休息時間

 

 大理石の湯船からまじまじと眺められ、

「……なにかな?」

 滅多なことでは動じない史浩も、さすがに尋ねた。船便を雇ってやって来たシチリア島。

 ただでさえ暑い南イタリアの、この汗ばむ季節に耐え切れず涼介は水風呂に直行。

 史浩はとりあえず、ビデを使っていたところだった。

「いや。いっそ女ならいい眺めかなと思って」

「男だって清潔にすることはいい事だぞ。皮膚病性病、痔の予防にもなる」

「もちろんだ。せいぜい、清潔にしておいてくれ」

「おう」

 ちゃぽちゅぽ水音をたてて史浩は洗い、

「ふぅ」

 キモチ良さそうに服を直す。

 涼介の希望にしたがってローマ、ナポリ、フィレンツェとまわって、シチリアに辿り付く。
  
  大旅行だったがたいした障害はなかった。商人たちの経路にのって、商隊とともに旅をしたから。
 
  今も滞在しているのはローマに本拠地を持つ塩商人の館。
  
このあたりで塩というのは岩塩をさすが、それを掘削するための機器を史浩が発明して以来、

彼の頭脳にほれ込んで様々な便宜をはかってくれている。

 日が暮れていく。遠くから、花火のうちあがる、音。

 ドアをノックされ史浩が出て行くと、ボーイがワゴンを押して入ってきた。

 主人は商売仲間との会合がどうしても外せないので、申し訳ないが夕食はすませていてくださいという事です、と伝言。

 わかったと頷き料理が運ばれる間、史浩は大判のタオルを持って、浴室へ戻った。

「いいかげん上がらないとふやけるぞ」

 浴室差の手前でタオルを広げてやる史浩に、

「……どーしたんだ、お前にしては気が利くじゃないか」

 からかい混じりで、でもけっこう驚いて、涼介は笑う。

「みんな見てんだよ」

「みんな?」

「この屋敷についてからな。召使や侍女がうろうろ、廊下だの庭だの歩き回ってる。お前を見ようとしてだぜ」

「ご苦労なことだ」

 苦笑しながら、でも案外、まんざらでもなさそうに涼介は言った。

「寝床まで一緒で見向きもしない男も居るのになぁ?」

「誤解を招く言い方をするな。俺はまだ、お前の弟に切り落とされたくない。

  寝床が一緒だったのは船で雑居の部屋しかなかったから、お前が俺と居るのは俺がお前に色気を持ってないからだろ」

 さぁいいから髪を拭え。ここは女や宦官ばかつかりのハレムじゃない。

 下帯だけの濡れ髪でうろうろしてたら目の毒だ。世間に迷惑だと、さっさと史浩は涼介の髪を拭う。

 ベッドに押し倒そうとは思わないけれど、それは嫌な仕事ではなかった。イ

 タリア人にとって黒髪はもっとも美しくセクシーに見える。それは史浩とて例外ではない。

「メシ、食ったらでかけるか。前夜祭で、愉しそうだぜ」

「ナニがあるんだ?」

「大道芸とか、からくりとかな」

 

 祭りは愉しかった。

 雑踏の中を好きな方向に歩けるだけで、涼介には珍しく愉しいことだから。

 史浩はからくり人形や仕掛けをを見かけるたびに立ち止まり、過分の金を与えてそれを描いた。

 肖像画が原因で殺されかけたこの男はしかし、無機物の模写は素早く的確にやってみせる。

 覗き込んだ男が感心し、しまいには見世物よりも史浩にひとだかりがしたほど。

「あれは、どうなっていたんだ?」

 上部から水を注ぐと下部から細い管を伝って溢れてくる、仕掛けがあんまり不思議だったから尋ねる。

「真空を利用してあったと思う。多分、四隅の柱に細い管が通ってる」

「真空?管?」

「麦わらで水を吸って、戻して。そうやってると麦わらの中で水が動くだろ?あれだ」

「見ただけで、よく分かるな」

「見れば大抵のことは分かるが、考えつくってことがまず大事だからな。作り出す発想そのものが才能だし」

「才能ねぇ……」

 呟き、横から史浩の手元をみつめる涼介を、町中の娘と青年が見つめている。二人は気づかない。

  史浩はスケッチに夢中で、涼介は見られることに慣れすぎて。

 

