第一章・蝦夷地

 

 

 函館の空はそろそろ凍てつきはじめている。

 日本どころか世界に数箇所しかない、関税なしの国債自由貿易港には各国各星の商人や軍人が多数滞在し、租界を形成している。また港町という性質上、住人の過去を穿鑿しない気風を慕って、犯罪者たちも多く身を潜めている。

政治犯から窃盗まで、さまざまな流れ者たちが集うこの街は治安が『いい』とはとても言えなかった。しかし秩序は、確固としてあった。

その街の懐が深くて、『本物』の悪党たちが流れ込んできたから。故郷を逃げ出しただけの不良崩れだけではなく、無頼漢たちを組織化して統制する力量の持ち主が、どこの租界にも居た。

大魚が潜める深い淵を求めて。

失意の身の上をそっと隠している男が、ココにも。

「あー、二日酔いでさぁ、土方さんー」

 函館山の麓。谷地頭温泉へ続く小高い坂の途中。市電の走る電車どおりから一本、奥に入った路地で。

「くすりくださいよぉー」

 居抜きで買った薬屋を営む、店主はフレームの細い眼鏡をかけ、届いたばかりの朝刊を呼んでいる。まだインクのニオイが紙面からたちのぼるそれに半ば、顔を隠すようにして。

「勝手に茶でも煎れて呑め」

 オールで飲み明かしていたらしい若者の、酒臭い息を避ける。

「くすりぃ〜」

 病状を相談する客のために置いてある椅子に若者は座り込み、カウンターに頭を載せた。店主は無視しかけたが、粗相でもされたら災難と思ったのだろう。新聞を置いて奥から立ち上がり、番茶を濃い目に煎れて塩を溶かし、別の茶碗に入れ替えて冷ましてから若者のもとへ持って行ってやった。

「……どーもー」

 受け取って若者は飲み干す。二日酔いの朝にはこれが一番効く。江戸の町を肩で風きって歩いていた頃も、呑みすぎた後はよく、副長処方の塩入の番茶をみんなで飲んでいた。

 土方十四朗、もと真撰組副長。

 現在は政治犯。函館宝来町の裏通りに潜伏中。顔が売れているこの男は大事を取って、日本人租界にはあまり近づかない。

 電車通りに立ち並ぶ各国の大使館や商館にも近く、谷地頭温泉の歓楽街にも近く函館港を見下ろす好立地だが古びた薬局の、奥に座って日々を過ごしている、ややとうがたっては居るが色男の店主がかつて江戸を震撼させた武力集団の副長と思う者は居ないだろう。

 実家は土地の名主と通婚するほどの豪農だが、副業に薬種問屋も兼ねていた。薬研を摺って調合の手伝いは子供の頃からしていて基礎知識がある上に、老齢で隠居した前店主から一月ほど指導を受け、付け焼刃とは思えぬ薬屋ぶりである。

 喧嘩の怪我や骨折の応急処置にも優れた腕を見せ、おかげで近隣の住人の評判もいい。過去を語らないその男がワケアリなのは皆承知している。が、

『二枚目だから女関係だろう』

ボスのオンナにでも惚れられて逃げて来たんじゃないかと、勝手な憶測で納得してくれるのはありがたかった。

「落ち着いたか?」

「……へい」

「朝飯は食べれそうか」

「いえ……」

「じゃあポカリ飲んで、上で眠っていけ」

 寝室とちぃさな台所に物干し場、内装はやや古いが造りはしっかりしている。隣近所の建て込んだ下町だが、坂の途中に位置しているせいで妙に展望と日当たりがいい。朝起きて物干し場で煙草を吸っていると函館港に光が満ちて、停泊している船がするする、国旗を掲げていくのを見ることが出来る。

 目は、いい。『陸軍』の将官には惜しいと、かつて『海軍』の目付け役に感嘆された。

「一緒に寝てくだせぇ」

「バカいうな。オレはこれから仕事だ」

「夕べねぇ、珍しい人に会いましたよ」

「あぁ、オレも会った。島田が出てきてたな」

 普段は蝦夷地のさらに奥、知床半島の羅臼岳麓のあたりに居る。そこには旧真撰組が交代で十人ばかり、常時滞在している。新政権の手が届くことのない奥地に、宝石のようにそっと隠してあるのは、もちろん。

「元気らしくって、何よりだ」

 二人だけの場所でさえ、名前を決して、出さないことにしている。

「元気すぎですぜ。地元の漁師に混ざって鮭漁手伝うぐれぇならともかく、ヒグマと対決したとか」

「俺も聞いた。勝ってよかったな」

 ポカリの大缶をゆっくり飲み干す若者の、背中をなんとなく撫でてやりながら色男が笑う。嬉しくてたまらない様子で。逆境の中でも『ポス』がまだ意気軒昂、元気一杯に過ごしている様は心強かった。

「武勇伝が、増えたさ」

 それを江戸に轟かせる日が再び、来るかどうかは、分からないけれど。

「土方さんから言ってくださいよ、大事な体なんだから自重しろ、って。こんだぁトドと対戦してみたいって口走ってるそうですぜぃ。……それは、ともかく」

「二階の冷蔵庫にサケの飯寿司が入ってる。腹が減ったら、食え」

「へい。……でね、土方さん。夕べ会ったのは、島田だけじゃねぇんです」

 蝦夷と本州の接点である函館。この街を通らずに蝦夷地の奥へは入れない。

「ダンナに、会いました」

「どの旦那だ」

「あんたのイロだったヤツ」

「……」

 懐から取り出した煙草に火を点ける時間。

「背後は?」

 その短い沈黙で、鬼と呼ばれた副長は内心を隠し切った。

「つけさせたか」

「いいえ」

「馬鹿ヤロウッ」

「必要ありませんぜ。身柄は、会館に置いてあります」

 租界の中央、表通りテナントにははいらない怪しげな地下銀行や事務所が入居するビルを、夜の住人たちは『会館』と呼ぶ。旧真撰組の腕利きを従えて、あっという間に租界の覇権を握った見目のいい若者も、そこにいわゆる『組事務所』を構えていた。

 もちろん、裏社会を制するには腕っ節だけでは足りない。金という後詰が要る。その資金の出所はこの薬局で、背後には天人の貿易商。攘夷派に破れて主流から滑り落ちた一派にも、尚、軍事政治上の利用価値を認めた連中は未だに資金援助を続けているのだった。

「旦那はもと攘夷派の指折りだ。桂と繋がりがあることも分かってます。それがココに来た理由が、俺ら旧幕臣の探索でもおかしかない。思えばあんたも、やばいのをイロにしてたもんですねぇ」

 揶揄されても反論せず、顔をそらして、煙を吐き出して。

「俺の素行とお前の間抜け具合」

「……え……っ」

「桂は高杉一派に追われて逃亡中だよーん」

「なかなかいい勝負だな」

「旦那……ッ」