瓦解・6
薬局の、曇りガラスの引き戸は閉めて、格子の外戸を引いたが。
『在店中。緊急時はくぐりから』
の、張り紙は防水のためビニールに包まれて外から見えやすい位置にガムテープで固定された。歴史の浅い港町には医者が少なく、傷の縫合と整骨医の真似事が出来る薬屋は重宝されている。
「総悟がおめぇにナンの用だったんだ?」
店主はまだ一階の店舗に居た。容器の回収が不要な折り詰めの寿司が三人前、ぺろりとたいらげられ、代金をたかった男が食後のお茶を煎れているところ。一階の店舗にも簡単な設備はあって、昼はそっちで済ませることも多い。
「トシちゃんを守ってくれだって。愛されてるねぇ」
口止めをあっけなく破って、白髪頭の腕利きは答える。マヨネーズのチューブに蓋をしながら、ふん、と、予想していた顔で黒髪の店主は頷く。
「ゴリさんが一千万、トシちゃんが八百だっけ?この首が一万円札八百枚分かぁー」
感嘆の声とともにうなじに伸びてきた指先を、
「触んな」
首をかしげて、店主は避ける。
「けち。エッチなことしようってんじゃないよ。それともナニ?沖田君に触らせるなって言われてるの?独占欲強そうだもんねぇ」
「日野の連中、元気だったか」
「トシちゃんによく似た子が居たよ」
夕刊を目で追いながら茶を啜っていた店主の眉が上がる。
「トシちゃんの甥っ子姪っ子たち、かわいいねぇ。おねーさんも美人でさぁ、子供が四人居るようには見えないねぇ」
オトコの言葉に店主の頬がほんの少し緩む。器量よしの姉が実は自慢らしい。地元では少女の頃から評判の小町娘で、従兄弟でもある若名主に、十四歳で嫁いだ。
「でも甥っ子の一番上のに、油断してたら後ろから頭殴られてさぁ、こぶになったよ。あんまり顔が似てたから絶対親戚だと思って、土方十四朗さんのお家はどこですかって聞いただけなのに、あんな可愛い顔でご案内しますって言っといて、ひでぇ」
「賞金首を白昼堂々、尋ねてくるバカが居るか」
「フツーは居ないね。フツーじゃなかったから殴られたけど殺されはしないで、話を聞いてくれた。途中で身元照会されたんだけど、照会先が柳生だったのにはびっくりしたな」
「……」
「みんな知ってるの?」
「みんなじゃないが、知ってるヤツも居る。……血縁があるからな」
真撰組幹部の数名は日野出身で、それぞれに地縁血縁で繋がっている。地元では知られたワルガキ、長じては素行の悪い色男が、一旗上げた江戸で名家の子女に手をつけて。
「子供とも、会ったよ」
その子が政変を避けてそっと、預けられていた先は。
「認知してんの、トシちゃんは」
「……」
「ヤバイからしてない?」
「……」
「いつの間につくったのさ。全然、気づかなかったよ」
「ガキなんざ」
茶を飲み終えて、煙草を咥える、店主は悪びれない。
「一時間あれば作れる」
「どうして俺にナンにも言わなかったのさ」
「どうしておめぇに言う必要があるんだ?」
本気で不思議で、問いかけた。
「俺と相手と、両方の家では話し合いが済んでる。俺は親代わりの姉と義兄にぎゃーぎゃー叱られたが、向こうの要求は全部、呑んだ」
この店主の姉夫婦にとって、それは想定外の事態ではなかった。顔と体がとびきりの土方家の末っ子は、素行の悪さもとびきりだったから。それが普段は高い頭を下げてすいません、と、来た時に覚悟は決まった。しかし相手が、若すぎた。そんないいところのいいお嬢さんをアンタはッ、と、姉は卒倒しかけたが、その肝心の『お嬢さん』はむしろ、奇跡のような妊娠を喜んで、結婚はしないけど子供は引き取りたいと、さばさばしていた。
柳生の方は大騒動だった。が、落ち着いて考えればそう悪い事態ではない。跡取りの性癖によって危惧されていた血統の絶える事態が、これで回避されるなら目出度いではないか、という打算が最終的に事態を纏め上げた。未婚での出産はさすがに伏せられ、子供は父方の親族の籍に入れられた。もと将軍家馬術指南役・本田家が、男の親戚に居たのである。
ほとぼりが冷めたころあいを見計らって、そちらから『養子』に貰う、という形式を踏んで子供は柳生に引き取られる、予定だったが延びたのは政変のせいだ。ようやく事態が落ち着いて、子供は柳生家の堂々たる跡取りとして、母親の手元へ引き取られた。
「お前は関係ないだろう?」
「そーですね。銀さんには関係いよねぇ、トシちゃんが江戸から落ちても戦争に負けても、大怪我してもこんな遠くに潜伏しててもさ」
「なんだ……?」
語尾の皮肉な響きに真剣さがあって、黒髪の店主は眉を寄せる。
「まさかお前、寂しくなったのか?」
