瓦礫の下・2


 子供の頃から、自分にも他人にも環境にも不満を感じたことは少なかった。
 恵まれすぎてるからだと知らない奴には言われる。史浩には、それはお前がおかしいからだ、と。
 たぶん史浩の方が正解。俺は基本的に興味が薄い、関心がないのだ。周囲に、世界に、それらの自己との関わりに。
 他人を羨ましいと思ったことなど数えるほどしかない。一番最近は二年前くらい。史浩の弟があいつの忘れたディスクをうちまで、自転車で届けに来た時。生意気盛りのニキビ顔の中学生が、 暑い真夏に、ボケんなよなぁ、なんて文句を言いながら、それでも汗だらけでやって来た。人当たりと要領のいい幼馴染がひどく妬ましくて、正視できなかったのを覚えてる。
 俺の啓介も同じくらいの年頃で、その頃には近所にも学校にも、所轄署の少年課にも知られた存在だったから。いや、でも、俺は、そんなことは少しも構わなかったんだ。
 「アニキ、長すぎ」
 浴室のドアを開けられてびくっと振り向く。俺があんまり驚いたからか、開けた啓介までびっくりした。
 「ンだよ、ナニ」
 無遠慮に服のまま踏み込んで、湯船の俺を引き上げる。ずるっと、俺の膝は崩れた。
 「……ごめん、寝てた」
 「もー。気をつけろよ溺死しちまうぜ」
 ふらつく俺をバスタオルで包み乱暴に拭っていく。仕草は乱暴だがやってることは優しい。水分を拭ってバスローブを着せられて。
 「もう大丈夫だ」
 支えてくれようとした腕を断っても一応、部屋の前までついてくる。理由は、俺がふらついている原因が啓介だから。無茶をした自覚があるのか、口で文句を言いながらもドアを開け、奥のベッドの毛布を捲くってくれる。倒れるように横たわった俺に毛布を掛けて、横に転がる。
 「こっちで寝るか?」
 「一人が寂しいならそうしてやってもいーよ」
 生意気に尋ねてくる。
 「そう。少し寂しいかな」
 「可愛いこと言えるよーになったじゃん」
 そうかな。恥知らずになっただけだ。
 お前がいないと寂しいのはずっと昔からさ。お前が中学生で、たまに外泊をするようになった頃から俺は、ずいぶん寂しかった。この広い家に二人きり、体温をわけあって生きてきたのに棄てられて。だから。
 お前が俺に興味を抱いたときは、ホントはちょっと、嬉しくさえあった。思い切るには勇気が要ったし、結果は全然、思い通りじゃない。けどお前の隣で眠れることは嬉しいよ。その前提が、だいぶ辛いけど。身体とセックスと、引き換えだっていう現実が。
 「あぁ、そうだ、啓介」
 「ん?」
 「明日はパスな」
 「あー、そういや、明後日あんた、誰かと競争すんだっけ、車で」
 つまらなそうに啓介が言うのに、そうだと頷く。
 「まだ飽きないのかよ」
 「車は愉しいよ」
 「あんた昔っから機械好きだもんな。高校デビューってたまに聞くけど、大学行ってからの奴なんか珍しすぎて希少価値かも」
 「やりたいことを、やっているだけさ」
 「じゃあ俺、明日、家かえらないから」
 「……」
 帰って来いと、言ったらどうなるだろう。なら抱かせてくれんのと、耳元で啓介の声で幻聴。他にお前に引き換えに、差し出せるものがない。
 「小遣い、足りてるか?」
 高校を卒業して以来、俺は父親のカードを預かってる。必要なときに使えと言われていて、啓介の買い物も小遣いも、それから払っている。
 「まだいいよ」
 「足りなくなったら言えよ」
 「うん」
 肩を寄せ合って眠る。愛し合ってる気がして幸せだった。それが擬似でも、錯覚でもよかった。

 ガキの話題はつまらない。女と遊び、それだけ。他に出来ることがないから。詰まらない話をつまらなそうに聞いていたとき、
 「啓介、お前のアニキは、なんて言ってた?」
 「知らねぇよ」
 俺が答えなかったのは答えることがなかったから。あの人は俺に車の話はしない。俺が興味がないことを知ってる。
 「ンな、もったいぶるなよ。教えてくれって。明後日は妙義でやるんだろ?」
 「あっそこ無茶苦茶怖いよなー。崖・谷・絶壁ってかんじだし」
 「お前のアニキ、免許とってほんのちょっとだろ。なのによく、あんな峠でバトるよなぁ」
 「しかも無茶苦茶、早いし」
 「ナンたって格好いいさ」
 「知るか。興味ねぇよ」
 兄への賞賛の言葉に俺は飽きてる。車に興味がない以上に、俺はアニキが車に夢中なのが面白くない。構ってくれないから、なんて本音は、口が裂けても言わないが。興味がないと言った俺を周囲は珍しそうに見た。群馬はWRCの新井敏弘の出身地でもあって、ラリーのメッカとも言われてる。免許もとれない歳なのに、同級生たちは車の話に夢中だ。
 「一回、見ろよ。すっげー面白いし」
 「だいたい勿体無いぜ。あんなアニキが居るのにさ」
 俺をダシにアニキに近づこうって同級生たちの下心も面白くなくって、俺はタバコを深く吸い込んだ。
 
