越して、
すでに蒼い。それにこのバスルームの冷たい空気は?
京一はまさかと思い、シャワーに手を伸ばして愕然とした。
「涼介―――この馬鹿!」
涼介の肌を打ちつづける水の栓を閉め、京一は湯船の中に腕を伸ばした。触れた
肌の冷たさは、まるで死人だ。ぐらりと涼介の身体が、湯船の底に沈む。
京一は涼介を抱き上げようとしたが、体勢的に力が入らず、舌打ちとともに服の
まま湯船に入り込んだ。栓が抜いてあったために水はたまってはいなかったが、ど
れだけの時間を水にさらしていたのか、抱えた涼介の身体には熱がかけらもなく、
京一はそのままお湯に替えたシャワーを全開にした。
「ん………」
無意識であろう、すがりついてくる全裸の肢体に下肢を直撃され、京一は涼介を
抱えたまま、お湯を顔面に浴びた。叩きつける水圧に意識を覚醒させないと、その
まま酷いことをしてしまいそうだった。
「寒い………」
「当たり前だ、寒いにきまってんだろが…!」
ぎゅっと抱きついてくる涼介の耳元で、京一は唸った。
「まったく何考えてやがんだ。おかげでこっちまでこのザマだ」
濡れて貼りつく服が気持ち悪い。だがそれ以上に、無防備な涼介が腕の中にいる
ということの方が精神衛生上悪く、京一はわざと冷たく涼介を突き放そうとした。
「もうしばらくお湯につかってろ。わかったな」
そう言って、京一は立ち上がろうとした。だが涼介が離れようとしない。
「いつまで貼りついてんだ。ガキじゃねえんだぞ」
「………」
「涼介」
京一が苛立ちを装って声を荒げたとき。
「寒い…」
涼介の手が、すっと京一の首筋に回された。
「寒い…京一……」
肩に擦り付けられる額。濡れた髪から落ちる雫。
「よせ」
凶暴に京一は言った。何を考えているんだこいつはと、激しい怒りが湧いてきた。
「女みたいなマネすんな。からかうなら他の奴にしてくれ」
「他の奴じゃだめだ」
即答されて、京一は言葉に詰まる。
「お前じゃなきゃ、だめだ」
「………」
「京一……」
耳を擽る息。だがその冷たさに、京一の理性が勝った。
「ふざけるな!」
力任せに涼介を振りほどき、京一は湯船から乱暴に上がった。
「てめえの気まぐれに付き合うヒマはねぇんだ。いったい何考えてんだか知らねぇ
が、男が欲しいんなら他所を当たれ。お前のこと抱きたがるやつなんか、いくらで
も探せるだろうよ」
それこそ峠にでも立って、誘ってやればいい。
憤慨したまま背を向けた京一に、涼介の声が届く。
「FCの修理代」
唐突な言葉に京一が振り返ると、涼介は蒼白な面で、真っ直ぐに京一を見つめた。
「確かに、一泊の宿代でチャラにするには、割が合わないと思わないか?」
「―――だから?」
「その金で、お前を買う」
蒼ざめた唇のまま、涼介は言った。
「オレを抱けよ京一。楽しませてみろ」
「………ハッ」
京一は笑った。
「そういうことか」
その目に宿る、凶暴な光。
「だったら抱いてやるよ、お望みどおり」
京一は湯船の中から涼介を引きずり上げ、バスルームの壁に押し付けた。
「…ン……ッ」
髪を掴んで上げさせた唇に噛み付くようなキス。無理矢理口をこじ開け、逃げよ
うとした舌を蹂躙する。
自分の中で、いく度押し殺したかわからぬ涼介への滾る衝
動をこうして開放しているというのに、だが京一は心が冷えていくのを感じていた。
冷え切った涼介の唇と肌が、それを助長する。
京一が唇を離すと、涼介は咳き込んで下を向いた。その手を掴み、自分の下肢へ
と押し付ける。
「分かるか?」
「………」
涼介はわずかに目を伏せた。分からないはずがない。京一のそこは勢いを失い、
中途半端な昂ぶりを見せていた。
「奉仕してみろ」
低い声で、京一は言った。
「オレが欲しいんだろ?だったらオレを勃たせてみろ。今のまんまじゃ、役には立
たねぇぞ」
「………どうすればいい?」
「自分で考えろ。そのための頭だろ」
「………」
