瓦礫の下・3

 

ひどく調子が悪かった。
 それでも周囲にはいつもどおり、いや、いつもにましてキレが言いように見えるらしい。安全マージンの取り方が不安定なだけなのに。
 ジムカーナのピット奥で自販機の濃い過ぎるコーヒーをすすっていると、
 「調子悪ィな」
 奥から声がした。据え置きの灰皿の向こう側、裂いたように鋭い目を持つ男、須藤京一。このコースで現在、涼介とタイムを競う男。さすがに京一は、涼介の本当を見ぬいた。
 「事故る前にあがった方がよくねェか」
 「そんなに不安定か」
 「ひでェもんだぜ」
 煙を吸い込み、
 「高崎まで帰らせるのも心配なくれぇだ」
 吐き出された台詞を、
 「だったら送れ。駅まででいい」
 涼介がすくいあげる。
 「……?」
 「FCはここから修理に出す。ギアがおかしいんだ」
 「華奢なクルマに乗ってやがるからだぜ」
 チャリ、と京一はワーキングパンツのポケットからキーを取り出した。
 「なんなら家まで送ってやるぜ」
 冗談の、つもりだったが。
 「助かる」
 あっさり礼を言われた後で、いまさら冗談、だとは言えなかった。

 ランサーエボリューション。ラリー出場経験もあるこの男は4WD以外のクルマには興味を示さない。涼介が黒のランエボに乗り込んだときはかなりの視線が集まった。FCはすでにレッカーに積まれて修理工場へ運ばれていった。
 「一昨日は妙義でご活躍だったそうだな。ずいぶん話題になってたぜ」
 「そうでもない」
 「珍しく謙遜するじゃねーか」
 「相手が下手すぎた」
 容赦のない言い方に京一は苦笑。タバコを勧めると、
 「未成年だ」
 一言ですまされる。
 「はァ?」
 思わず大声を出した。
 「前」
 冷静に返される。
 「幾つだ、お前」
 「十九」
 「じゅうくぅ?」
 「奇声を発すな。頭が痛いんだ」
 「二日酔いか?」
 「酒は飲まない」
 「鎮痛剤、あるぜ」
 「クスリは嫌いだ」
 「我儘なヤツだなお前は」
 知っていたことだが改めて思い知る。
 インテリとガテン。麗人と強面。
 外見に共通点のない彼らだが、あちこちのサーキットや走行会で顔をあわせるうちにけっこう、話をするようになった。お上品な容姿の涼介の中身は傍若無人なしたたかものだし、肉体派に見える京一は案外、緻密な計算で動いている。
 「で?」
 と、涼介はシート周辺をがさがさ探っている。
 「鎮痛剤はどこだ」
 「お前なァ……。ダッシュボードの中」
 「水は?」
 文句を言う気力もなく、コンビニの駐車場につけた。シートベルトを外そうとする涼介を制してさっさと降り、ミネラルウォーターの瓶を一つ買う。車に戻ると涼介は後部座席から、京一が脱いだ上着を勝手に取っては追っていた。ポケットに手を突っ込んで、
 「あった……」
 笑って取り出したのはゴム製品。
 「おかしいかよ」
 「全然。衛生に気をつけているようでいい事だ。ありがとう」
 鎮痛剤を飲み、残りの水も飲み干して、さらに退屈なのか涼介はダッシュボードを漁る。地図、カロリーメイト、発煙筒に懐中電灯、携帯が使えない場所のための無線機。救急箱を開けて、
 「止血帯がない。包帯ばかりこう入れていてどうする。三角巾もないじゃないか」
 「放っとけ」
 「今日の礼に、もっとマトモな中身を揃えてやろう」
 「おー、そりゃ助かるぜ」
 嫌味だったが本気に下らしい。まかせろと頷き、救急箱をもとの場所に戻す。その下には来週から行く予定の教育実習の資料。中学社会教程本に、涼介は絶句した。
 「浪人も留年もしてないぜ」
 尋ねられる前に言っておく。そこへ、携帯のベル。京一はナチュラルに無視していたが、赤信号まで鳴り続ける。仕方なくそれを手にした京一は黙っている。口を挟む間もないほど向こうが捲くし立てているのだろう。青に変わる寸前、
 「ダメだ。別のと、今、遠出中だ」
 信号が変わって車が動き出す。電源を切られて放り出された携帯に白い腕が伸びる。なんだか怖くて、止めろともいえなかった。まるで本命の前で浮気の電話を受けた男のように。
 「すごい数だな」
 「……なにが」
 「女」
 涼介はメモリ機能の電話帳を見ている。ピッピと軽快な音がこんなにまがまがしく聞こえるのは、京一には初めての体験。
 「全部と付き合ってるわけじゃねーぞ」
 「けっこう、タラシなんだな」
 「お前に言われるほどじゃねェ」
 「俺の弟も女癖が悪いんだ」
 飽きたオモチャを放り出すように、携帯はダッシュボードの上に投げられた。
 「いつも香水の匂いをさせて帰ってくる」
 「お前の弟じゃそうだろうよ」
 この美貌と兄弟というなら、女の方が放っておかないだろう。
