瓦礫の下・9

 

 

「お前には、女の方がいいんだよ」

 アニキの言葉にかぶりを振り続ける。そんな事はない。そんな事はないあんたがいい。あんたじゃなきゃ厭だ。

「女の子の方がきっと、お前のこと幸せにしてやれる」

 あんた以外の誰にもムリ。俺をあっためてくれんのはあんただけ。

 愛想づかしをされているのだと。

 自分が振られているんだと気づくのに時間がかかった。気づいてからは胸が詰まって、言葉はろくに、出なかった。

 待ってくれよ。待って。ごめん、お願い、今度だけ。

 今度だけ許して。もう一度だけ、信じて。

 二度とあんたを嘆かせない。大事にするから、誰よりも。

 金を差し出され、彼女と駆け落ちするんだろうと問われて頭をふる。そんなの、するつもりはなかった。

 第一俺は、彼女に何があってドコに居るかも知らないのに。

「史浩に匿ってもらってる」

 なにがあったかは、俺も詳しく知らないけど。

「勤め先でトラブルがあって、逃げ出した彼女から連絡がうちに来た。お前はもうさらわれた後で、手遅れだったけどな。お前、携帯を彼女に渡していただろう?」

「とられてたんだよッ」

「とにかく、そっちに行くぞ。お前の事を、とても心配してる」

「嫌だよ俺。なんであんな女と、俺が」

 どうしてあんな女の為に人生を賭けなきゃならない。何日か寝ただけの、たいして好みでもない女に。

「一緒に暮らしていただろう?」

 横からキツク、彼が俺を睨む。

「ちが……、でも」

「その女性が困って逃げ出す。お前には付き添う義務がある」

「だからどーして、俺がそんな責任、とらなきゃならねぇんだ」

「一緒に暮らしていたからだ」

「他人のお古だぜ?しかも、ソープ……」

「黙れ」

 きびしい声。ヤクザも一撃で黙らせた視線を正面からつきつけられて、俺は息も出来ない。

「承知で彼女を選んだのは、お前だ」

「選んだ、訳じゃ」

「道で拾って道で捨ててく訳にはいかないぜ今回は。いかせない」

「だから、俺が愛してんのはあんただけだってば」

「彼女の方を選んだくせに」

「あてつけだよ。あんたが冷たかったからッ」

 自棄放棄の中でこぼれた言葉には我ながら、真実の響きがあった。それは彼にも、伝わったと思う。

 切れ長の彼の瞳がきらっと光る。手が伸びてきて、殴られるかと思った。当然だから歯を食いしばる。反射的に閉じた目蓋の裏側に、裸に剥かれた彼の白い肢体が浮かぶ。愛していると、改めて思う。

 衝撃はこなかった。代わりに唇にやわらかな感触。おそるおそる目を開けると、焦点を結べるぎりぎり限界の距離に、彼の伏せた美しい目蓋が見えた。食いしばった俺の歯列を緩めるように、唇の隙間を柔らかな舌でさぐられる。応じて緩めた。情熱的な、優しいキスだった。彼からのキスは久しぶりだった。