涼介は目を伏せ―――京一の前に手を伸ばした。濡れて貼り付いたシャツのボタ
ンをひとつずつ外していく。京一はそれを静かに見下ろしていた。長い睫の先が濡
れている。表情の読めない、白い、透き通るような顔。
涼介の指が京一のチノパンにかかった。ジッパーを引きおろす。そこから細い指
が差し込まれる。
自分を柔らかく揉みしだく指の持ち主が涼介であることを、京一は信じたくはな
かった。だが表情の無い白い美貌はまぎれもなく、公道キングとして人々を圧倒す
る、京一が反発しながらも心を囚われてやまない男のものだった。
「口でしろ」
残酷な衝動にかられて、京一は言った。
「口の方が早ぇぞ。そんなやる気のねぇ指つかいじゃ、いつまでたったって勃ちゃ
しねえ」
女にさえ強制したことがない行為を、涼介がするとは思わなかった。だが僅かな
ためらいのあと、涼介は京一の前に膝をついた。
濡れた口内に呑み込まれる。這わされる舌。
「やめろ……!」
獰猛に京一は言って、涼介の頭を引き剥がした。
「男が欲しけりゃなんでもすんのか。プライドってものがねぇのか、お前は」
怒りに目の前が赤くなりそうだった。
「そんなに飢えてんなら、今すぐ、代わりのモノを突っ込んでやろうか。あいにくオ
モチャはねぇが、代用品ならいくらでも見つかるぜ」
それこそ、ドライバーの柄でも、ビンでも。
激しい憤りのまま、京一は涼介の身体を再び引きずり上げ、乱暴に双丘を割った。
「…ッア…!」
涼介の身体が撥ねる。かまわず京一は、太く長い指で涼介の内部を掻き乱した。
「力抜けよ、それじゃ楽しめねぇだろ」
「…く…ッ」
涼介は歯を食いしばり、息をつめてきつく目を閉じている。その様子に、京一は
指の動きを止めた。
「涼介?」
返事はない。京一は探るように、ゆっくりと指での抽挿を繰り返した。それでも
引き攣れたような涼介の身体からは、強張りが解けることがない。
京一の指が離れると、涼介の身体は膝から折れた。
「涼介、お前……」
荒く息をつく身体を呆然と見下ろしながら、京一は言った。
「まさか、初めてなのか?」
「………」
涼介は、濡れた髪をかきあげた。その指が微かに震えていることに、京一は息を
飲んだ。
「初めてなんだな?だったら、なんでこんな真似っ…!」
こんな、自分を貶めるような真似を―――
理解に苦しみ京一は頭を振った。すると涼介は顔を上げ、ひどく遠い目をして言った。
「好きな男がいる」
それはあまりにも重大な秘密でありながら、あまりにもさらりと言われたので、京
一は一瞬何を言われたのか分からなかった。
「そいつに、抱きたいと言われた」
「……それで?」
「襲いかかられて、殴って逃げた」
京一は思い出す。今夜の涼介の乱れた衣服を。それから履いていなかった、靴。
「そういう意味で、好きっていうわけじゃねぇんだな?」
「いや」
救いを求めるように確認した京一の言葉を、涼介は、自嘲的な悲しい笑みとともに
否定した。
「そういう意味で、好きだ」
「………」
「抱かれたい、と思っている」
「……だったらなんで逃げたんだ」
「………」
涼介はまた遠い目をした。
「京一、初めての女、覚えているか?」
「ああ」
質問の意図を測りかねて、京一は怪訝な声で返事をした。
「忘れるわけがねぇ」
「だからだ」
涼介は小さな声で言った。
「いつか別れなきゃならねぇのに。いつまでも未練たらしく、初めての男のことを想
って生きていきたくない。そんなことになったら、きっとオレは狂う」
「………」
「これが理由だ、京一。気に食わないなら追い出せ。お前の言う通り、どこかでやっ
てくれそうな男を探すよ。早くしないと、オレはもうあいつを止められない」
「………どうして、別れるって決め付ける」
告白の重さと衝撃にぎりぎりのところで踏ん張った理性が、京一に思ってもいない
言葉を吐かせた。
「その男はお前が好きで、お前もそこまで惚れているんだろう?だったらいいじゃね