 ダチにどんなに誘われても来る気のなかった妙義に、来ることになったのは偶然。いつものように三村先輩に誘われて女と会い、彼女らの車でギャラリーしに行くことになった。すごい格好いいヒトが居るの、と浮かれた口調の対象が誰か、俺には最初から分かってた。
 三村先輩は知っているのかいないのか、じゃあ連れて行ってくれよと言って、ダブルデート、みたいな形になる。夜の峠にはずいぶんな数のギャラリーが出てる。ギャラリーだけじゃない、クセのありそうな車もずいぶん、あちこちに停めてある。品のない改造車。
 そんなのに比べるとアニキのは趣味がいいよなと、ふと思う。エンジンかけた音は凄いけど外見は、普通よりちょっと低いかなって程度。このへんにしようかって女が言って、俺たちは頂上近くに場所をとった。レースよりも乗り手と車を眺めるのに絶好の位置。相手は地元の奴らしく、何人もでつるんで固まっていた。そこへ。
 聞きなれたロータリーサウンドとともに登場したのはアニキのFC。後ろには赤のフェアレディー。史浩だ。人畜無害で大人しい顔したアニキの幼馴染。けど中身は、一筋縄でいかない頭のいい男。だって、アニキの長年のダチだから。
 「あれ?」
 「そうよ。綺麗なカオしてるでしょ」
 「本当だ。男にしとくの惜しいね」
 「ちょっと、ぐらっとくる?」
 「俺、その気ないけどちょっと。俺でこうだから、女の人なんかたまんないだろ」
 「疼くわ」
 そんな会話は日常茶飯だ。ちょっと刺激的な口遊び。分かっていたけど、黙っていられなかった。
 「高橋、お前も免許取ったら……、高橋?」
 先輩の声を背中に聞きながら、ガードレールを超えて行く。一般のギャラリーとバトル関係者を区切る境界を。
 いきなりの闖入者に妙義の連中がキツイ視線を向けてくる。けどそんなもの、俺には屁でもない。近づく俺に先に気づいたのは史浩。おい、という風にアニキを突付く。
 促され、俺の方を見たアニキの表情が入れ替わる。外での凛々しいカオから、家の中で見せるなごんだ笑みに。
 「どうした、啓介」
 よく来たなとは言われなかった。けど嬉しそうなのは伝わる。答えず俺は、
 「乗せろよ」
 アニキの隣の、白いFCを指差す。
 「おい、涼介ッ」
 焦る史浩を尻目に、
 「いいぜ。ほら」
 アニキがナビ側のドアを開けてくれる。
 「怖いかもしれないけどな」
 「涼介、おい、バトルはもうすぐだぞ」
 「往復してくる時間くらいあるだろ」
 周囲がざわめく。クールに澄ましていた美形に近づいて、いきなりこんなことを言い出す俺に驚いて。構わず俺は乗り込んだ。アニキはドアまで閉めてくれた。
 「シートベルト、締め付けておけよ」
 「なにこれ、どーすんの」
 「4点式だからちょっと違うけど、こう……」
 運転席から身を乗り出してつけてくれる。4点ベルトの締め方も知らないガキがどうして、という目で見られることが正直、気持ちがよかった。
 「アシストグリップ、掴んでろ」
 「え」
 「その取っ手。あと、足、踏ん張れるようにシートを少し後ろに。……覚悟はいいか?」
 準備は、といわれなかったことにかすかな違和感。
 「いくぜ」
 一昨日、俺のと深く絡んだ指がギアにかかる。白い指先に、見惚れた。
 