 「なぁ、須藤」
 美しい形の唇から次に出た言葉は、
 「お前、一晩に何回デキる?」
 滅多なことでは動じない須藤京一の横顔を完全にフリーズさせた。ナニが、と問い返すほど三枚目でも愚かでもない。からかっているのかと隣の美貌を横目で伺うが、涼介は疲れたように睫を閉じる。瞳の翳りが深い。どこかで見た覚えのある表情だった。いたぶられた、女の……。
 「数えてヤッてる訳じゃねぇが、まぁ……」
 相手にもよるが。
 「お気に入りのに強請られりゃ、五回ぐれーはいけんじゃねぇか」
 「強そうだもんな、お前」
 何故かうんざりした口調の涼介。陽は傾き、リア側に西日がさして眩しいのか、顔を京一の方へ向けたから内心で、京一は慌てた。
 「女がそれでもつか?」
 「たいがいは三度でごちそうさまだ」
 「それで許してやるのか」
 「もういいってのを無理に押し付ける訳にもいかねーだろ」
 三度もすけばこっちも充分だし、第一、無理強いは犯罪じゃねーかよと呟く。
 「犯罪だからしないのか」
 「無茶して痛がられちゃ、もともこもないし」
 「犯罪だから、って訳じゃなさそうだ」
 優しいんだなと言外ににおわされ、京一はそうではないと言い掛けてやめた。そう親しい訳でもない涼介を二時間かけて自宅へ送ろうとしている現在、何をしても無駄な気がしたから。
 鎮痛剤の効果か車の振動が心地よいのか、涼介はうとうとしかけた。京一は少し窓をあけタバコをくわえ、停車中に寝顔に見惚れていた。そのせいで発進がほんの少しブレたら、
 「なぁ……」
 意識を取り戻したらしい涼介が、目を開けないままで口をひらく。
 「十代の頃はどうだった?」
 「……アレか」
 「そう」
 「ガキの頃は、そりゃ無茶もしたさ」
 「具体的に」
 勘弁してくれ、と言いたくなる。なったが、そんな弱音は吐けない。
 「八回」
 「一晩で?」
 「分けちゃ意味がねぇだろ」
 「嫌がるのを押さえつけて?」
 「ガキは女の言い分に耳なんざ、貨さネェからな」
 「お前みたいな男でも、か」
 「自分はどーなんだ自分は」
 「俺は……、女に乗られる方が多いから」
 からなんなんだ、と突っ込んでみたかったが、ドツボに入りそうでやめた。確かに女に犯されそうな見目だ。女の夢に出てくる顔をしている。そのまま暫く沈黙が続き、やがて寝息が聞こえてきてほっとする。睫の長い寝顔は少女じみていた。彫り込んだような鼻筋、花びらの唇。化粧荒れの気配さえない肌。……あるわけが、ない。
 皮膚に触れたら指先に燐粉がつきそう。蝶の羽根みたいに。そんな京一の妄想を中断したのは、ギアチェンジが少し粗くなった次の瞬間、
 「男と寝たこと、あるか」
 不意に投げられた、バクダン。
 「お前、寝てるか起きてるかどっちかにしろよ」
 「どうなんだ」
 「そっちこそどーだ」
 「ある」
 さらっと言われて、京一は、尋ね返したことを心から悔いた。顔から血の気が引いていくのが分かる。
 今こいつ、何を口走った?
 疲れた表情、睫の翳りの深さ、嫌いといいながら飲んだ鎮痛剤。喋っているが目は開かない。弛緩してシートに投げ出されたような手足。
 腹の底からいたのは、驚きとか、嫉妬とか、そんな生易しいものではなかった。もっと烈しく、かつ残虐な衝動。中世の異教徒を処刑するように、不貞な妻の胸元にナイフで緋文字を刻み込むように、足首を掴んで股から引き裂いてしまいたい。
 「人には言わないでくれ。知られるとつけこまれる」
 「……」
 「生娘じゃなきゃナニしてもいいと思ってる、アナクロ野郎はまだ多いからな」
 「男は大概、アナクロなもんだろ」
 ようやく声が出せた。
 「それだけ驚いてるってことは、ないのか」
 「アナクロな男なもんで」
 「関係ないさ。単に、趣味だろ」
 「お前が、まさかなぁ」
 確かに綺麗な顔はしている。男どもが影では姫とか呼ぶこともあるくらい。でもあくまでも、影での話。正面きってそんなことを言えばどんな手痛い仕返しを喰うか分からない、高橋涼介という男にはそんな緊張感があった。
 「そりゃぁ大層、おもてになるだろうよ」
 「ぜんぜん」
 「嘘つきやがれ」
 「本当だ。それにもてるとかもてないとかって、あんまり重要な事じゃないだろ」
 「色男らしい台詞だ」
 「好きな相手を誑し込めりゃそれですむ」
 あとは邪魔だと言わんばかりの台詞。
 「寝ろ」
 京一は腕を伸ばして涼介の目蓋を覆う。本当は唇を覆いたかった。手指では、なくて。
 「高崎市外に入ったら起すから、眠れ」
 「そうするよ、お休み」
 返事をするより先に聞こえてくる寝息。
 
