下克上・6

 

 

 

 戦艦の廊下を歩く。

「むかしいぃいぃぃぃーの」

 壁も天井も金属で、声が響いて音響効果がいい。

「せんそぉおぉぉ〜の、ぉなまえぇえぇぇー、でぇえ〜」

 客は思わず歌っているが、すれ違う誰も笑おうとしない。客のすぐ前を行く、案内役が偉すぎた。

「カーン」

 北島鬼兵衛。かつて華やかなりし頃の攘夷志士の生き残りで、歳は四十を二つ三つ越えた。しかし足取り腰つきは軽く、現役の軍人として有能なことを示している。以前の戦争では一隊の指揮官で今回は軍監。勇猛果敢なことでは知られた男だ。

「相変わらず歌はヘタクソじゃのぉ」

 からからと豪快に笑う、喉には酷い傷跡がある。まえの戦争でついた刀傷。

「ここを真っ直ぐに行けば桂の部屋じゃ。出戻りの挨拶をしてくるがええ。帰りにはまた寄れ。勘定方に支度金を用意してもらっておこう」

「いらねぇよ。ってーか、もー俺はこのまま、ここに厄介になるつもりだし」

「女ぐらいは居るじゃろう。渡してからも一度来るがええ」

「……いねぇよ、そんなん」

 白髪頭の男の返事は遅れた。勇猛さと裏腹に粋人な軍監はにやりと笑う。笑っただけで余計なことを言わない。チリッとした棘に気づいて指を引く振る舞いは年の功だった。

「ヅラぁ、あけるぜぇー!」

 一番奥のドアをガツンと殴り、チタン製だったから殴った拳の方を痛めて顔をゆがめる。ドアのロックが外れる音がして扉は自動で横に滑る。痛みのまま、人相悪く室内を一瞥した坂田銀時は、ぎくり、と。

「よく来てくれたな、銀時」

 さすがに、した。

「迎えに出なくて、悪かった」

 こっちからわざわざ戦争の手伝いに出向いてやったのに自室に挨拶に来させるなんざズラの分際で生意気じゃねぇかよオイ、という本音は。

「今日は朝から少し熱を出しているんだ」

 驚きにかき消される。

ズラの分際で攘夷軍の総帥の地位に居て、ズラのくせに兵士たちにはカリスマ的な指示を得て軍の士気は高い。そしてズラらしく私室は地味でベッドと机と書棚しかなく、机には墨と筆と硯、書棚には本や地図がきちんと整理整頓されて、そして。

「起きたか。どこか苦しくないか?」

 桂は手紙を読んでいる。なぜか衣文を整えてベッドの中で。その膝の横には寝巻きの男が眠っている。

「銀時が来たぞ。そこに居る」 男に語りかける桂の声は優しい。ベッドの枕元に置いていた濡れタオルで目覚めた男の額と頬を拭ってやりながら。

「挨拶するか?はる」

 それは幼名。成人後からは想像も出来ないのどかな名を、幼い頃のその男は持っていた。春風、という。

「……なに、できたの?お前ら」

 維新派の過激派と穏健派が、大騒ぎして分裂したのに劇的に和解した。一本に纏まった勢力に双方の背後組織があいのりして、攘夷軍は軍資金・火力に恵まれつつある。

「銀時、中に入って来い。握ってやってくれ、手を」

 眼帯を外した隻眼の、潰れた目の目蓋の傷跡が、古傷なのに熱のせいなのか真っ赤で痛々しい。それよりも驚いたのは布団からほんの少し、力なく出された手の手首の細さだった。

「おい……、高杉」

 促されるまま室内に足を踏み込み、そこに横たわる男の手を握った。ごり、と、掌の中で指の骨が擦れる感覚が伝わるほど肉が落ちて、皮膚にも艶がない。それでも男はシーツに半ば埋もれながら、声を出さずに、笑った。

