9.3821

瓦礫の下・7

 

 別に彼女の事を、キレイとか美人とか、思ったわけではなかった。
 ただ、彼女はマンションに一人暮らしで、そこでいつも、先輩を待っていた。どんなに遅くなっても、心配しながら、ずっと。
 俺と午前様するとき、先輩は俺を彼女のところに連れてきたがった。インターホンを鳴らすまでもなく、足音で聞き分けてドアを開けるのを、いいなとは思った。俺の家では絶対に出来ないことだから。ガキの頃から、ずっと俺を、待っててくれた人は居なかった。一番荒れてた時期にアニキが少しだけ……。あれもでも、こんなに懸命じゃなかった。
 高校を卒業して配管工として働く先輩とは時間があわなくて、そうそう遊んでたわけじゃなかったけど、街であったら一緒に飲むくらいはしていた。そして、彼女に飽きたらしい先輩が彼女と、別れたがっている事を知った。
 「うんざりなんだよ。俺はオンナを寂しがらせないために一緒にいるんじゃねぇぜ」
 世話好きで情が濃くって、イイと思ったんだけど、ああいう女は手を切るときに困るぜという呟きを聞いたとき、俺は。
 「じゃ、もらえませんか、俺に」
 咄嗟にそう言ってしまった。先輩は驚いた顔をして、俺は咄嗟にしまったと思ったが、後戻りはきかなかった。
 「マジかよ、高橋。お前、ンなに気に入ったのか、アレ」
 そういう訳じゃない。オンナはどうでもいい。でも、まさかそうとはいえなかった。寂しいから待っていてくれる誰かが欲しいんだなんて、男同士で、言えるわけがない。
 「大学行くから金は入れらんねーけど」
 「そんなの俺だって、一円も入れてねーよ」
 「でしょうね。ヒモだったわけっすか、先輩」
 「タカっちゃいねぇが、まぁ、そうだ」
 それから先輩は声をひそめ、ソープ嬢だぜと言った。わかってますと、俺は答えた。一流企業勤務という緊張感もお嬢さん育ちのゆったりさもなかった。それでオンナが一人、あんなマンションに住んでたら、身体を売ってる以外に考えようがない。ホステスするには可哀相だけど、頭が足りない感じがした。
 「誰を好きとか愛してるとかじゃなくて、要するに一緒にいる男がいればいいんでしょ、彼女」
 「そうだがよ」
 「俺じゃあダメか、聞いてといてください」
 オンナの答えはOKで、俺は早速、彼女のところに転がり込んだ。……家に、居たくない時期だった。
 大学の春休みは長い。暇になったアニキは俺をあちこちに連れ歩いた。嬉しそうに、楽しそうに。紹介されるたびに俺は、ひどく複雑な気分だった。弟、おとうと、オトート。
 そう呼ばれるのには慣れていた。高橋君の弟さん、と。それでも、それだけじゃなくなった俺には気に障った。あの人が俺になんだか優しいのが、いっそう俺の苛立ちを煽った。ベッドの中で無茶もしてみたけど、あの人は静かに耐えてるばかりで、手ごたえがなかった。
 俺がオンナの家に行くと言っても、
 「……制服。卒業式、まだだろ」
 そんなことしか言わなかった。行くなとか止めろとかは、一言も。行く先さえも、聞いてはくれなくて。
 半分自棄で、着替えだけ持ってオンナのところに行った。彼女との初夜はその日で、俺にしては行儀が良かった。女が大して好みじゃなかったせいだ。唇のぽってりした、目尻の下がったその顔はちょっとマリリン・モンローに似て男好きはする。けど俺の趣味からすると緩すぎた。俺はもっとキリっとしてんのがいい。……あの人みたいな。
 でも肌は白くって身体は柔らかくて、そこはちょっとだけ、良かった。
 はっきり言うが、軽い気持ちだった。すごく、軽い気持ちだった。だって先輩のお下がりだし商売女だし。労わろうとか大事にしようとかは欠片も思わなかった。
