瓦礫の下・1

  無視、してもよかった。
 いつもの事だったから。
 人ごみの中でも特別に目立つ、すらりとした背中と肩を持つ弟の後姿。ここしばらくで男っぽさを増した横顔。そしてその腕に絡みつくように手をまわす、女。せめて爪が赤かったり目元が黒かったりしたら無視できたと思う。けれど少女の指先は白く前髪は黒く、夜の十一時に制服姿のまま、隣の男をうっとり見つめている。制服は市内のミッション系のお嬢さん学校の……、中等部。
 それでも車内から暗い歩道を眺め、俺は迷った。弟に声をかけたくなかった。特にこんな事では。情事がからんだ弟の、瞳の暗さが俺は怖かった。
 信号が変わる。
 考え込んでいた俺は発進のタイミングを逃して、後ろからクラクションを鳴らされた。それにつられて振り向いた少女の顔立ちのあどけなさが、俺の背中を押す。
 ハザードを出して歩道に停車し、
 「家に送ろう」
 車から降りて助手席のドアを開く。鋭い視線を向けた弟が、何を言うかと思ったら。
 「サンキュ」
 少女を歩道に置いて乗り込もうとする。腕を掴んで引き戻した。
 「馬鹿。お前じゃない。どうぞ」
 歩道に立ち尽くす少女を促す。えーっ、と弟は不満の声をあげた。
 「なんでぇ。俺、その子どーやってまこうか考えてたんだぜ。もういい時間だし。アニキら置いてかれたら俺、どーすりゃいいのさ」
 「自分で帰れ」
 答えながら胸ポケットの財布から万札を一枚ぬく。二つ折りにして差し出すと素直に受け取った。
 「下手に送ったりしねー方がいいと思うけど。オヤ騒いでるかもしれねーし」
 「先に戻っていろ」
 「ん。じゃ、家あっためとくわ」
 その言葉の、意味は考えないようにした。
 「あぁ、そうだ。その子にさ、俺の携帯とか聞かれても教えねーどいてくれ。次のつもりないから」
 泣き出す寸前の少女の表情が、
 「どうぞ」
 自分の内心とぴったり同調した。

 少女には捜索願が出されていた。
 車を家の前につけると中から父親が飛び出してくる。少女は父親の顔を見るなり泣き出した。男にひどい捨てられ方をしたから。無論、父親はそうとは思わず、俺の襟首を掴んで怒鳴りだす。背は俺がだいぶ高い。
 「こんな時間にふらふらしておられたので、お送りしただけです」
 少女の父親に静かに、告げてはみたが無駄なことだった。ケーサツを呼べケーサツッと大声で喚かれる。いつもだったら笑顔と舌先で丸め込んだが、どうにもそんな気力がわかなくて黙っていた。誘拐とか、未成年略取とか、そんな言葉を投げつけられる。110番通報で呼ばれた警官もその剣幕を持て余し、じゃあ一応は事情を聞こうかと、俺を署へ連行した。
 免許証と学生証を出して事情を話す。取り調べというほどもなかった。知り合いがあんまり若い子を連れて歩いていたので心配で、という説明を警官はあっさり納得した。
 泣き止んだ少女の証言でウラもとれ、開放された俺は署の駐車場に停めたFCへ戻る。隣にはベンツと、それにもたれてタバコを吸う父親。
 「お父さんにまで連絡がいきましたか。申し訳ありません」
 「すぐ訂正が入ったが、気になることがあってな」
 携帯灰皿で父親がタバコを消す。新しいのをくわえるのを黙って見ていた。タバコを吸わない俺はライターを持ち歩いていない。
 「啓介が」
 「はい」
 「この間、火をつけてくれてな」
 「……」
 「まぁ、そのくらいのことをゴタゴタ言うつもりはないが」
 自分で火をつけ、父親は煙を吸う。医者の不養生を地でいくヘビースモーカー。吸わせているのはストレス。
 「十三歳の中学生を夜のホテル街で連れて歩いていたのは、啓介だな」
 「……はい」
 「だろうと思った。お前がこんな騒ぎを起してまで庇うのはあいつだけだ。寄宿舎にでも、いれるか」
 「いまさら、ですか」
 「奴自身が未成年なので淫行罪にはならないが、妊娠でもさせた日には大騒ぎだ」
 「お父さんの病院も」
 ちょっと皮肉を言ってみる。じろっと横目で睨まれた。
 「まず啓介の将来だ」
 「今夜、一晩、説教をします」
 「あいつが聞くか」
 「うんと言うまで、絞ります」
 「お前がそこまで言うなら任せよう」
 そのまま父はベンツに乗り込んだ。病院に戻るらしく、タイヤは自宅とは逆の方向を向いた。見送る俺のわきを通るとき、
 「涼介」
 タイヤは止まり、窓が下がる。
 「わたしも母さんも、お前たちを愛している」
 「どうも」
 「分かっていない顔だな」
 「いいえ。よく分かっていますよ」
 「お前はお前、啓介は啓介だ。親だからな、どちらも同じように可愛い」
 「俺は分かっています。」
 「そうか」
 「分かっていないのは多分、お父さんとお母さんの方です」
 「うん?」
 「どうしたら啓介に分かってもらえるかわからない」
 「そうだな」
 「お休みなさい」
 「おやすみ」
 テールランプを見送ってFCに乗り込む。ドアを閉めるとほっとした。世界から社会から切り取られたこの空間でだけ、俺は今、安心して息が出来る。
 「本当は、俺も分からないんだ」
 ステアに向けて呟く。あの弟を遠くの全寮制なんかにやられることが嫌で、自信あり気なことを言ったけれど。
 「どうしたらいいのかな」
 手のひらに馴染んだステアに、それを通してFCに話し掛ける。FCはもちろん答えない。答えて欲しい訳じゃない。聞いてくれれば、それでいい。こんな風にあいつの気持ちに寄り添ってやる方法が分からない。キーを廻してエンジンをかける。
 無機物だけで構成されている筈のFCの振動が慰めてくれるようで、染みた。