 高台の高級住宅街で、涼介はランエボから降りた。角を曲がる後姿を見送りながら京一は、さっきの激情を思い出す。あれは何だったのか。
 恋の二文字を否定することは、どうしても出来なかった。
 
 「お帰り、アニキ」
 リビングのソファーにひっくり返って雑誌を捲っていた弟の上機嫌に、涼介は面食らった。風呂上りなのか頭にタオルを巻いている。
 「なに突っ立ってんのさ」
 こっちにおいで、という風に招かれて近づくと、起き上がった弟の横に寝かされ上から覆い被さられる。でも動作は優しく、穏やかな接触だった。キスを交わして抱き合う。うっとり、涼介は目を閉じる。
 金曜の深夜から土曜一杯のあの暴虐をこの弟も、少しは反省しているんだろうか。なら許してもいい。もうしないって、約束するのなら。
 啓介、と話し掛ける前に、
 「あんたにしちゃスゲェ素直じゃない。ちゃんと言うこと、聞いてくれたんだな」
 弟に先に口を切られ戸惑う。
 「車、始末して来たんだろ?車庫になくって、てっきりどっか走りに言ったと思ってたぜ。でもエンジン音聞こえないであんたが帰ってきたって事は、ちゃんと車を、始末してきたって事だ」
 ……なんだ、そうか。
 だから機嫌がいいだけか。
 がっかりして涼介は目を閉じた。優しく抱き締めるこの腕は錯覚の産物。でも気持ちがよかったから、もう一呼吸分味わって、
 「違う」
 本当のことを告げる。金曜の夜からずっと、二人で揉めていた原因。
 「ジムカーナで今朝から走ってた。二速のギアに入りにくくなったから、修理に出したんだ」
 「……」
 みるみるうちに凶悪になっていく弟の表情。見えない場所で手を握り締め、
 「俺にも、話がある」
 涼介は弟を正面から見据えた。
 「あんなのは、もう嫌だ。二度する気なら、お前とはもう止める」
 「止めるって、俺とセックスすんのを?」
 「あれはセックスじゃない。暴行だぜ」
 「じゃあどうしろって。あんた好みのお上品なやり方なんざ、ぬるくってやってられねーぜ」
 「嫌だと、俺が言ったらやめろ。それだけだ」
 「ふーん」
 言いながら弟は胸元のボタンを外す。嫌だといいかけた涼介の唇に、「面倒くさい女って嫌い」外したタオルを詰めた。口を塞いだというよりもっと容赦なく、呼吸さえうばうほど。
 「ッ、ンーッ」
 抵抗して涼介が弟の肩をバンバンと叩く。
 「注文が多いのも。あんたどんどん、おれがキライなタイプになっていくのな」
 だったら触れるなと、言いたくても出来ない。口腔の奥、喉まで届いてもまだ、弟はタオルを押し込むことを止めなかった。気道が塞がれる。
 「ンー、ン、ンーッ」
 「でもどうしよう。それでも好きなんだ」
 囁きながら、スラックスの前を手早くはだける。弟は寝巻き代わりのスウェットを穿いていたから、涼介の方さえ脱がせれば結合はたやすい。さんざん傷つけた場所を再び、凶器でえぐっていく。
 「ン。ンク、ンーッ」
 「苦しいの、それとも痛い?……両方かな」
 ゆさゆさ膝を抱え揺すぶりながら、いっそ悲しげな顔で弟は、大好きな兄の美貌の輪郭をなぞっていく。タオルを抜こうとする手を押さえつけ、更に深く抉る。血が、流れ出したのが分かった。
 「可哀想に、痛いよな。……なんでこんなかな。俺だって本当は、あんたに怪我させたい訳じゃないのに」
 なあだから、お願いだからと、甘い囁き声。
 「言うこと聞いて。車にもう乗るな。俺と寝るのを嫌がるな。……頼むよ」
 無理。それは、ダメ。窒息寸前でうめきながら、涼介は心の中で思う。だって車がなきゃ俺は、お前を待ってるだけになる。他の女の寝床からお前が帰ってくるのを、待つだけなんてごめんだ。
 「愛してんだよ。そばに置きたいんだ」
 熱い、痛い、……苦しい。苦痛の中で、地獄のような快楽にのたうつ。
 「なぁ、……言うこときいてくれ」
 頷けない。それを、したら終わりだから。言うとおり思い通りになる女に、おまえがすぐ飽きるのは知ってる。逆らわれたり拒まれたり、してるうちだけ妙に盛り上がる癖の悪い男。
 「俺のものだけになってよ」
 ……だめ。
 お前に、棄てられたくは、ないから。
 「だいじにするからさ」
 ……ウソツキ。