抱き締めながら、俺は悲しかった。彼が優しかったから。

別れの名残を惜しまれていると分かったから。

「最低最悪の男だったよ、お前」

「……うん」

「こんなに癖が悪くって、無責任なのは見るのも聞くのも初めてだ」

「……ごめん」

「ぐちゃぐちゃにされた、俺は」

「治す。なんでも、する」

「だったら彼女に、ちゃんと責任をとれ」

「……」

「でなきゃお前の言葉も態度も、二度と信じられない」

「……」

「俺だと思って責任をとって来い。実際、彼女は俺と同じなんだ。お前に惚れてふりまわされて……、放り出された」

 ちがうと言いかけて、止める。

 言葉を信じられないと言われたばかりだった。

「彼女をちゃんと幸せに、してみせろ」

「できたら俺のこと許してくれる?」

「……分からない」

 けど、今。お前がしゃあしゃあと、あの家に帰るなら。

 俺は一生、お前を信じられない。二度とお前の言葉はきかない。

「彼女に許してもらえたら……」

 そんな日が来るかどうかも、分からないけれど。

「帰って来ても、いい?」

「……あぁ」

「分かった。言うとおりに、するよ」

 それであんたが少しでも、楽になれるなら。

「ホントにごめん。いろいろ」

「いろいろって、何だ」

「全部。ごめんなさい」

「謝られたって……、今更……」

 抱き合った体が離れていく。溶けたいほど愛しい暖かさが。

「お前の事なんか、好きになるんじゃなかったよ」

「……うん。俺も。好きになって、ごめん」

 ムリに身体を、繋いでしまうほど愛した。

「でも、今でも好きなんだ。大好き。ごめんな」

 停めていた車を動かす。幼馴染の家へ向けて。ギアをニュートラルから一速に入れた途端、

「……ッ」

 振動が、彼のどこかを、またえぐったらしい。

 俯いて、掌で顔を覆う。裸で脚をひらかされ、ヤクザに圧し掛かられても平然としていた人が。

「ごめん」

謝ったって、どうにもならないことは分かっていた。

けれども俺には、それしか出来なかった。

 

史浩の家で彼女は俺を待っていた。抱き締めて、泣いて喜んでくれた。

お前がさらわれたって聞いてからは、組の事務所に行くって言い出して、止めるの大変だったんだぞと史浩が言った。状況を証言するように、史浩の顔にも手にも、女の爪でつけられた蚯蚓腫れがあった。

女から連絡がいったのか、三村先輩までそこに居た。勤務先から来たらしい作業服のまま。女を呼びとめなにか囁いて、そっと何かを渡してた。たぶん、金。そういうものかと改めて思う。切れていてさえこうなったなら金を渡すのが男の責任なら、確かに俺には、駆け落ちの義務がある。

見送られて旅立つ。途中で彼女がうっとりと、運転する俺の腕に頭を押し付けて囁いた。優しい人ばっかりで、あたし幸せだわ、と。

……うん。

そうだなと、俺も頷く。信号で停まってその時、初めて彼女に心から笑ってやれた。

俺もだよ、と。

彼女の事をどうしたら、幸せに出来るかなんて分からなかった。

彼女だけじゃない。俺は誰のことも、幸せにしてやろうなんて考えたこともなかった。出来たことも、きっと一度もない。

なぁ、と彼女に話し掛ける。

お前、俺にどうして欲しい?どうされたら嬉しい?

彼女はきょとんと、俺を見つめた。そんなこと尋ねられるとは思っていなかったのだろう。少し考えて、微笑む。その時初めて、彼女の事を、綺麗だと思った。

そして少しだけ、彼に似ていることに、気づいた。

悲しいくらい優しく笑う、その笑い方が。

「あたし今、幸せよ。とっても嬉しい。啓ちゃんが隣に居るもの」

 ……女ってのは、どうしてこう、時々。

 泣かせる台詞をさらっと言ってくれる。

 信号が青に変わっても俺は車を出せなかった。クラクションが鳴り響いて、それでも。

 女も出せとは言わなかった。腕を伸ばしてそっと俺を、ハンドルにつっぷした頭を抱いてくれる。何台かが別車線によけて通り越しざまに睨んでいったが、泣く俺と慰める女を見て戦意喪失したように過ぎ去る。

 女の柔らかな腕の中で、俺は傷つけてしまった人のことを想って泣き続けた。

 

そして、結局。

俺の十八歳の『駆け落ち』は、実に呆気なく終わった。

 敷居の高くなった家に、それでも覚悟して入ろうと。

 とりあえず車庫にあの人のFCを入れた途端、

「やっぱり。……お父さん、啓介帰ってきました」

 玄関から車庫へ直通の階段からあの人が顔を出す。視線があって俺は怯んだが、あの人は笑って、そのままきびすを返した。入れ替わりに父親が降りて来る。いつものスーツ姿に、靴を履き替えもせずスリッパのままで車庫へ。

