序章・幕府瓦解

 

 

 幕府が瓦解した。

といっても天人たちの支配が終わったわけではなく、より間接的な形になっただけ。攘夷勢力と裏で結びついた天人勢力はその結びつきを否定する攘夷急進派の弾圧をはじめ、世間は再びきな臭い。

 が。

 天人勢力の代理戦争で国内を荒らす愚を悟り先んじて大政を奉還、所領の殆どを朝廷に捧げた将軍家は市井の一戸として存続を許された。母の持参金であった二千数百石を有するのみ、政治への関与を禁じられ、する気もないまま隠棲中の、もと将軍にとって攘夷派の内紛は関係のない話だった。

新政権に警戒をもたれないよう邸の周辺に塀は設けず、境界代わりに低い垣根を巡らすのみ。門は昼夜に関わらず開いている。庭は広いが、小さな池があるだけの簡素なもので玉砂利もなく、村の子供が紛れ込んでかくれんぼうなどよくしている。

「ご宗家様にはご健勝のご様子、なによりです」

既に上様でなくなった政治犯のもとへ、それでも年の暮れには旧臣たちが挨拶にやって来る。それぞれの手には土産を提げて。政権の主が変わっても機構はそのままで維持され、将軍が隠棲した後も、利け者たちは新政権の下で居場所を与えられた。新たに政治の実権を握った攘夷派は玉石混合も甚だしく、その八割七部ほどは攘夷とは名ばかり、無頼の暴れ者に過ぎない。旧幕臣たちの能力は必要とされている。

「あぁ。おかげで元気にしている。畑仕事は、わたしの性に合うようだ」

 邸の裏庭は広い畑で、朝からその畝を掘り崩してはサツマイモを収穫していた元将軍が笑う。表情にかげりはなく、自身の境遇を嘆き悲しむ様子は少しも見えない。恭順の一手で家臣への処罰を最小限にとどめた、これはこれで、一世の傑物。

「今日はゆっくりしていかないか九兵衛。初掘りのふかし芋を食べさせよう」

「連れが居ますが、よろしいでしょうか」

「かまわないとも」

 もと将軍はにこにこと笑った。今日はまたいっそう嬉しそうだ。育ちのよさで落ち着いて見えるが歳はまだ若い。戦乱のせいで御台所は決まらぬまま、未だに独身である。凛々しい顔立ちはし隣の娘たちには騒がれないこともない。が、道で行き違って手を振られてももと将軍様は素行正しく会釈を返すだけ。

 邸内にはかつての乳母が夫婦で住み込み世話をしてくれる他には家政を担当する執事さえおかず、後は通いで近隣の主婦が家政婦を勤めるのみ。外出は邸の近辺三キロを越えないという生活だが、しかし。

「昔より自由に暮らしている。楽しい」

 収穫の芋を布袋に詰め、将軍は邸へ向った。

「釣りにも行くのだ。子供たちが教えてくれた穴場で夏には鮎を釣った。冬には鮒と鯉を。礼にわたしは、雨の日に寺子屋の真似事をしている。子供たちには不評だが、親が寄越すのだよ」

 蟄居中の貴人がその邸内で寺子屋を開くのは珍しいことではない。子供を出入りさせれば見張りも行き届くし、それにこのあたりになれば江戸も郊外で、学校は少ない。都会の学校に進学するため、大企業に奉公するために、読み書きそろばんの基礎学力は必須だ。

「こんな田舎の暮らしは嫌か、九兵衛」

「いえ、楽しそうです」

「君も柳生の当主としての役目がある。丸々、こんな暮らしに引き込もうとは思っていない。ただもし君がよければ、わたしは、ずっと、以前から、君を」

「こっちだよ、おいで」

「いわゆる別居婚でも、わたしは……。おや」

 隻眼の小柄な美女が、畑の向こうの駐車場でうろうろしている子供を呼んだ。

「トイレ行ってきた?」

「みつからなかったから林の中でした」

「小川や溝はさけたね?」

「うん」

 子供はまだ小さい。五つか六つか、というところ。それでもはきはきと喋り、手足もしっかりている。

「ご宗家様がお芋をふかしてくださるそうだ。よかったねぇ?」

「イモ?」

「ご宗家様にご挨拶しなさい」

 促され、子供はもと将軍に向き直って。

「柳生歳兵衛です」

 短く名乗る。折り目正しい礼。

「徳川茂茂だ。これはまた頭のよさそうな子だ」

 世辞ではない。子供ながら落ち着いた態度といい物腰といい、切れ長の涼しげな顔立ちといい、世が世であれば側小姓に召しだされそうな子だった。

「わたしの息子です。柳生の次の当主になります」

「そうか、こんな子供が居るならば柳生も安泰だな。きっと立派な……、え……」

「マヨネーズかけていい?」

「きみ悪いところが父上に似たな」

「え……、え……、え」

「まぁいいか、背が高くなりそうだから、それでもう、贅沢は言わないでおくよ」

 手足の指が長くて、いかにもすらっと長身に育ちそうな骨格をしている。

「子供……、九兵衛殿の……」

「はい。この子の父方の親類が日野の名主でして、戸籍ごと、そちらで預かっていただいておりました」

 幕閣関係者の処罰がひととおり終わるまで、累を及ぼさないために。幸い、柳生家は将軍指南役の家柄から市中取締りや警察機構とは縁なく、維新派を弾圧したこともなかった。将軍自身を蟄居処分ですませた以上、その下役に責任者以上の罪を与えるわけにもいかず、お咎めなし、の見通しがついたから引取りに来たのだ。

 汚れ仕事をしていた連中は、そういうわけにはいかずに江戸を逃れた。将軍の恭順が早かったおかげと松平片栗虎の解散指令が迅速だったせいで、身柄を攘夷派に押さえられたものは殆ど居なかったが。

「子供があったのか……、知らなかった。いつ……」

 今度は幕府の狗たちがかつての攘夷派同様に、世間の狭間に身を隠している。

「若い頃に」

 まだ十分に若く美しい女は落ち着いて答えた。