瓦解・8 本田家の証言

 

 

 

 もと将軍家馬術指南役・本田家の庭も馬場も広い。

 そこへ久しぶりに遊びに来たその男は、来るなり茶漬けを所望する。

既に暴れ者の悪がきではなく、江戸の直参として出世したからには堂々と正門を叩いて来ればいいのに、隠居所の柴垣の切れ目から入ってくる癖は相変わらず。台所の女たちは心得て、好物の沢庵を丼にほぼ一本分も盛り付けて出した。

「おじさんは、ご在宅ですか」

 茶を煎れてくれたのは下女ではなく当主の奥方だ。若者にとって、この本田家は祖母の実家に当る。書道と馬術の師匠筋でもあり、若い頃は水争いの都度、加勢して腕を貸した。近藤道場の襲名試合では、ともに一方の大将であった佐藤彦五郎の馬周り役を務めた。

 親等は「叔父」ではない。が、おじさん、という呼び方には単なる「小父さん」という響きを越えた親しみが篭もっている。妙に見目のいい、人に懐かない猫に似たところのあるこの男だが、優しくしてくれる身内の年長者には時々、可愛げを見せる。姉夫婦が代表だが、この家の当主夫妻もそう。

「新規の入門の方がいらして、その対応で、表に出ているよ。トシ、ゆっくりしていけるんでしょうね?」

 それなら帰ると言い出さないうちに、奥方は押し付けるようにそう言う。おじさんに挨拶してから帰りますよと男は言った。そうして、すいませんが枕を貸してください、と。

食べ終わるとごろんと、台所わきの小部屋で転がる癖も、剣術道具を担いで街道を出稽古に往来していた頃と変わらない。腹を減らして疲れてやってくる、猫を皆、昔どおりに、そっとしておいた。

季節は初夏、風薫る五月。当主の内儀が出してくれた女物の上被をひっかけて、風のよく遠る縁側でさわさわ、庭の木の葉が摺れる音を聞きながら、ひどくキモチよさそうに眠って。

「トシが来ていると?」

 来客の応対に出ていた当主が、内儀に耳打ちされ奥へ通る。が、みかけた若者が昼寝の最中と知って枕元に座るだけ。数分そうして、そっと掌を後ろ頭に当てて座を立つ。数年ぶりに、顔を見せに来た、猫。

 これは両親と縁が薄かった。父親は出生前に亡くなり、母親の死も幼児期で記憶も曖昧なくらい。生家は裕福で年齢の離れた兄に育てられ、寒くもひもじくもない暮らしではあったが、どこかに寂しさがあった。弱年の頃は目立つ美貌で、そのくせ生意気だったから、よく事件を起こした。喧嘩で決闘沙汰になったのも二度三度ではない。代官所へ身柄を貰い下げに、名主で義兄である佐藤彦五郎に同行したことも数度。通常ならば一族の鼻つまみ。の、はずだが、これが何故だかどうにも可愛くて、幾度も世話を焼いた。

 そのワルガキが今では郷里一番の出世頭。けれどあの頃はそんなこと思いもせず、それでも可愛かったのは多分、顔がよくって、無口だったからだ。昔から何を 考えているのかよく分からず、分からないところが奇妙な愛嬌だった。

 子供にするように頭を一撫でして馬場へ戻る。そこには武者修行から帰って来た柳生の若様が、新入門生として来ていた。車の発達によって馬術は廃れたが、未だにサムライの世界ではたしなみとして必要で、新春に流鏑馬に出ることになった若様は辞を低くして、入門しに来たのだ。

 大人しい馬を選び、乗馬姿勢を、整えてやっているところへ。

「流鏑馬なんざ、まともに出来るようになるまで十年はかかるぜ」

 昼寝をしていた身内の若者が、いつの間に来たのかそう声を掛けてきて。

「控えろ、トシ」

 当主は慌てた。教えていた相手に配慮して若者を怒鳴りつける。怯む様子もなく、着流しのまま縁から降りて馬場に近づき、パチンと指を鳴らした。初心者向きの馬場には囲いがなく邸の敷地続きで、若者が寝転がっていた棟の濡れ縁から見える。

 トットと、若様を乗せた馬が縁へ近づいた。栗毛の馬は、かつてこの若者も乗せた馬で、よく懐いていた。初めて跨り手綱を握ったばかりの隻眼の若様は一瞬、腰を浮かしかけたが見事なバランス感覚で鞍上の姿勢を保ち続ける。

「キサマッ、若になにをッ」

 若様のお供たちがいきりたつのを、若様は目線だけで抑えて。

「どうして君がここに居る?」

 落ち着いて尋ねた。相手には見覚えがあった。あるどころではない。打ち倒し、その後ろ髪を掴んでずるずる、自邸の庭を引きずって歩いた。つまりは獲物にしたことがある、相手。

「親戚の家だからだ」

「兄弟子ということか」

 若様は察しがいい。礼を尊ぶ武門の習慣で、弟子入りをすればその流儀の先輩には、タメグチをきかれても咎めるわけにはいかない。

「新春に流鏑馬出場とはな、お偉いさんに、ナンか睨まれたのか?」

「失礼な、若は名誉の役目を仰せつかったのだ!」

「そんなところだ」

 若様は素直に事実を認める。

「講武所の師範役に御前試合で勝った翌日、通達が来た」

「セレブの歴々も町道場もそのへんは変わらないな」

「若をセフレだと、キサマ、叩ききってくれる!」

「東城、次に口を開いたら二度と外出の供にしない。……なにかいい手段があるのなら教えてくれ。落馬姿を屠蘇の肴にはされたくない」

 後半の台詞は若者に向けられる。顔を寄せてくる馬の鼻面で頬を撫でられ、目を閉じるのを、鞍上から見ていた若様はその時、気がついた。男の睫がひどく長くて、目蓋を閉じて瞳の鋭い光が閉ざされると、顔立ちの整っていることが目立つ。

「馬に初めて跨るヤツが、矢を当てるのは無謀だぜ」

「わかっている。落馬をしたくないだけだ」

「金を使う気は?」

「妥当な額ならば」

「松平のオヤッサンから担当役人に話しとおして、ここの流鏑馬慣れしてる馬を乗り馬にしちまやいい」

 本来、御前興行に引き出される馬は将軍家の厩から手配されるが。

「意地悪せずに貸してやれよ、オジキ」

 馬のたてがみを撫でながら若者は本田家の当主を見た。当主はその時、そういえば違和感を覚えた。普段はぶっきらぼうの若者が、柳生の若様には妙に親切だった。

「別に意地悪をした訳ではないが、そういう事情なら考えよう。慣れた馬なら直線を走る程度、手綱なしでも乗り切れるだろう。練習は必要だが」

「ありがとう」

 若様が嬉しそうに笑う。笑うとひどく、可愛い顔になった。