「……おかえり」

 心からそう言われ、

「ただいま」

 他に、俺にいえる言葉はなかった。

お母さんに連絡をしなければ、それより大学の手続きが先です。高校の卒業証明書がと、いきなりそんな大騒ぎ。連絡しますから父さんは早く診断書を書いて下さい。病院でしか書けないぞ一緒に来い。

二人に言われるまま、俺は偽造された診断書を持って高校と大学へ行き、卒業と入学の手続きをした。

落ち着いて、ようやく。

「で、どしてたんだ?」

 彼が聞いてくれたのは夜だった。

 まるで旅行か、ホームステイ先での出来事を尋ねるように。

「うん……。女の実家が九州で、牛飼ってて」

「へぇ。乳牛?肉牛?」

「どっちも。手伝わせてもらってた」

「楽しかったか?」

「うん。きっちかったけど。肉の牛って売られるとき、ターンテーブルに載せられてスポットライトの中で廻るんだ。ちょっとびっくりした」

「なんて言って、帰ってきたんだ?」

「追い出された。大学が始まる頃だからって」

言うと、彼は笑う。見ている俺の心臓に染みとおって、全身に巡回していくような、綺麗な笑い方で。

「やさしい人だな。間に合うように、お前を戻してくれたんだ」

「……俺、もう、しねぇよ」

 女をオモチャには、しない。

 どんな女にも家族が居て兄弟が居て、女を大事に思ってる人が居るって、分かった。

「ひでぇことしてたと思ってるよ。……これ」

 きっかけがなくって、なかなか渡せなかった封筒を差し出す。

「親父に返してて。使ってないから」

「女に渡してくれば良かったのに」

「受け取ってくれなかった。どころかバイト代、貰っちまったよ」

「それは、良かったな」

 微笑む人があんまり美しくて。

「あのさ、アニ……」

「キスしていいか?」

 言うはずの言葉を先に言われ、真正面から覗き込まれて、戸惑う。

「顔を見てから、ずっとしたかった」

「……して」

 言うと柔らかく唇が重なる。そのまま二人で、ソファーに横たわった。母親はまた外国。父親は夜勤。

 優しいキスを与えられながら、掌を彼の下肢の狭間に伸ばす。彼は竦んだ。けれど拒みはしなかった。

「アニキ」

「ん?」

「スキ」

「……うん。俺も」

「側に居てくれる?」

「うん」

「一番近くに行っていい?」

「……いいよ」

 真っ白な内股に口付ける。一月ぶり、だった。

 ひどく懐かしい感触。張り詰めて、締まって、きめ細かくて、……イイ。

「二度と手放さないからな」

「まるで、俺が逃げたみたいな言い草だ」

 彼は笑った。そのまま俺に、許した。

 甘い身体を貪り食う。俺は本当に腹が減っていた。感覚が麻痺するほどの飢えは餌を与えられればられるほど渇いて、彼が悲鳴をあげてさえ止められない。

「ごめ……」

 何度目かの絶頂に、耐え切れず意識を手放した人を、揺り起こす。

「足りねぇ、全然。止まんねぇよ、どうしよ……」

 うっすら目を開いて、彼は、笑った。咽喉がかわいて声がかすれて、もう口をきくのは億劫らしい。いいよの代わりにキスしてくれる。唇が、空恐ろしいほど、甘い。

「ホント?嫌になんねぇ?怒って出て行かない?」

「……あぁ」

 答えが終わるのも待たず、今度は俺からくちづける。その隙間に、

「……会いたかったから、俺も」

 聞こえてくる呟きに胸が絞られる。……ホント?

 「絶対、離さないから。あんたのこと、一生」

 そうしろともムリだとも彼は言わず、膝を緩めてくれただけが答え。

「あんただけでいい。ずっとそばに、居て」

 ずっと、永遠に。

 俺の、一番、そばに、居て。

 俺の願いに彼は応えてくれなかった。ただ、俺を中に含んでくれただけ。

 ねえ。

 返事して。うんって、言って。

 

 永遠に、俺の一番、近くにずっと、居て。