ぇか。世間の常識なんかにビクビクするお前じゃねぇだろ」
「別れるさ」
そう言って微笑んだ涼介の透明な美しさに、京一はまた言葉を失う。
「いつかあいつはオレから離れていく。離れなかったら、オレが突き放す」
「………」
「オレには見ることができない未来が、あいつにはあるから」
カリスマと呼ばれ、憧れと羨望を一身に集め。揺ぎ無い瞳で前を見つめ、公道に伝
説を築きあげてきた男にそこまで言わせる相手とは誰なのだろうと、京一は思う。
「後悔、するぞ」
痛いまでに妬けつく感情を押し殺し、京一は言った。
「そこまで惚れ込んでいる相手がいながら、他の男なんかに抱かれたら。やっちまっ
てからじゃ、取り返しはつかねぇぞ。それでもいいのか?」
「後悔だったらもうしてる」
あいつを好きになっちまったことが、最大の後悔だと、涼介は悲しく笑った。
エボVのシートに凭れ、京一は新たな煙草に火を点けた。
朝の光とともに、視界を阻んでいた白い靄が薄れていく。
送って行くという京一を、涼介は拒んだ。弟を呼ぶから、FCまででいいと、白い
唇で言った。そんな格好で帰せるかと反論すると、涼介は、血の気のない顔ですうっ
と笑った。
その顔を、一生忘れられぬだろうと京一は思った。
何も言わず、朝霧のいろはを登った。無人の駐車場で主人の帰りを待っていたFC
に涼介を渡すと、咆哮とともにその場を後にした。
バックミラーは、一度も見なかった。
そのまま濃密な空気の残る部屋に戻る気にもなれず、中禅寺の駐車場に突っ込んで
いた。
(日曜でよかったぜ)
平日なら、確実に無断欠勤していたところだろう。息を引き攣らせながら縋りつい
てきた指の感触が背中に生々しく残っているのに、仕事などできるはずがない。
(声が―――)
聞けなかった。それが心残りだった。
涼介がどんな声で啼くのか。知ることができるのは、涼介に選ばれた、カリスマと
言われる人間さえ焦がれる未来を持った男だけなのだろう。
それが誰なのか、京一は知りたいとは思わなかった。
多分、気づいてしまったけれども。
今は会いたくはなかった。まだ、自分の方が上だと思うから。会えばどんな手を
使ってでも叩きのめしてしまうだろう。たとえそれで涼介から憎まれることになろ
うとも。
(走りてぇ)
猛烈に、京一は思う。
いつか輝くはずの男に追い越されるのを、1日でも遅らせたいと、京一は切に願っ
た。それまでは涼介の関心も、京一に少しは向いているだろう。
(オレも相当病気だな)
それも思い切り重病だ。たった一晩で致命的なまでに悪化した病は、最悪なことに
完治する見込みがない。
(とんでもねぇウィルスだぜ)
医者が患者増やしてどうすんだと、京一は笑った。笑えた自分に、満足した。
今日一日をどう過ごすか思案を始めたとき、携帯が鳴った。
『京一?』
相手は清次だった。
「なんだ、こんな朝っぱらから」
『いや、なんかゆうべはたいへんだったそうじゃねぇか。新入りの馬鹿が』
「ああ」
京一は灰皿に灰を落として言った。
「たいへんな夜だったぜ。おかげで寿命が縮まった」
『そんなにすげぇことになってたのか?』
げっ、とうめく清次に、京一はドスのきいた声を作って言った。
「今夜は気合いを入れろと言っておけ。フ抜けた走りを見せたやつは、即刻除名だっ
てな」
『わかった! みんなにそう伝えりゃいいんだな? こりゃ夜が楽しみ…』
嬉しそうな清次の返事を最後まで聞かず、京一は通話を切った。
勤勉な土産物屋が、店の前の掃除を始めた。今は静かな湖畔も、やがて観光地の賑
わいを見せるだろう。
(どうせだから、お参りでもしていくか?)
神仏を頼ったことなどなかったが。
今は、少しだけ祈りたい。誰のために何をというわけではなく、ただ静かに手を合
わせる、それだけでいい。
(オレもヤキがまわったぜ)
病気なんだから仕方がねぇと自分を嘲笑いつつ、京一は愛車のドアを開けた。