「……決闘?」

 翌朝、祭りの当日。商館の主人と同じ食卓に着いた史浩は眉を寄せた。

「お前がするのか。へぇー」

 乾燥無花果をパンに挟んでパクパク食べながら、涼介は面白そうな顔。

「いや、そんな乱暴な話ではなくて。ただ史浩君、君のお連れがあんまりお綺麗なので」

「……はぁ」

「優勝者の賞品になっていただきたいのだ。あぁ、もちろん、不埒なことはさせないよ。

  一位のものに冠を被せて、そう、額にキスでもしてくれれば上等」

「それはお伺いしましたが、で、どうして俺が出ないといけないんですか」

 シチリアの祭りの最終を飾るのは裸馬にまたがっての競争。

  十数人の若者が街中を駆け抜け教会前の広場を目指す。

  さらに教会を三周してゴールに辿り付く頃、人数は二人か三人に減っている。他はみな、ふりおとされてしまうのだ。

「まぁ、綺麗な人を手に入れた男の税金と思われるんですな」

 商人は笑っていた。

 

 そうして、食後。

 デザートの桃も食べずに史浩は、厩の馬を借りて裸馬に跨る練習をした。

「お前……、ムリだぞ」

 中庭の木陰で小刀で桃を剥き、甘い果肉に齧りつきながら、涼介。

  史浩と一緒に居るようになって以来、彼は旺盛な食欲でぱくぱくとものを食べている。

  おかげで病的なほど痩せていた肩にも頬にも肉付きがもどって、でもまだ少し、細い。

「裸馬に乗るのは特別な技術が居る。幾らお前でも、ぶっつけじゃ、ムリだ」

「だから今、練習しているだろうが」

 史浩という男、むっくりした体型と垂れ目に似合わず運動神経はいい。

  あちこち旅する事が多いので馬にもけっこう、達者に乗る。しかしそれは鞍と手綱とがあってのこと。

「諦めてほら、お前も食えよ。美味いぜ」

「……腹を壊すなよ」

 涼介の手元に積みあがった皮を見て史浩はため息。

  おぅと適当に答え、涼介は木陰から日差しの強い中庭へ出てきた。

  桃の窪みに沿って小刀で切れ目をいれ、左右をねじれば、かぱっと種は取れる。

  白い指で皮をめくってやり、つるんとしたのを、史浩の口元へ。

「あー、美味い」

「トルコのはもっと美味いぜ。甘くて、大きくて」

「取り寄せてもらおうか?」

「いい。あそこのは、二度と食べられないから」

 諦めたような呟きに、

「……そんなことはあるまい」

 史浩がそう答えたのは、二度と帰れない、という意味と思ったから。

「毒入りじゃ食べられない。どんなに甘くっても」

「……」

「言ったろ、毒殺されかけたって」

「……」

「あのあと弟が心配して、殆ど口移しみたいにしてくれたけど、やっぱりどうしても桃は食べられなかった」

「こっちに居るうちに、山ほど食っておけ」

「あぁ」

「食ったら昼寝しろよ。暑いからな」

「お前もいい加減、諦めて来い。どうせ勝てやしない」

「分からないじゃないか、そんなこと」

頑固なところを見せて史浩は、しがみついた馬に合図してそっと、歩かせる。

「要は振り落とされないで、ゴールすればいいんだ。俺以外のヤツが揃って落馬する可能性もあるんだから」

「そこまでなんで一生懸命になるんだか」

「だってお前、知らない男にキスなんか嫌だろ」

「慣れてるぜ、それくらい。俺はハレムの男妾あがりだ」

「でも嫌だろ」

「……」

「お前が断れなかったのは俺のせいだからな。ここの商人は俺の後援者だ。

  祭りってのは要するにガス抜きで、若い連中のストレス発散させるため。

  施政者の一員のここの主人も若者たちの要求を無碍にはできない」

「史浩」

「せめて俺なら、少しはマシだろうが」

「怪我するなよ」

「おぅよ」

 