 俺がそんな事をたまにでも、かすかでも、考える相手はこの世に一人しか居ない。残りは全部、気まぐれに齧る消耗品。
 女と寝て、起きた翌日、俺はもうアニキに会いたかった。けど別れ際の冷淡さに腹が立ってて意地を張って、気軽に電話はできなかった。それでも、耐えられたのは数日。
 意志を身体が裏切った。あの人に会いたかった。そわそわしだした俺に女は気がつた。女ってのはどんな馬鹿でも、勘だけは、神様はいってんじゃと思うくらいに冴えてる。俺の荷物から実家の鍵と携帯が消えた。財布が合ったのは多分、手をつけるには多すぎる金額が入っていたからだ。でかい財布はジーンズのポケットに入らなくって好きじゃないが、安心できる金額を入れた財布は二つ折りすることが難しい。だからいつも、俺は財布を、二つ持ってる。一つは街に出歩く時の為、もう一つはそれに補充するため。
 俺は女と喧嘩した。辛うじて手は上げなかったが、だいぶ苛めた。財布を盗られたってあんなに腹は立たなかったと思う。実家の鍵と携帯。それは俺と、あの人を繋いでるものだった。
 出て行こうとする俺に縋り付いて女は泣き喚いた。行かないで、出て行かないでそばに居て、と。泣いた女の顔は醜くかった。泣いても叫んでも苦しさにうめいてさえ美術品みたいにきれいな人を知っているから尚更。
 彼女を突き飛ばして出てきた俺のポケットの中には小銭とタバコと、ライター。駅前からあの人の携帯にかけた。迎えに来てくれと頼むつもりで。甘かった。あの人は、にべもなく、俺との接触を拒んだ。
 仕方がないから女の家に戻った。女は泣いて喜んでくれた。でも、夜、布団の中に入ってきた彼女に俺は背中を向けた。あの人の拒絶が胸にささった棘みたいにちりちりして、柔らかな女の肌と肉を愉しむ気にはならなかった。夢の中で、あの人の手足を舐めていたかった。
 次の日も、その次の日も、あの人は家に居なかった。
 四日目には明らかな作為を感じ、五日目に、俺はキレた。ふざけんなよ、そこに居るじゃねぇか。なのになんで、居ないなんて言うんだ。あの人からの答えはない。黙り込む時が一番怒っている時だと俺は知っていた。けど、俺の方が怒っているんだと思った。……その時は。
 逃げるなと釘をさして押しかける。自分の家なのにおかしな表現だが、俺の実感としてはそんな感じだった。あの家はあの人の家。あれはあの人そのもの。豪華で立派で堂々としていて、しすぎていて、時々とても、すごく冷たい。
 タクシーで乗り付けて門扉を乗り越える。警報が鳴り響くのを覚悟したけどそうはならなかった。ちょうど帰宅した家人がいてセンサーは解除されていた。
 玄関には滅多に戻らない母親が立っていた。出迎える為にアニキも。良く似た白い美貌が二つ、俺を振り向く。
 久しぶりに見るアニキは、胸に染むほど、完璧な美形だ。お袋も大した美人だが、アニキの方が一枚上手を行く。そのヒトの美しさは俺に、感嘆を通り越して衝撃を与える。
 生まれた時から隣にあった顔だけど、年取るたびに大事なものになる。価値がわかってくるからだ。こんな人は他に居ないことを、いつも繰り返し思い知る。一緒に外に出るたびに。みんなこの人を好きで欲しがってる。絶対に、俺のものだけには、ならない。
 そうして、その美しさ以上に。
 アニキが俺を見た、目線が俺に衝撃を与えた。
 敵意があった。……どうして?俺まだ何もしてないよ。あんたに会いに戻ってきただけ。今からあんたを引き裂こうとはしてるけど。
 「どうしたの二人ともそんなに怖い顔して。ご飯食べに行きましょう、ね」
 母親の言葉に絶望する。じゃあ今夜は母親が居るのか。せっかくこの人を、抱き尽くすつもりだったのに。
 「いい」
 がっかりして、俺は離れた。戻っていく俺を、あの人は引きとめてくれなかった。
 
 それから。
