瓦礫の下・8

 

 汗で張り付いた前髪がかきあげられて、固い指先の感触に目を開ける。

若頭とという呼び方から想像していたのよりは歳だが、四十二なるかならないか。骨太の顎と頑丈な首が筋者らしいが、苦みばしった顔自体はそう悪くもない。

ぼやけた視界の中で面白がるように笑いかける男が気に障って、微笑みかえしてやった。どう見えたかは知らないが、オトコの表情から余裕はふっと、かき消えた。前髪を弄っていた指が外れて、顎を持ち上げられる。大きな掌だった。

「……あんたいいトコのお坊ちゃんだって?不出来な息子に苦労すメ親は珍しかないが、兄貴ってのはあんまり聞かないぜ」

「離せ、その人は関係ねぇだろ」

弟の、悲鳴に似た叫び。

「黙ンな」

俺には優しくさえある男の声が、啓介に対してはカリッと固くなる。俺は堅気で弟は違う。そういう風に、分類されてるらしい。

「ソープの女にヒモがついてることぐれぇ、常識だろ。そんな女に手ぇ出したオメェが悪いんだぜ」

……ふぅん。

弟の女の素性をそこで、俺は知った。

別にいいけど、興味はないけれど、玄人か。

きっとさぞ、上手なんだろうな。いろいろ。

「会ってまだ半月しかたってねぇよ」

ただ誘われて転がり込んだだけだ。弟の言葉を男は、ふん、と笑い飛ばす。俺も聞いてて、つまらない言い訳だと思った。

「女の居所を言わないオメェが悪い」

なるほど、そうか。まだ庇ってるのか、その女性のこと。俺にはここに来させて、こんな真似を強いて。

「知らねぇんだよ、何もッ」

嘘には、聞こえなかった。少なくとも俺には。ほんのかすかに、ほっとする。こんなになってまだ弟が、俺より彼女を選んだと知ったら、俺はたぶん、もう……。

「それは通らねぇ。女を出すか、代わりの女を出すかだ。ウチのモンのに手ぇつけた以上は指も貰いたいが、今回は許してやる」

代わりが極上だから、釣りだ。まったく女なら俺のモンにしちまいたいくらいだと、男の台詞には真面目な響きがあった。俺は笑えてきてしまう。そんなに褒めるな、嬉しくなるじゃないか。

容姿なんかどうでもいいはずだったけど最近は、ちょっと気になるんだ。そこの弟の……、オンナになってからは。

「止めろ……。行方はホントに知らないけど、知っていそうなヤツなら心当たりが、」

「言うな」

初めて、俺は口を開く。弟がびくっとしたのが逆さまな視界の隅に写る。ほぉ、という表情の男の顔が、真正面。それを見据えて続けた。

「言うな。どうせいまさら、言っても同じことだ」

俺は裸で、手足を押さえられて、男のズボンの前は外れてる。どうせもう、何も止まりはしないから。

「俺よりも、その女性が大事なんだろ……」

俺は、いいよ。

女の子じゃないし、初めてじゃないしと言うと、

「いい訳、あるかよッ」

血を吐くような、絶叫。あんたより大事な女なんか居ないよ、あんたが、一番……。

まずいなと、俺は思う。動揺しきった弟は何を口走るか分からない。俺が黙れというより先に、

「黙らせろ」

男が部下たちに顎をしゃくる。

「別嬪さんの気が散っちまう」

弟の口にタオルが押し込まれる。似たようなことをされたのを思い出す。苦しいだろう?息がタオルに吸い込まれて、新しい空気が肺までなかなか入ってこない。そんな状態でお前に抱かれるのは、ひどく辛かったよ……。

「こっち向け。もういっぺん、笑え。さっきみたいに」

男に言われて視線を戻した。

「初めてじゃねぇのか。ちょいと残念。でもあんま頻繁に可愛がられてる風でもないな」

男の指が俺の深部に触れてゆく。可愛がられていないさ、最近は。そこのオトコに捨てられてからは、全然。

オトコの指が中にはいってきて、痛みより先にひくっと、俺は、震えた。部下たちとは違う、固い感触が似ていた。俺の、知っている唯一の、オスと。

「あんな女のかわりってぇのは、申し訳ネェくらいだな」

弟が逃がした彼女の事を、男は知っているくちぶりだった。彼女の、ナカを。いわゆる、具合を。

一瞬だけ、ほんとうに、ほんの一瞬だけ。

抱かれてしまおうかと思った。このまま、この男に。本番のアジを比べられてそれで、俺の方がイイとか言われてみたかった。弟に聞こえる声で。

男が口付けてくる。笑えともう一度、今度は要求というより懇願。応じて微笑んだ。

そのままで、毒々しい蜜にまみれた誘惑を、

「……、携帯」

俺はぎりぎりで、ふりきる。

「アン?」

「携帯、留守録、聞いてみろ」

「んだぁ?」

「女房と娘の悲鳴が入っている……かも」

男の顔色が変わる。今にも俺に突っ込まれそうだった欲望が離れる。部下が携帯を差し出して、男は録音をチェックした。目の色が、変わる。

「なにしやがったッ」

でかい声だった。部屋中に響く。窓ガラスが揺れる。けれども俺の、睫さえ震わさられない。大声の威嚇は俺には、通じない。

「家族が可愛いのは堅気も同じだってことさ」

俺は起き上がる。全裸のまんまで、ゆっくりと。部下たちは男に伺いの視線を向け、制止されなかったから離した。時間稼ぎのためとはいえ、散々いためつけられた手足が少しだるい。けど、動けないほどの致命傷はない。