 日が西に傾く頃、祭りは始まった。

  背中にしがみついたまま、なんとか馬を走らせることが出来るようになった史浩は懸命に走った。

  教会前の広場までは、無事に。そこへたどり着いたのは十六人中、十一人。ここからの広場三周が問題だ。

  相手を邪魔していいから。進路妨害、体当たり、脚をひっかけて馬の背中からひっくりかえすことも。

 すいーっと近づいてくる人馬があって、くそここまでかと史浩は覚悟。

  馴れた地元の青年たちと違って彼は、乗っているだけで必死だ。妨害も、妨害を避けることもできない。

  革靴の足が伸びてきて、それでも必死に鬣にしがみついたとき。

 不意に、二つの馬体の、狭間に入ってきた白馬。

 淡い灰色の鬣と真っ黒の蹄が印象的なその馬は、史浩によってきた馬にちょんと当て、馬ごと乗り手を転がす。

  見事な技量に目の肥えた観衆からは熱狂的な歓声。もっとも史浩の耳にその声は届かなかった。

「おま……」

 お前とか、よくもとか、性悪とか意地悪とか。

 言えなかった。舌を噛みそうで。そして追い越しざまに抜いていった白い美貌が……。

 見た事がないほど愉しげに、嬉しそうに笑っていたから。

 

 優勝者の望みは絶対なのだと、着せられたブーケ。白のレースは涼介にならさぞ似合ったろう。が。

 肝心の涼介はぴっちりした乗馬服の襟を開け、差し出される布で流れる汗を拭っている。

  飛び入り参加の優勝は本来、地元のねたみを買うはずだがそんな気配はなかった。腕が、あまりにも段違いだから。

「アラブ育ちなんですって」

「まぁ……、本場ね。素敵」

 女たちの囁きの中、史浩はばさっと月桂樹の冠を涼介に被せる。

  キスはと要求され拒んだら、出場者の男たちに押さえつけられさせられた。

「やーめーろー」

 史浩が嫌がって暴れても照れたとしか解釈されず、祭りの夜に笑い声が、響く。

 

 食べて、飲んで、酔って。自棄で歌なんか歌って。

 酔いつぶれた涼介を、離れに連れて帰ったのは夜明け前。一緒に飲んだ連中に花なんか投げつけられながら。

 どんな美女でも美男でも、酔いつぶれればただの酔っ払い。

  意識を失って重い身体を寝台までようやく運んで、そのまま隣で寝た。

 そして、翌朝。

「……すけ。涼介、起きろ」

「……嫌だ。今日は、寝ている」

「政変があったらしいぞ。トルコで」

「……」

 史浩の言葉に涼介が目を開けると、史浩は既に旅姿だった。

 食料や寝袋を詰め込んだ皮袋まで用意されていて、あとは涼介が着替えるだけ。

「詳しいことはここでは分からない。ベネチアに行こう。情報を集めるにもトルコへ戻るにも、あそこが一番いい」

「分かった」

 美貌がきゅっと引き締まる。

 

 休息は終わり。優しい時間は、ここで終わり。

 

 船に乗り込んだあとで、

「……夢、みてた」

 ぼつりと涼介が言い出す。

「なんの」

「弟」

 内容は、涼介は話さなかった。史浩も聞かなかった。

「痛かったかって、聞いたんだ、あいつ」

 寝台の下で、残酷な初夜。けれど。

「その前にも後にも、宦官に張り型いれられたのもいれたら、ほんと散々……、遊ばれたけど」

「寝てろ。強行軍になるぞ」

「みんな俺のこと、突っ込みゃ悦ぶアレだけだと思ってる。……そんなこと聞いてくれたの、あいつだけなんだ」

「決まったわけじゃないだろう、まだ」

 政変が起こったからって即座に、宗主が殺されたと決まった訳ではない。

 殺された確率はとても高いけれど。

「食べて寝ていろ。体力勝負だぞ」

「……分かった」

「お休み」

 それから暫く、航路や情報源を調べる史浩が、書物を捲る音だけが聞こえた。

「……なぁ」

 寝付けないらしい涼介の、らしくない細い声。

「どう言うんだ?」

「なにが」

「お前たちの神様に祈る時」

 なにをどう、祈るのかは尋ねなかった。

「天にまします我らが父よ、だ」

「……ありがとう」

 

 啓介、啓介。

 生きていて、お願いだから、無事でいて。

 無事でいてさえくれるなら、必ず助けるから。

 

 ……死なないで。