瓦礫の下・4

自宅に掛かる電話を啓介がとることは殆どない。
 友人や女たちは彼の携帯に掛けてくる。家中のあちこちに子機が置いてあるとはいえ、部屋を出て何歩も歩かなければならない不便さが啓介は嫌いだった。
  けれどもその日、入浴中だった彼は足元に水滴を滴らせながら慌てて受話器を取り上げる。
  「……もしもし」
  電話の向こうでは、少し戸惑った気配。
  『ごめん、間違えた』
  聞こえてきた声は、
  「アニキ……」
  何よりも聞きたかった声。
 『病院の方の短縮押したつもりだったんだが。ごめんな』
  そのまま切られてしまいそうだつたから、
  「帰って来いよッ」
  必死に叫ぶ。見栄も体裁もなく。
 「一週間も苛めりゃ充分だろ。なぁ……、帰って来いってば」
  電話の向こうで、気配がくすっと笑った。
 『苛められたの、俺の方だろ』
 「もうしねぇから」
  『どうかな。お前の言葉は軽いよ』
  一言も返せず俺は、それでも。
  「帰って来てくれよッ」
  縋ることしか出来なくて受話器を抱き締める。限度を越えた俺の振る舞いに彼が家を出て、今日で七日目。
  ふらつくカラダで何も言わず、出て行ったのは気づいてた。
  一日目は出て行かれたこと自体に気づかなかった。二三日たつと苛ついて、帰ってきたらまた無茶苦茶にしてやろうと思った。四日目、心配になって親に連絡した。ちょろい親父は学会でドイツに行っていて、しっかり者の母親らは、ナニまたあんたたち喧嘩したのと、鋭い事を言われた。
  ガキの頃から成長ないわねぇ。あんたは我儘で涼介は頑固で。あんたに我慢できなくなると涼介は怒らないで外に行ってたわ。図書館とか友達の家とか。そのたんびにあんた、ベソベソ泣いておにーちゃん居なくなった居なくなったって。帰ってくるまでずーっと外の、門の前で待ってたわ。
  十年前の出来事は、俺にとっては前世の記憶みたいに朧だ。でも母親には昨日の出来事に思えるらしい。
  帰って来てって泣くくらいなら出て行かれるような真似をするのは止めなさい。
  十年前と同じ説教をされた。
 昨日までは、それでもムカついてた。今日はムカつく気力さえ、ない。
  「顔だけでいいから、見せろよ……」
  哀願に近い声を出して頼む。声を聞いたら歯止めがきかなくなる。あんたに飢えてる。顔にカラダに息に気配に。あんたが居ないと何処もかしこも、ひどくつまらなくって冷たい。この世でたった一人きりの孤独に、俺は死にそうになっていた。アニキから返事はない。呼吸を整え覚悟を決めて、
  「寂しい、んだ」
 最後の言葉を零してみる。これ以上はないくらいの弱音で、最強の台詞。弟だった頃、この言葉で何回、この人に許して貰ったか分からない。
 『……晩飯、食ったか?』
  受話器の向こうから聞こえてくる声は優しかった。
 「メシなんか……。今日帰って、あんたが居ないって分かって、ずっとベッドで泣いてるよ」
  後半は本当だったが前半は、嘘。今日は学校に行ってない。もしかして俺の居ない昼間、あんたが帰って来てるんじゃないかと思って部屋で待ってた。靴を隠して、扉を閉めて、ずっと。
 『もし、今、出て来れるなら』
  「行く。どこまでだって行く」
 『二十分で迎えに行く。ファミレスでいいな?』
 「なんでもいい」
  あんたの顔が見れるなら。大急ぎで風呂に入り直し、髪を乾かす。一週間ぶりに会う人によく見てもらえるように。十五分で支度して五分間、門の内側で待った。あの人の車のエンジン音が聞こえて家から飛び出す。静かに止まった白い車体は、助手席に俺を招きいれた。