 「あっち行ってろよ」
 横の男を睨む。学校のダチなら、いや高崎の学生なら例外なくビビる俺の睨みを、
 「俺が居るからお前いま、無事なんだぞ」
 史浩は平然と受け流す。俺は口惜しさに唸りそうだった。俺からは離れられない。……足がまだ、ガクガクいっている。
 「いきなり出てきて涼介にタメグチききやがって。俺が居なけりゃお前今ごろ、囲まれてるぜ」
 「別に構わねぇよ」
 「その足でも、か?」
 「……アニキがそろそろ、バトルすんじゃねぇのかよ」
 言外に見に行かなくていいのかと告げたが、
 「そろそろだな」
 腕時計を見て史浩は落ち着いて答えた。
 「どうせあいつが勝つに決まってる。ここの前も通るぞ」
 ギャラリーの比較的少ない一角。
 「俺はただ、一人で来させるのもどうかと思ったから立ち合いに顔を出しただけだ。赤城代表、みたいな気持ちでな」
 「アニキってダチ、居ねぇのか?」
 気になっていたことを尋ねると、史浩は驚いた。
 「だってこっちは大勢だったのにアニキは一人だけだろ」
 「あぁ、そういうことか。別に、あいつのファンは多いよ。今日も半分かそれ以上はあいつの応援の筈だし」
 「でも」
 「涼介はチームに入っていないから、どうしても人数は少なくなるが」
 あいつがついて来いって言ったら、来たがるのは下手すりゃ三桁だがと、呟くように続けた。
 「チーム入ってねぇの?なんで?」
 「速すぎるから。新入りが先輩を越えてさっと上がってく訳にはいかないだろ?組織ってその辺、面倒だからな」
 「トップになりゃいいじゃねーか」
 言うと史浩は、見直すように俺を見た。
 「悪ガキでも涼介の弟だな、お前」
 言葉の意味を尋ねる前に、
 「来たぜ」
 史浩は山頂を仰ぐようにする。甲高いスキール音が夜の峠に響く。
 「二台、連なってる感じだ。あいつ……」
 呟く言葉の先をヘッドライトが切り取った。アニキの相手は青いシルビア。白いFCは後ろにぴったりと張り付いていて、そして。
 「……ッ」
 一瞬の閃光。
 エンジン音が獣の咆哮のように響いていく。
 ほくそ笑む美貌が視界をかすかに、掠めたと思った瞬間、乗った車ごと消える。
 あっという間もない出来事だった。
 青い車体とテールランプが見えて、目の前でアニキが相手を抜いていったのだと、ようやく俺は、気がついた。
 「甘い男だ。お前にだけは」
 隣で史浩が言う。ひどく苦々しく。意味が分からないで居ると、お前のせいだと、史浩は言った。
 「あいつの実力ならとおに千切ってるのに、ここまでベタつきで来たのはお前の為だろ。お前の前で、抜きたかったのさ」
 さて、行くかと史浩は背伸びをして山頂へ向かう。歩けるか、と俺に尋ねた。
 「ダメなら一度戻って、車で拾ってやる」
 「待ってるよ」
 もう歩けた。でも、一人になりたかった。一人で噛み締めたかった。あの人の鮮やかさを。
 「居なかったら先に帰ったと思ってくれ」
 「そういや連れが居るんだな」
 「それは関係ないよ」
 ここへ連れてきてくれた女子大生のことなど、俺の頭にはない。
 「アニキが拾いに来てくれると思うから。史浩よりも早いだろ?」
 「あんな馬鹿ッ早と比べるな。涼介に、俺が呆れていたって言っといてくれ。さっさとブラコン、卒業しろってな」
 史浩に片手をあげて、俺は挨拶。そんな伝言を伝える気はなかったけど。
 
 白のFCはすぐに戻ってきた。俺の目の前で停まる。窓が降りて、家に帰るかと、美貌の人は尋ねた。
 「あんたは?」
 「戻るよ」
 「じゃあ帰る」
 ナビに乗ると身体が無意識に緊張した。それを察してか、必要以上の丁寧な運転でアニキは峠道を降りる。途中ですれ違う車の殆どが合図を送ったけど、アニキは時々知り合いらしいのにライトで合図を返すだけ。なぁ、と、隣の人に話し掛ける。
 「帰ったらひどいこと、していい?」
 「……隣に乗るって、お前が言ったんだぞ」
 「ビビらされたからじゃねーよ」
 綺麗な人だと女が言った。ちょっとクルなと先輩も。確かにそうだ。こんな美形は滅多に居ない。その弟にはもう飽きた。情人なのは、誰にも言えない。これが俺のものだと知ったらみんな、どんなカオをするだろう。この美貌が俺の胸の下で泣いたり喘いだり、極まったりしてるって、いっそ史浩にでも言ってみりゃよかった。
 「あんた泣かせてみたいんだ」
 沈黙は承諾。そうでないかもしれないが、俺はそう、思うことにした。
 峠を降りて道は市街地へ。週末の夜は長く、俺たちは帰路を二人とも、黙りとおした。