下克上・5
忠犬の適性の一つに『待つ』ことへの耐性が挙げられる。
真撰組局長代行の可愛がっている犬はその適性に恵まれていた。料亭の厨房から差し入れられた弁当を食べ、車のシートを倒して、楽な姿勢で休息をとりながら主人を待つ。高級料亭の敷地内は警備が行き届いて、安心してうとうとするが出来た。
「ちょっと」
もっともその夜、呼ばれたのは、主人からではなかった。
とんとん、と、軽く運転席の窓を叩かれて。
目を開けた視界には白髪の男。
「手伝ってくんない?寝ちゃってさ、一人じゃちょっと」
運ぶのを手伝ってくれ、という意味だと察した山崎ははいと返事をして車から出る。こういう料亭の廊下は細く、階段は急だ。政敵や商売仇がはち合わないよう、座敷ごとに直接、玄関へ通じる通路が設けられている。
腕力ではなく物理的な問題で、眠った男を、一人で運んでやることは出来なかった。
「医者は要りますか?」
「なに考えてんの、山崎クン」
男はまだ少し不機嫌だった。
「メシ食って飲んでたらこてんって寝ただけだよ。トシ、凄い疲れてるな」
「戦争終わったばっかりですからね」
「勝ったんだろ?」
「今度は。でも多分そのうち、負けます。上げ潮に乗ってる連中は勢いが違いますね」
男の背後で真撰組の監察を束ねてきた山崎は、すらっとそんなことを言う。
「分かってるんならヤメれば」
「勝負を途中放棄なんざ出来ませんよ。相手のあることだし」
長い廊下を曲がって襖を開ける。
卓の上の皿や椀の中身は殆ど、からになっていた。
十畳ほどの座敷の床前で、座布団を枕に目を閉じた二枚目。風を受け揺らいだ燭台の焔が長い睫の影を頬に伸ばす。頬は少し肉が落ちているが、表情は安らかで呼吸も深い。気分が悪いようには見えなくて、山崎はほっとした表情。
「よかった。乱暴されて失神したんじゃなくて」
「俺をナンだと思ってんの山崎君」
「そういうことをやりそうなサドの旦那だと思ってます」
「一時間もたたずにはムリだよ」
白髪頭の男が眠る二枚目の脇に手を入れて上体を起こし、山崎が足を持った。力の抜けたカラダは重い。狸寝入りではないらしい。くたりと二人の腕の中で重心が揺れる。
「なぁ山崎クン。俺はトシのヒモじゃない」
急な階段の足元を確かめながら急な階段を経て駐車場へ。
「だからトシが俺を邪魔だって言うなら消えるけど、貢がせたことなんか一度だってないよ」
「えらく拘りますね。弱みを抉りましたか」
「……かもね」
「この人寂しがりで、尽くしグセがあるでしょ」
階段をおりきったところで白髪頭の男は二枚目を抱きなおした。抱くというより肩にひっ担ぐようにして、そこから先は一人で運んでいく。山崎は車のドアを開けるべく先に立って、ポケットから鍵を取り出した。
「抱いて寝ないと気づかないようなトコロに」
「……喧嘩の続きするかい?」
「近藤さんはそこに、言い方は悪いけどつけこんでるような所が、ありました。大将っていうのはまぁ、部下の献身すいあげてナンボですけど、妾を膝に抱きながら本妻に死んで来いって言うのはさすがに、見てて胸糞が悪かったです」
「それ、トシとお妙ちゃんのことゆってんの?」
「てっきり旦那もそのテかと思っていましたが」
違う、と、男は、三度は繰り返さず。
「山崎君にそう見えてたなら、そういうトコも、あったかもしれないね」
静かに呟いて、後部座席の広いシートに身柄を移す。
「でも俺はトシのこと好きだったよ」
「ならウチに来ますか?」
にこにこしながら山崎が誘う。
「一緒に土方さんのこと命がけで護ってみませんか?」
目元には、『来ないでしょうけど』と書いてあった。
「歓迎しますよ、旦那の腕なら客分でもすぐ伍長格で」
「銀さんはもう、そういうのナシなんだ」
「確かに、そんなカンジですね」
戦争の一報に加担して戦うような真似は似合わない。
「戦争でさ、トシも死んじゃいそーなワケ?」
「できれば生き残って、旦那みたいにちゃらんぽらんでいいから、生きてて欲しいんですけど」
「ヒトコト余計だよ」
「どうなるか、今はわかりませんよ。戦争ですから」
「山崎クンにトシを頼むって言うのは卑怯かな」
「少し。でも聞いておきます。卑怯じゃない男なんか居やしませんからね」
「だね。トシもさ、これずるいよな」
高級車の後部座席は独立シートで、背もたれが倒せる。倒して寝かせてやりながら、白髪頭の男は眠る二枚目の頬に触れた。
「ピッチ早いなぁとは思ったんだよ。会えるの最後かもしれないのに酔いつぶれて全部こっちにお任せなんてひでぇ」
「それでナンにもしないで帰してやる、旦那も相当……」
「相当、なに。どうせやせ我慢だよ」
「格好つけですね」
「だってさぁ、疲れてんのに可哀想じゃない」
「ナンか伝言、あるなら承りますが?」
「イロイロあるけど、いいよ。多分、分かってるだろうし」
すり、っともう一度、頬をすり合わせて。
「沖田君に、ヨロシクって言っといて」
最後に髪に触れて男は体を引いた。
「承りました」
軽く頭を下げたまま、山崎は白髪頭の男の退場を待つ。それは『上司の情人』への、最後の敬意だった。
後部座席のドアをあけ備品の毛布を眠っている人に掛ける。寝息は安らかで深い。狸寝入りではない。
「何で俺のこと自分の味方って思うのかな、あの人」
運転席に乗り込みながら呟く。
「俺が嫉妬してるの分かんないほど、鈍いとも思えないけど。信用してんだったら、旦那案外、甘いところがあるよ」
キーを差しこみ、エンジンを廻しながら。
「俺が旦那に嫉妬してなかったってなんで思うのかな。ねぇ土方さん、なんで?」
答えはない。
静かに、車は夜の街へ滑り出した。