 「何処行ってたんだよ、今日まで」
 「シートベルト、しろよ」
 「どっかのホテル?それともダチんとこ?史浩の家と大学近くのホテルには居なかったよな。まさかオンナの……」
  「啓介」
 名前を呼ばれ口を噤む。なに、と、脅えながら尋ねる。
 「俺はお前を許してない」
  「……だから、ごめんってば。でも帰ってくるんだよな?」
  「一人でメシを食うのに飽きただけだ」
  「またどっか行く気かよ」
 「メシを食い終わったら」
  答えに俺は絶望する。せっかく会えた綺麗な人は、唇に触らせてもくれないでまた消えるつもり。寂しい冷たい家に自分を一人、また追い返すつもり。
  「……和食が喰いたい」
  引き止める言葉はみつからなくて、言えたのはそんな台詞だけ。
 「前菜から、甘味までの、ちやんとしたヤツ」
  和食のコースを、本当は嫌いだった。味とかよりも時間が掛かるから。今は逆に、そのことが目当て。時間がかかる方がいい。その間、ずっと眺めていられる。
  涼介は車を路肩に止めて携帯を取り出した。病院に連絡を入れ母親の名前で予約してもらう。手続きする彼の横顔を啓介は切なく眺めていた。
  「貸して」
 通信の切られた携帯を指差し、手を出す。無造作に渡してエンジンを掛けた涼介は、それでもかすかに眉を寄せる。さっきまで掌に持っていた携帯のを、啓介が自分の掌に包んで自分の頬に押し当てたから。
 少しでも暖かさを感じようとする子供みたいに。母親の気配を慕う子犬みたいに。
  ほだされそうな気持ちをひそかに歯噛みして押し殺す。ナニが子犬だ、これは大型の肉食獣。あやうく骨まで達する消えない傷を、この身に刻まれるところだった。寸前でギリギリで、本当に間一髪で、逃げたのだ。カスリとかいう安全ピンを使った刺青を、背中にされそうになって。……本当は、された。
  腕の内側に少しだけ。黒いインクは皮膚の内側に群青色に沈殿し、たぶんもう、一生きえはしない。痛くもあったけどそれ以上に弟の激情が怖くて、セックスにのめり込むことでピンを手放させた。二度とこの男に、肌を触れさせない覚悟で。でも。
  我慢できたのはたった一週間。
 アニキアニキと慕ってくる声と視線なしには生きていけなくなっている。電話は本当に短縮を押し間違った。嘘ではない。でも無意識の故意だったかもしれない。
 店に着き座敷に案内され、二人で食事をする。たった一週間。でも随分と久しぶりな気がする。
 子供の頃から、ずっと二人だった。多分そこから兄弟の関係はズレてきたのだ。普通なら、父親なり母親なりが居て家庭がちゃんとあって、そこから子供は巣立っていく。でも二人にとっては二人だけが家族。他から侵されることのない、獣の巣穴に似た安らぎの場所。
 互いに執着を持って、どうしても互いを手放すことが出来なくて、とうとう人倫を踏み外した。弟だけのせいにする気はない。それほど卑怯なつもりは。
 けれど弟の奔放さについていけずに軋む身体と気持ちをどうすればいい?女ではない身体を女のように抱かれ、女ではない心を女のように添わせろと求められる。少しでも期待通りに出来ないと責められて、当然の罰といわんばかりに傷つけられて。……もう、嫌だ。
 痛められること自体よりそうする時の啓介の、悪意にもう、耐えられない。
 愛しているよ、お前の事を。
 だからこそ離れたい気持ちは真実。きらわれてまで、そばに居たくはないから。
 食事が終わった。伝票にサインして、支払いは接待費として病院にまわされる。正面玄関にまわされた車に二人で乗り込む。家へ帰る途中、ホームセンターの郊外店の前で、