「……」

 幼馴染だ。

 ショックは、強かった。

「連帯は、こういう、ワケかよ」

 それとは別に頭が動く。攘夷派内の二派閥、高杉と桂の合流が、実は不思議でならなかったのだが。

「熱がなければ、まだ少しは喋れる。今日は喉が腫れているから声が出ない。あぁ、でも、会えて喜んでいる」

 その通りだった。高杉は笑った。凶相だが顔立ちは悪くない、悪いどころか美形の範疇に入る目鼻立ちが、和むとひどく明るく見える。……昔から。

 液体のままの純ニトロのように危険で、邪気に近い雲霞を纏っているくせに、笑顔は無邪気で幼く見える奴だった。もっともそんな『笑顔』を、前に見たのは、十年近く前。

「苦しいか?薬を打つか?」

 銀時が撫でてからそっと布団の中に戻した高杉の手を、握ってやりながら桂は尋ねる。いらない、という風に高杉は目を閉じかすかにかぶりを振り、首をかしげて桂の膝に額を押し付ける。

「目が覚めたなら輸液を……、そう困らせるな」

 輸液、と聞いてイヤだ、という顔をした高杉に桂が告げる、口調もおかしかった。優しさを通り越して哀願に近い。

「少しでいいから我慢してくれ。まだ死なないでくれ」

 決定的な言葉を聞いてしまう。

「な……」

 機嫌をとるように、桂が覆いかぶさるように体の位置をずらして顔を伏せる。角度が悪くて見えなかったが、何をしているか、なんて決まりきっている。

「少しだけだ。いいな?」

 お前が言うなら仕方がない、という風に高杉は頷く。それから看護婦が呼ばれ手早く点滴が用意された。ただしそれは通常の腕からの点滴ではない。鎖骨下静脈の太い血管を輸液のラインとして、血管炎を起こさずに高濃度のブドウ糖を患者へ投与する、輸液ですべてをまかなう完全静脈栄養法だ。それはつまり、経口ではもう栄養摂取が出来ない、ということで。

 看護婦によってはだけられた胸はアバラが、可愛そうなほど浮いていた。左右の鎖骨の下に、繰り返し刺された点滴用の針のあとが青く痣になっている。高杉は大人しくされるがままだが、針を刺され管を繋がれる間は苦しそうで、それを慰めるようにぎゅ、っと、桂はやせ細った指先を、毛布の下で、握り続けていた。

 高杉の表情がやがて安らかになり、寝息をたて始める。輸液には微量の鎮静剤が含まれているので、そのせいかもしれない。完全に眠った後で桂はそっと、毛布を引き上げてやった。輸液はまだ続いている。

「……あとどれくらいもつの」

「分からない。医者の話では、明日目覚めなくてもおかしくないらしい」

「癌?」

「そうだ。喉頭癌」

「苦しいヤツだ」

「癌はみな苦しいがな」

 いとしそうに、桂の手が高杉の髪を撫でた。

「ここに来た時はまだ元気だった。少しは酒も飲めた。瓢箪一つ下げて、なにもかも遣るからここで死なせろと言われた時は、なんの冗談かと思った」

 ここ、というのは桂の旗艦。桂の部屋。そして桂の寝床。膝の上、腕の中。

「死に物狂いであんなに一生懸命つくりあげたものを全部、こいつあっさり、俺に投げて寄越した」

 軍隊も同盟も武器も人脈も兵士も戦艦も。

「高杉がねぇ……」

 意外だった。でも当然かもしれない。あの世には何も持って行けない。

「仲間たちを散々扇動して、苦労ばかりさせてくれたこの口がもうじき、動かなくなる。おかしな気持ちだ」

「えーっと、あのさ、その、言いにくいんだけど」

「支度金は帰りに勘定方から貰え。足りないなら机の一番上の引き出しに現金が入っている」

「そーじゃなくってさ。金じゃなくて。なぁヅラ」

「ヅラじゃない、桂だ」

「俺がお前の役に立ったら、俺の頼み一つきいてくれるか」

「ここで死なせろという以外なら聞こう」

「首が欲しい。胴に繋がったマンマで」

「命乞いか。どの首だ」

「土方十四郎」

 桂の長く尖った睫が怜悧に瞬いて。

「真撰組の幹部を助命することはできん。連中には仲間を殺されたヤツが多い」

 攘夷派は波に乗っているが一皮剥けば烏合衆である。カリスマだった高杉の、墓前にではなく生のあるうちに幕府の終焉を見せてやりたいというその一念で、今だけ仮に、一つに纏まっている。

 桂を代表とする穏健派は客分の過激派に遠慮がある。真撰組の名だたる幹部を助命すれば、過激派がただでは済まさないだろう。

「戦場で、配置は真撰組と当るようにしてやる。あとは自分でなんとかしろ。それが精一杯だ」

「……リョーカイ」