シャワーから戻ると、待ち構えていた男に抱きしめられて。

「ひとーつ、ふたーつ、みーっつぅ」

 羽織った浴衣を剥がれる。風呂場にあった洗いざらしの安物だが、裸を守ってくれる貴重な表皮だった。

「……たくさん」

 眠いのを我慢して付き合ってやったのに。

「誤魔化すなよてめぇ。何が五つ六つだ。八つもありやがるじゃねぇか、モテ男め」

 低い声で唸られる。どっちに怒っているのか分からなくて、対応に迷う。体に残った痕は、小刀や懐剣で刻み付けられた浅い彫りの女名前。女にもてることを嫉妬されているのか、抱いた『オンナ』の体に別の名前があることが気に入らないのか。

「……田舎だから……」

 男は素裸で眠るつもりらしい。付き合わせるつもりなのか下着まで剥かれる。逆らう気力も体力もなかった。重なる男の肌がまだ熱い。その下の筋肉はさすがに硬くて、逞しくって、事後の曖昧な気分の中では密着するのも、嫌な感じはなかった。

「要るんだよ、色町の馴染みは。江戸と違って結婚前の素人に、色目つかったら身内が怒鳴り込んで来るぜ」

 田舎で『ムスメ』は氏神の巫女。古い時代の習俗が感覚だけだが残っていて、自分も姪っ子や従姉妹たちに、手順を踏まず近づこうとする若衆を散々に脅しつけた。娘がその若衆を気に入っていれば止めが入ってそいつは助かるが、そうでなければ半殺しまで痛めつけつるし上げることが、その土地では正義だ。

「人妻の手なんか握ってみろ。その場で旦那と決闘だ」

「負けるトシでもないだろ」

「勝ってもオンナの始末に困る。それで責任とらねぇワケにゃいかねぇし、第一、略奪結婚すっと女が調子に乗って天狗に……、ッテテ……ッ」

 内腿に彫られた名前の場所を捻られて、痛い。

「オレが聞きてぇのはてめぇの武勇伝じゃねぇ。なんでこんなに残してあんのかってことだ」

「凄むな。ナンでもない話だ。サイショのが、俺の筆おろした記念に俺の名前彫っていいかって聞かれて、商売モンの肌にキズ入れんのはやとめけ、って、代わりにオレにそいつの名前……ッ、イテ……ッ」

 男の固い爪が別の左脇に食い込む。そこも、疵の残る場所。皮膚が裂かれるギリギリの力で、普段は人目にも外気にも晒さない薄い皮膚を痛めつける。

「……やさしぃんじゃねぇの。いー女だったか?」

「まぁ、まぁだった。義兄が選んでくれた」

「幾つぐらいの女。どれくらい続いてた。今どーしてんの」

「オレより随分年上で、半年しねぇうちに落籍れた。どうしてるなんて知るかよ」

「名前のこししてやるほどご執着なのに冷たいんじゃねぇの?」

「まぁ、不幸せじゃねぇといいな、くれぇは思うけどな」

「それ、どれ」

「……コレ」

 オンナの関節の長い指が動いて、自分の左腰に触れる。その手を引き剥がすように跳ね除けて男はソコに歯をたてる。

「ッ……」

 痛みにビクッと女が跳ねた。洗いたての、まだ湿り気を帯びた黒い前髪が揺れる。噛み付く男の口内が熱い。固い歯よりも舌に宿った熱で殺されそう。

「……ン」

 場所がヤバイ。腰骨の上だ。

「次は、どれ」

 散々、あま噛みされて舐めて、びくびく悶えさせた後で男が口を離す。オンナの目は潤みかけていたが、それでも右の二の腕の裏側を示す。

「サイショよりでけぇな。フツー、次いれる前にマエのは焼き消すンじゃねぇか?」

「縁起わりぃ、ダロ。……本名彫ってあっから」

「ほんっとぉに優しねぇ、トシちゃん」

「……怖い顔すんな」

「新しい女は妬かなかった?俺は今、腹が煮えてるよ。……煙草持ってるだろ。よこせ。火葬してやる」

 だから。

 文句言うなって最初に言ったじゃねぇか、と。

 そう言ってもムダなことは、今までの修羅場で学習済みだった。真撰組きってのモテ男は伊達ではない。

 もっとも、この相手は少し警戒する。馴染みの夜、三夜目の娼妓が寝床の中で、ねぇ、あたしと○○姐さんとどっちがいい?と、可愛く絡んでくるのとは状況が違う。どっちとかはわからねぇがお前がイイと思ってなきゃ名指さねぇよと、なるべくそっけなく言うとすぐ気分を直す単純な可愛らしさはない。

同じように傷跡を舐められても、猫と虎では大違い。機嫌を損ねて牙でもたてられたら大惨事だ。押さえ込まれて煙草の火を、押し付けられないとも限らない。

「未練、とかじゃねぇんだ」

「じゃーなんだよ、戦利品か?コレクションか?ふざけんな。消すぜ。いいな?」

「感謝の気持ちみたいなもんだ。オマエのシルシ一番でかく書いていいから勘弁しろ。ハラでも背中でも、家紋でもへのへのもへじでも」

「……」

「なんだよ」

「……マジ?」

「俺ぁジョーダンは言わねぇよ。ってーか、なにほっぺ赤らめてんだ。キショクわりッ」

「銀さん男の子だけどいいの?」

「フルネーム彫るなら股か足の裏にしてくれ」

「ナニヨ。アタシを毎日足蹴にするツモリ?」

「お前、カマ似合うなぁ。じゃあくるぶしとか甲とか。足袋で隠れるトコならいいぜ」

「あんたすっげぇ優しくね?なんで?エッチしたから?身内に甘いタイプだとは思ってたけど、銀さんもうトシちゃんの身内?仲良し?恋人?イロ扱い?まだエッチ一回で裏も返してないのに馴染み扱いでいーの?それとも初回馴染みの階段のぼっちゃうくらい初夜がお気に召し……、アイテッ」

「すまん。当った」

 ぺらぺら回転する舌を、引き寄せた私服の袂から煙草を取り出す肘の先で粉砕。照れ隠しでもうるさいものは煩い。

「いたぁい、ナニすんのよぉー」

「堂に入ってるな。テレクラでバイトでもしてたか」

「ごめん、俺、指輪買ってねぇや」

「おやすみ」

「ちょっと聞いてヨ。散々スキにしといておわったらオネムなんて勝手なオトコねっ」

「好きにされたなぁこっちだ。おやすみ」

 ごろり、向けられた背中に、男は未練たらたらで尋ねた。

「アタシのことスキ?」

「お前シロートだろ」

「うん」

「シロートと寝る時は覚悟してる」

「ナンのカクゴ?」

「俺をくれてやる覚悟」

「……」

 声も、出ない。

「ちょっと。チャクラ開いちゃったじゃない」

 股間と腰の欲望を司るソレは開いていた。感情の腹も開いていた。告白に胸が痛くなって、今は喉までひりついて、そして。

 目が眩む。眉間が熱くなる。背中に向って倒れこむ。抱き寄せる。もういい加減、限界だったらしいオンナは目覚めない。力の入らない体の感触で、狸寝入りでないことが分かる。

この感覚には覚えがあった。戦争の時。眉間を通り過ぎた光がアタマのてっぺんに抜けていく。自分の命がホンキでどうでもよくなる、ノリノリのあの気分。

幸か不幸か、勃ちはしなかったけれど。

「ねぇ、トシちゃん、起きなよ。見といた方がいいよ、俺の顔」

 黒髪を撫でながら耳元に囁く。

「アンタに恋に落ちちゃった顔だよ」