 今までの経験からして、いつもそうなのだが。
 騒動は唐突に訪れた。
 いつもみたいに帰ると女は居なくて、代わりに人相の悪い男が三人、土足のままで待ち伏せていた。一人は殴り倒せたが、残りに組みつかれた。荒事に慣れてる連中らしかった。学校から返してもらったばっかりの免許証が俺のポケットには入っていて、身元は簡単にバレた。
 いつものように、両親は家におらず、電話に出たのはあの人らしかった。
 女の行方を追及されてだいぶ殴られていた俺は、かすんだ頭で、連中とあの人のやり取りを聞いていた。金の話は後だ、まずは面子を立ててもらわねぇとな。モノじゃなくって女の不始末だからよぉ。巻き舌の脅し文句。
 彼は最初、拒んでるようだった。でも結局は、出てくることに同意して場所を尋ねた。そのとき、俺は……、ほっとした。
 助かったというよりも、見捨てられなかったことに。いつも迷惑を、いくらかけても許してくれる、あれが俺の、本当の、オンナ。馬鹿だった。
 こんなことなんて、予想もしてなかった。
 世紀の美貌に欲情するオスが俺だけじゃないことを、頭で分かっていても俺は実感、しきれていなかった。彼と多くの時間を過ごすあの家では、オスは俺だけだったから。外に出せば蜜に群がるように、男も女も、あの人に手を伸ばす。
 「……、ッ」
 声を忍んだ息が漏れる。背中に指に、あのひとの髪が当たる。伸ばされた手をこばめない状況で、苦しんでる。……どうして。
 さらわれて迎えに来てもらうのは、実は初めてじゃない。でも今回は今までと違うって事を、あんたが理解してなかったはずはないのに。
 愚かな俺は分かっていなかったけど。
 飲み屋で喧嘩して店のガラスを割ったり、喧嘩相手のバイクを壊しちまったりしたのとは違うんだって……、あんたには。分かっていたはずだ。なのにどうして、来た。
 「んで……、俺なんか、捨ててりゃよかったんだ」
 心から思う。
 その方が良かった。
 俺のそばで、俺のせいで、あんたをこんなめにあわせてしまうよりは。
 こん弟、こんな……、オトコ、見捨ててしまえば良かったのに。
 「どーして来たんだよッ」
 答えはない。怒っているのか。当たり前だけど。彼の肢体に肌に男たちの興奮が昂ぶる。服が裂かれて素肌が晒される。見えないけれど、見るより克明に、俺には分かった。
 彼の白いこまやかな肌もその感触も。抱き締めれば極上の絹に包まれてるような、雲の上に居るような浮遊感さえ感じさせる身体。やめろ、やめろ。……、やめてくれ。
 その人に触るな。それは俺のだ。俺の一番大切な。
 なのに俺の愚かさが、こんな破目を招いた。
 他人のお下がりの商売女、真剣な遊びでさえなかった、がばがばだった彼女のあれの代わりどうして、俺の聖地を踏み荒らす。
 電話が鳴って、男たちは騒ぎ出す。着いたらしい、この小汚い事務所の主人が。さっきから散々話題になってる、『若頭』。
 ドアが開いても、そっちに背中を向けた位置でつながれた俺には顔が見えない。ただ口笛が聞こえた。
 「こりゃまた、素敵なお客さんだな」
 冷やかしにしてはマジな口調。
 「また派手に弄りまわしたな。食い込んでるじゃねぇか可哀相に。ロープ解いてやんな」
 「いや、あの、でも」
 「危ないッすよ。ケンジとナオトはツブされて、病院送りです」
 足癖が悪いのは昔からだ。すぐさま、何もかもを蹴飛ばす。俺もガキの頃はよく尻を蹴られてた。医学部に行って以来、ますます足でやるようになってた。本気でやれば男のアレぐらい、蹴り潰せるだろう。
 「押さえとけ。もっとも暴れる元気はなさそうだ」
 ロープの解かれる音。背中に当たっていた彼の髪が、離れる。
 「クッション」
 落ち着いたオトコの声が、部屋に響いた。