 「寄って」
 言われて涼介はハンドルを切った。店の近くに車を止めようと空いた駐車場を探す。
 「奥がいい」
 その言葉の意図を正確に察しながら、涼介は言われるままに広大な駐車場の端、人気のない奥へ車を進める。白線の内側にきちんと止めてサイドブレーキを引いた途端、
 「……ッ」
 耐え切れない切なさで弟がすがり付いてくる。子供の頃のままのひたむきさで。
 「……」
 受け止め抱き締めてやる。
 「許してくれよ。どうしたらいい?」
 「それは、俺が、知りたい」
 どうしたら許してやれるのか。互いに許しあえるのか。互いの思い通りではなかった相手を。それでも、とまらない愛しさを。欲しいと思う欲望を。
 「どうやったら、俺のこと許せる?」
 「分からない」
 「考えろよ。……考えてくれよ。あんたの方が、頭、いいじゃん」
 どうかな。馬鹿かも。だって本当に思いつかないんだ。破局を招かないために離れる知恵しか湧かなかった。あの時も、今も。
 あのさ、と甘い声で弟が囁く。
 鼻先を肩口にすりつけるようにして。肌の感触と匂いを求められてることに気づいて、でも、好きにさせた。求められることは嫌ではない。むしろ、嬉しい。
 「今夜一晩、手繋ぐだけでいいよ。絶対しない。無理強いしない」
 それじゃダメ?誠意の証明にならない?あんたのそばで触れないで居る事が、俺が思いつく一番の罰だけど、それでも足りない?俺を許せない?
 「イヤだ」
 「なんで」
 「お前にそんなの出来る訳ないから」
 「するよ。やってみせる」
 「イヤ」
 「お願い、それで許して」
 離れてることにはもう耐えられないと、なりふり構わない告白。
 「帰って来てくれよ……」
 とうとう泣き出した弟に、
 「……許したわけじゃないぞ」
 いつも逆らいきれないのは自分の方。
 「お前を試すんだ。忘れるな」
 「うん」
 「離せ。車を出す」
 「うん」
 それから家までのドライブの途中。
 「お前の為なら何でも、してやるよ」
 唐突な告白に啓介は意図を察しきれず、瞬きを繰り返す。
 「傷つくのも痛いのも平気だ。けどそれを、お前が面白がってるのが厭なんだ」
 「面白がってなんか……」
 「いた」
 断言するととぼけきれず、ごめんと小さな声で、繰り返される謝罪。
 「お前が思ってるより、俺はだいぶ、真剣でいるんだ」
 「……俺だって」
 生涯賭けてるよ。真顔でそんな事を言われて思わず唇の端で笑う。笑われて啓介は口惜しそうな顔をしたが、口に出しては逆らわなかった。
 優美な白は車庫に吸い込まれ、二人はそのまま、寝室に向かう。
 パジャマに着替えて二人きり、ベッドに入る。背中から啓介がそっと腕をまわす。背中に顔を押し付ける。自分で罰と言うだけあってそれは、ひどく苦しげな仕草。
 夜の間、啓介は何度かベッドを抜け出してサニタリーへ消えた。気づいていても、涼介は構わなかった。自分の欲望と闘うことで精一杯だった。弟の腕がまわっている。スキな胸元に指が触れてる。肘にほんの少し力を入れて身体を半分、返せばそれで抱き合える。
 でもしない。これは罰だから。湧き上がる欲望を互いに殺しながら、まんじりともせずに夜明けを待った。
 明るくなるのを待ちかねたように。
 「アニキ、朝飯、どっちがいい?」
 起きてる事を承知の啓介が尋ねてくる。
 「作ってやるよ。喰ったら眠れるだろ」
 「……パンがいいな」
 「うん。十分したら起きてきな」
 髪にキスして若々しい肢体が離れていく。部屋のドアが閉じてようやく、涼介は深いため息をついた。耐えていた下肢の狭間に手を伸ばす。