「お帰り、アニキィ」
 のろのろ車庫から上がってきた俺は、弟の上機嫌に戸惑う。
 「遅かったから心配してたんだぜ。やっぱりオヤに絡まれた?」
 「……え」
 オヤと聞いて俺が思ったのは俺たちの父親のこと。なんでこいつが知っているんだと思い、戸惑い、寒かっただろうとリビングに引っ張られる頃にようやく、あぁ、少女の親のことかと思いつく。家を暖めておくといったこの弟の言葉に嘘はない。セントラルヒーティングで家中の、どこもかしこも適温に保たれている。
 「何か飲む?」
 「あぁ」
 「紅茶でいい?ミルクは入れる?」
 「サービスいいな」
 暖かなカップを受け取る。こんな事をしてくれるのは何年ぶりだろう。ソファーに座って口をつける。砂糖は抜きなと言ったのに、唇に含んだ褐色の液体は甘かった。目を閉じて味わう。そっと背後から腕をまわされた。そのままぎゅっと、俺のうなじに鼻先をすりつけるようにして抱き締められる。大型犬に懐かれてるみたいだ。
 「上機嫌だな」
 肩に手をまわし、ぱさぱさの髪を撫でてやる。金色に近い茶髪。
 「だってアニキが外で声かけてくれたのって久しぶりじゃん」
 「そう……、だったかな」
 とぼけた。本当は避けていた。だって街で、外で、見かける弟は別人のようだったから。今時風の友達に囲まれて、すごく大人で男らしく見えた。
 「すっごい嬉しかった」
 そうなのか。俺はやっぱり、よく分からないよ。お前がどうすれば喜んでなごんで笑ってくれるのか。
 今日は怒らせると思ったら笑ってる。いつもこうならいいけれど、逆の時が多い。紅茶を飲み終えた胸元に指が差し入れられる。シャツのボタンを外していくそれを眺めているうちにたまらなくって、俺は額を、弟の腕に押し付けた。
 「……ナニ?」
 「寝たのか、あの子と」
 「んー、脱がせてみたらホントにガキでさぁ」
 「寝たんだろ」
 「まぁ、脱がせちまったから」
 俺が耐え切れず細く息を吐くと、
 「アレ、もしかし悲しい?」
 能天気に尋ねられる。馬鹿、がっかりしたんだよ。あんな子供に手を出すくらい、お前がクセの悪い男だったなんて。なに考えてんだ。
 「ちょっとサァ、このへんが」
 口元を指先で撫でられる。
 「ちょっとだけアニキに似てたかな?」
 「だったら俺にしておけ」
 「は?」
 「あんな子供に触るのはだけは、やめてほしい」
 「……ふーん」
 顎をつかまれ乱暴に上向けられる。さっきまで優しげだった表情も指も、鋭くなりかけていた。
 「中学生、孕ませたら外聞が悪い?」
 違う、ますお前の将来の為だ、と。言いかけてやめた。さっき聞いたばっかりの言葉だった。白々しさに内心で笑った台詞だった。
 「……そうだ」
 どうしてこんなに、伝えにくいんだ。
 本心なのに、言葉にしたらすぐさま嘘っぽくなる。外聞なんか関係ない。少女のことなんか最初から眼中にない。お前が心配で、お前を守りたくて、お前が大切だから。本当にそうなのに、綺麗な言葉は嘘っぽい。本当のことなのに。
 「幾つくらいからならOK?」
 俺の胸元に手のひらを当てながらそう尋ねる、この弟のいらつきはすぐに伝わってくるのに。
 「最近、俺がガキ好きなのは、あんたに似てるからだよ。白くってしっとりでウブくって、そーゆーの、今時、ガキだけなんだ」
 「二十歳、以上」
 「いいよ。代わりにガキを抱きたくなったら、あんたをそうしていいんだな?」
 「好きにしろ」
 結局、こんなことしか、俺には出来ない。ソファーの上で弟に割り裂かれ鳴きながら、別の場所まで、痛かった。
 心も言葉もろくに意味を持たず、伝えられる気持ちは嘘におちて、結局は身体を投げ出す、ことしか出来なくて。
 「泣くなよ。そんなに嫌かよ」
 悲しいような苛ついたような弟の声に目を開ける。そこでようやく、自分がぼろぼろ、泣いてることに気がついた。違う、と頭を左右に振って腕をまわす。弟の頭を胸に、抱き締めた。
 「なに、ヨくって泣いてたの」
 それも違う。でも、そういうことにしておいてもいい。そっちの方がらしいだろ。お前とわかりあえないことが悲しいんだ、なんて本当のことより。
 揺すられて、あわせて動きながら、不思議な気分にもなる。こんなに近くに居る。兄弟ではあり得ないほどに深く。なのに気持ちが離れてく、ばっかりみたいなのは、なぜ。どうして、と。口にしたつもりはなかったが、呟いていたらしい。
 「愛してるから」
 嘘つきな弟がまた一つ。

 ひどい嘘を、ついた。