「真弓と歌奈をどうしやがったッ」

「さらわせてもらった。こっちは弟をさらわれたんだ」

「女、巻き込みやがって、卑怯者がぁッ」

「もともと女の騒ぎだろ?ヤクザに卑怯なんてぬかされる筋合いはないぜ」

部屋の中をざっと見回す。裂かれた服はぼろぼろで着れたもんじゃなかった。三下たちの中で一番細いのに目を据えて、

「脱げ」

キツイ声で言い放つ。片膝をたてて股間を隠しながら、男ともう一度向き合う。おとこもきゅっと、ベルトを締めなおしたところ。「怪我、させてやしねぇだろうな」

「これからの、そっちの出方次第だ」

「どうやっておびき出しやがった。用心してる筈だ。無理やりか」

「夫が交通事故で重態、なんて病院から電話がかかれば、大抵の妻子はひっかかるさ。良かったな、愛されていて」

「てめぇ……」

「弟を、離せ」

にらみ合う。今度こそ、正面から。

「娘は七つだろう。顔に消えない傷をつけられたくなけりゃ、離せ」

男は俺を睨み返す。火のつくような目で。少しも恐くもなかったし悪いとも思わない。啓介のためなら俺は、七つの女の子をひき殺すことだって躊躇わないだろう。

「堅気を舐めるなよ。前科者になるのなんか少しも怖くないんだ。俺も両親も」

弟のためなら、いつでも。

「離してやれ」

男は静かに、部下に指示を出す。部下が弟の縄を解く。

「所持品、返してもらおうか」

部下から剥いだ服を着ながら、俺が言う。財布とほかの品物が差し出され、

「確認しろ」

弟に言った。弟は見て、

「免許証、ねぇ」

かすれた声で答える。目線を流すと、部下は別の部屋に取りに行く。その間中、男は俺を、じっと眺めていた。

標的に登録されることを感じながら、別にでも、なんてことは、なかった。危険に対する認識が、俺は、鈍い。怖いと思えないのは一種の奇形だと、史浩に、前に言われた。

もってこられた免許証を受け取った弟に、帰るぞと声をかける。弟は動かない。

「啓介?」

「ナイフ」

「あぁ」

そんなものも、あった。促すとそれも差し出される。パチンとえらく明瞭な音がして刃が跳び出る。次の瞬間。

「……ッ」

掌が、焼けた。

「アニ、キ」

刃は避けて止めたつもりだったけど、鋭いそれは弟の手首を掴んだ俺の皮膚を、かすかに、裂いた。

「馬鹿なことはするな」

男のわき腹をえぐろうとした弟の、手首をねじあげながら、抱き締める。

「何もされちゃいないから俺は。……彼女も」

「アニ……」

落ちたナイフを拾って、袖でぬぐって、弟にもう一度持たせた。銀色の刃が俺の、ぼたぼたこぼれる血に塗れて、にぶった。たぶん弟の殺意も。

「行くぞ」

肩を抱くように進む。部屋を出るときに、

「お坊ちゃん」

黙り込んでいた男が口を開く。

「こっちの世界からは足を洗いな。迷惑かれていい兄貴と親じゃ、なさそうだぜ」

「あんたの知ったことじゃない」

言い返したのは俺。この弟の痛みも飢えも、他人には分からない。俺や両親にすら分からないものを、こんな男に、口出しされたくはなかった。男は肩をすくめ、

「三十分だ」

それ以内に女子供を解放しろと告げる。でなければ、こんどキレるのは自分の方だと。頷き、今度こそ部屋を出る。裏の駐車場にFCは、心配そうに、俺たちを待っていた。

「……運転、するよ」

助手席のドアを開けてやると、弟は震える声でそう言った。

「手、怪我……」

「大したことはないが、じゃあ、頼もうか」

場所を代わって、弟に運転してもらう。FCのハンドルを自分以外に触らせたのは初めてだった。FCが驚き、戸惑い、それでも従順に発進する。

救急箱を取り出して簡単に手当てをした。出血はけっこうあったが、傷は薄かった。

「……、あの、さ」

運転席で弟が何かをいいかける。言わせず俺は、シートの下に隠した封筒を取り出す。両親が病院と自宅からかき集めた現金の束。定形には入りきれなくて、角5のでかい封筒に入っている。

「ナニ……、それ」

薄々察した弟の顔色が、悪い。もとから蒼白だったけど、更に。

「彼女と駆け落ちするんだろう?」

金が要るじゃないか。

「乗っていっていいから。この車」

「なに、俺……、捨てられんの?」

こっちを向くことも出来ず前を向いたまま、弟の表情が強張った。

「落ち着いたら連絡しろ。FDもって行ってやる」

「俺、もう、帰っちゃいけないの、あの家」

泣き出しそうな横顔に。

「お前は女と居る方がいいよ」

言った言葉は嘘じゃない。その方がこの弟のためなのは確か。俺には辛いことだけど。

「もう俺のこと、嫌いになったのかよ」

語尾が震えてる。違うさ。でも。

「してやれない事が、多いから」

俺は、おまえに、与えてやれないから。お前が欲しがっているもの。

それがなんなのか、なんとなくしか知らないけれど。暖かさとか柔らかさとか、きっとそんな代物。お前が欲しがってる形を俺は、持っては居ないから。

「彼女は史浩に匿ってもらってる」

「俺、アニキがいいよ」

「きっとお前には女の子がいいんだよ」

「アニキがいい。他は要らないから」

「俺は、きっと、ダメだ」

「お願いだからッ」

車が人気のない路地に停められた。

「二度とこんな馬鹿な真似しない。ちゃんと足も洗う。あんたにもオヤにも迷惑かけない。言うこと、きくから」

今度だけ、今度までは許してと、ハンドルに縋るみたいにして弟は小さく叫ぶ。それでも。

「きっとお前は、俺じゃダメなんだよ」

いつまでも、弟は、首を横にふり続けた。