立ったままの男を見上げる、目尻は面白そうに笑う。
「おいおい、笑わせるなよ。戦争になりゃ黒と白の勝負だ。コウモリが圏外に追い出されるのは当たり前だろうが」
「佐幕とか攘夷とかのこと言ってんなら」
「おめぇがまさか、俺が挨拶ナシでフケたこと恨んでんなら」
「銀さんはそういうのナシなんだ。政治とか戦争は、とぉにやめたの、大昔。ただの万事屋の一般市民、だよ」
「甚だしいカンチガイだぜ。ただのイロならアバヨくらい言ったかもしれねぇが、おめぇみたいな物騒なのに、声なんかかけれるか」
「柳生の九ちゃんのことは、あんなに実家に頼んで行ったくせに」
「あんな怖い女のことを誰が頼む。ガキの間違いだろ」
「同じことじゃない」
「大違いだ。どっちみち、それはおめぇにゃ関係ないことだな」
「恨んでるよ」
「自業自得だ」
「ぱっつぁん、どーしてる?」
「元気にしてるさ。それ以上は聞くな」
志村新八はもと幕臣だった。加えて姉のお妙が、都落ちする真撰組局長に同行した。現在は真撰組の客分として蝦夷の奥地に潜伏する局長警護の任に当たっている。自然、万事屋からは抜けた。転戦の途中で丁寧な手紙は寄越したが、出発時には、何も言わないで発った。
「アンタが言ったの、俺に話すな、って」
「来るなら誰にも言わずに来い、っては言ったかな」
「そんなに俺のこと信じてなかったんだ」
「桂のダチだからな、お前は」
「……」
そうではない、とは、否定はしなかった。
「フタマタかけてた男が両方にフラれんのは」
「桂とは、そういうんじゃなってば」
「お約束だろ。だから自業自得、だ」
「うまいね、トシちゃん。そういう言い方されると、俺が悪かったよーな気になってきたよ」
「そりゃ当たり前だ。お前が悪いんだ」
「でも傷ついたんだ」
茶碗片手にごそごそと、押しかけ客は店頭近い棚をあさる。のど飴やクラッカーを見つけてカウンターに持ってきた。
「ポイ捨てされて、すごく寂しかったんだよ」
「きもちわりぃな、ナンでそんなに正直だ」
「隠したってしょーがないから。こんなところまでノコノコ来といて今更、見栄張ったって、しょーがないでしょー?」
「男が正直になる時はろくなことがない」
「開き直ってる証拠だからね。二階行かないの?」
「行かない」
「寿司美味しかった。ゴチソーサマ。いっつもトシちゃんにはごはん食べさせてもらうね」
「魚が美味いんだここは」
「沖田君のことホントに愛してんの?」
「あぁ。色恋じゃないかもしれないが」
「柳生の九ちゃんはイロコイだった?」
「喧嘩に負けると相手を口説きたくなる」
「……へぇ」
「おめぇとも、ちっとそのケがあったな」
「どうしたの、素直に喋っちゃって」
「お前はいい男だった。時々は思い出さないでもなかった」
「オンナが優しい時って、ロクなことないんだよねぇ」
「けっこう長かったが、元気でな」
「足の怪我、九ちゃんが心配してたよ」
「あぁ。うるさかったな。レントゲン撮って送れとかナンとか」
「治んないの?」
「完治した状態でこれだ」
「不自由だね」
「くるぶしじゃなかった分、運が良かったさ」
普段の生活には殆ど支障がない。ただ右足の甲を斬り付けられた後遺症でつま先の神経が麻痺していて、そっちに重心をかけると上半身が揺れる。
「あんまり銀さんのこと蹴るからバチが当ったんだよ」
刀は腕だけで振り回すものではなく、上級の技ほど下半身と、体重の移動が必要になる。剣士としては、もう役に立たない。
「いろんなヤツに同じこと言われる」
「俺のダチにも、指やられて刀握れなくなったの居るよ。人間の体ってさぁ、思いがけない所が思いがけなく大事だったりするよね」
「指やられて刀捨てたヤツったら、一人居たな、大物が。坂本……」
「心配したよ、戦争中は」
「そうか。悪かった」
別れ話を通す気のオンナは、ひどく素直に、昔の情人に謝る。
「……おい」
「ちょっとだけ。心配した分だけ」
伸ばされる腕から逃れようと腰を浮かした店主は、オトコの目の中に剣呑な光を見つけて大人しく抱かれた。プツンと切れかけの神経が透かし見えた。男の理性は、喧嘩と色事には簡単に焼切れる。
「戦争すると、たくさん死ぬじゃない」
「そうだな。死んだ」
「いっぱい嫌な夢見たんだ。俺のは昔の夢だけど、戦争なんか、いつでもドコでも似たようなもんでしょ」
古びた絨毯の床に押し倒されて。
「なぁ、銀」
切れ長の、地獄を見てきても尚、艶な目尻が男心に、揺すぶりをかける。
「ひとをさぁ、たまんないキモチにしといてさぁ」
「ここでお前にやられちまったら、俺はその後、死ななきゃならないんだ」