瓦解・9
二ヶ月間の熱心な練習と、競技慣れした馬を紛れ込ませることに成功して、柳生の若様は新春の流鏑馬出場を落馬なしで終わらせた。出走九頭のうち二頭は馬術家の出身でありながら落馬したことに比べると、初出走の若様が乗り切ったことだけでも賞賛すべきだった。
その上、三射のうち一射は的の端にささり、大奥の女たちからはやんやの大喝采。明けて十七になったばかり、小柄だが若々しく凛々しい武者ぶりに黄色い声が絶えない。
「……」
また本人が騎馬で歩みながら、女人らの見物用に御簾をたらした桟敷席に会釈していく気配りを見せるものだから、人気は高まるぱかりである。大奥の女たちにもてて、本気で嬉しい若様の気質は真性だが、レズビアンとは言い難い。本人は完全に自分が男のつもりで、『異性』にもてて喜んでいるのだからある意味では至極当然のノーマル。
そんな若様が真撰組の屯所を訪問したのは新春の松がとれたばかりの日だった。雪の降る寒い来訪は予告されておらず副長は市中巡察中。呼び戻しますという監察の山崎を来客は止めて。
「今日は弟弟子として来た。それに礼を言いに来たのだから待つ」
「は……」
意を承って山崎は引いたが、使いを非番で別邸に居る局長に出した。それほど気を使う理由は若様の隣に松平片栗虎が、黙って煙草をふかしながら居たから。
「オジサン今日はつきそいだ。口出しはしねぇよ」
駆けつけた近藤に、一言告げて、それっきり。来訪の意を問う真撰組局長に、柳生の若様は礼にと繰り返す。やがて制服の肩に粉雪を幾つか留めて、細腰は市内巡察から戻り。
「なんだ、来るなら来るって言ってからこいよ」
片栗虎には深々と会釈したが、若様にはタメグチ。
「すまない。松平殿の御宅へお邪魔したら、こちらと懇意にしておられると聞いて、連れて来て貰った」
確かに屯所内は機動隊本部に等しく、部外者は確たる紹介者がなければ入れない。その紹介者が警視総監、しかも付き添い、となればもちろん、無条件の賓客だが。
「過日は乗馬の件、ご高配に感謝する」
「落ちずに済んだそーじゃねぇか、良かったな」
「君のお陰だ。その礼に、受け取ってくれるか」
膝横に置かれていた包みは形状で、刀剣であるということが知れた。
「君の刀を折ったことがあったし」
「折られてねぇ、ひびが入っただけだ」
「安い刀を差しているからそんな不覚をとる」
「ほっとけ」
会話は喧嘩腰だが双方の顔は笑っていて、差し出される刀を受け取り無造作に、真撰組鬼副長は抜いた。
「……悪くねぇな」
抜いた瞬間、目を細めて笑う。否、受け取ったときからかなり上機嫌だった。この男は長刀好みで、ニ尺二寸五分から二尺三寸五分(七十センチ前後)が常寸とされる中、ニ尺八寸(九十センチ近く)の刀身を好む。差し出された刀がその寸法で、進物を整える前に相手の好みを調べるあたりには誠意が感じられた。
長刀好みはキザ扱いされるが、それをすらりと抜いてみせるあたり大した腕。この寸の刀を実戦で扱うにはリーチだけでは足りず、刀身を出し入れする鯉口の部分を左手で握り、後方に引き絞る「鞘引き」という動作を同時に行わなければならない。
「いいんじゃねぇか、貰ってやるぜ、気に入った」
気に入らないと突き返すものが居たら馬鹿だ。十一代和泉守兼定、新刀だが刀紋のむくむくと沸いた上作である。
「お気に召して嬉しい。しかし君、抜きが遅いな」
「……あぁ?」
自信のある抜きをけなされて鬼副長の眉が寄る。
「遅いから遅いと言っただけだ」
馬術では後進でも剣の腕なら自分の方が上だという自負を覗かせて柳生の若様は告げた。