 彼が着替えて一階に降りてきたのは二十分後。
 文句も言わず、啓介は冷えたトーストの代わりをトースターに入れた。
 
 それから。
 眠かったけれど離れ難くて、リビングで朝の番組を見ていたまでは覚えている。涼介はソファーに座り、啓介はその足元に座って膝を抱くようにして。そのままいつのまにか二人とも寝ていた。
 「おい、起きろ」
 目覚めたのは夕方。起したのは、
 「……れ、史浩、なんで?」
 「お袋さんに入れてもらったんだよ。入れ違いで出かけられたけどな」
 史浩は少し呆れていた。まったくこの兄弟は、いい歳をしてでかい図体で、寄り添いあってリビングで昼ねなんか、するな。母親は子供みたいと笑っていたが、アレは母親ならではの度胸。史浩はハッキリ言ってびびった。想像したのは、コワイ事だった。
 「悪ィ……、アニキ、起きろ。史浩来てるぜ」
 膝枕で寝ていた啓介が兄を揺する。うっすら瞳を開けた涼介の、寝起きで潤んだ瞳がいつもに増して麗しい。無言のまま腕をあげ弟の頭を抱き寄せようとする。
 「史浩だぜ」
 さりげなく、啓介はそれを拒んだ。あぁ、と慌てる風もなく、涼介は起き上がる。
 「すまない。何時だ?」
 「六時だよ。ったく一応、寄ってみてよかった。人が必死であちこち連絡とりまくってたってのに、よくもぐーぐー寝てやがったな。携帯も繋がらないし」
 「……二階に置きっぱなしだ」
 不覚にも史浩はそれで納得してしまった。この広い家では、二回で鳴っている携帯に気づくことは無理だ。この家は本当に広い。広すぎて、家という範囲を越えてしまいかねない。
 この兄弟がくっついていたがるのも少しだけ、史浩には分かる気がする。外界との区切りが曖昧になるほど広い空間の中、互いに家庭を求め合う、そんなところが、二人にはあった。
 「人数はだいぶ集まった。ドラテクがあって誠実で頭がいいのって基準は難しかったけどな。みんな、赤城に来てくれることになってる。打ち合わせがあるからそろそろ、行きたいんだがな」
 「なに、今日、またバトるのかよ」
 キッチンで三人分のコーヒーを入れてくれている啓介が不満の声を上げる。涼介が答えるより先に史浩は、
 「ちょうどいい、お前も来い」
 有無を言わせぬ口調で言った。
 「性格はともかく、頭と目はいいからな。見たとおりの事をまわりに性格に伝えられる語彙くらいはあるだろ」
 「俺が峠?クルマで競争とか、興味ねーんだけど」
 「今回だけ。頼む啓介。相手が悪いんだ。……ありがとう」
 コーヒーを受け取って史浩は、独特の落ち着いた口調で話していく。
 「壊し屋で知られたヤツでな。腕はいいけど、やり方が汚い。車つぶされた上に病院送りになったのが四人も居るんだ」
 「ンなの相手にすること、ねーじゃん。止めて家に居ろよ。夕飯つくってやるから」
 啓介の論点は史浩と、かなりズレていた。
 「事故が増えると、警察がうるさくなる」
 今度は史浩よりも先に涼介が口を開く。
 「さっさと潰して、静かにさせないとな」
 潰し屋を潰すつもりの涼介に史浩は苦笑。強気というのを通り越して残酷な笑みが涼介の唇に浮かぶ。それを惚れ惚れと、啓介は眺めた。
 「いいよ。行く」
 あっさりと、前言を撤回。
 「俺になんか出来ること、あるなら」
 「コーナーの見張り。つまらない仕事だけど」
 「いいよ。それでアニキの為になるんなら」
 ものすごく嬉しそうに啓介は言って、兄の隣に乗り込んだ。バトルに兄が勝つことは疑ってもいなかった。
 「行くぞ」
 後ろからついてくる史浩に、ばれないように人気のない道の途中で一度だけ、キスした。