「いや、言い直そう。並よりは早い」
「でも自分よりゃ遅いってか。言うからにゃやってみろ」
「よかろう」
押し付けられたニ尺八寸の刀を、「よ」の半分も終わらないうちに抜いて構えてみせる。
「……」
負けず嫌いの鬼副長も、俺の方が早いとは言い張らなかった。
「……煙草吸っていいか」
「ご随意に」
「今お前、鞘引かなかったな」
「筑前柳川に、大石神影流という流派がある」
「あぁ、大石進の」
「さすがに知っているか」
「ナガモノ好きにゃ知られた名前だからな。五寸三尺の長竹刀だ」
「竹刀ならともかく真剣では、そんな長物は重すぎて実戦向きではないと思っていたが」
「あったのか?」
咥えた煙草に火をつけることも忘れ、興味津々、という表情で鬼副長が目を見開く。
「さすがに三尺八寸(百十五センチ超)だった。しかしそれでも抜きは相当に、重い」
「物干し竿だなぁ」
「剣尖を相手の喉に向けて、左肘を曲げて水平に構える様は、君の左手片突きに似ていなくもない」
「なぁ、もう一回、抜けよ」
大石神影流と聞いた切れ長の目のイロオトコは、好きな女の噂をするように、活き活きとした表情で催促。
「武士にもう一度、はない」
パチン、と音をたて若様は刀を鞘に納めたが。
「そう言わないで、もう一回。いまの大石神影流の抜きだったんだろ?片足上がったのがキモか?」
「わりとよく見ているじゃないか」
「もー一回やれって、頼むから」
そこで屈んで、若様の耳元に、小声で何かを、副長は囁いた。
「……イヤなヤツだな、君はッ」
若様がさっと頬を染めて怒鳴る。声を出さずに真撰組副長は腹を折ってゲラゲラ笑っている。なにを囁いたのか周囲には分からなかったが、
『キャバクラでバイトしてたこと黙っといてやるから』
と、目尻が艶な色男はその時、小声で言ったのだった。
もう一回と催促される前に、若様はニ尺八寸の刀を抜く。身長との比率でいえばこの副長が三尺八寸を抜くのと大差ない。
「お見事。おまけにもう一回」
「ついでに首を、そこに据えろ」
「そりゃお断りだ」
和気藹々、とじゃれる二人を置いて、ちょんちょんと、松平片栗虎が近藤局長を指先で招く。
「どうも、おやっさん、今日はわざわざ」
「あのなぁ、近藤」
「は」
「うちの栗子がよぉ、柳生の若様に夢中でなぁ、いきなり家にご招待したんだよ。また若様が愛想よく、花なんか持って来てよぉ」
「……はぁ」
「うちの奥さんもこれが大歓迎でな、おかげでオジサンは新年早々、寂しく自分でお茶を煎れた訳だ」
「おやっさん」
「言うな。オジサンは長い時間をかけてオジサンになったんだよ。分かってる」
柳生の若様が、実はお嬢様だということくらい。
「というわわけで、おめぇからトシに言っとけ。あの若様を口説いてくれたらオジサンは大感謝しちゃうよ。お前らが欲しがってた射撃訓練場、手配してあげるかもよ」
「そりゃありがたい。春までには頼むぜ、おやっさん」
「言っとくが成功報酬だよオイ」
「言わせてもらうがあのトシが、笑いかけた女を落とせなかったのは見たことがない。長い付き合いだがな」
「ふん……」
二人してそっと振り返る。そこでは剣を挟んで上下関係の逆転した別の二人が、筑前柳川・大石神影流の抜刀術を教え教えられている。若様はやや不機嫌そうだが、腹立ちつつも本気でないことは、にわか弟子の手に掌を重ねて構える伝授の熱心さで知れた。
「オジサンよろしく頼んじゃうよオイ」
「ばっちり任せてくれ、おやっさん」
ぐっ、と、不良中年とそれに片足突っ込みかけている男は拳を握りあった。
その、ツケが後年、バッチリまわってくるとも知らずに。