妓楼・11

 

 

 

 その日、男はご機嫌だった。

 まず目覚めから良かった。鼻の利く男は早朝に、共寝の相手の異変に気づいて目が覚めた。

「……おい」

 幸福そうだがどこか苦しそうな顔で眠っていたオンナを揺り起こす。なんだよぉと、まだ薄暗い部屋で目をこすりながら不平の声を上げたオンナは。

「血」

「ちぃー?」

「出てるんじゃねぇか?」

 そう言って数秒間、オンナは意味を理解しなかった。が、ぱっと暗闇の中でもはっきり分かるほど顔を赤らめて、寝巻き代わりの襦袢の裾を翻して風のようにさっと、跳ねるように素早く走って浴室へ消えた。

 その機敏さが野生動物のように見えて男は笑った。自分たちの初夜と同じ反応だった。あの時も、驚愕と疲労で茫然自失、という態だったのに、血が出てるぞと指摘すると、即座に起き上がって走り去った。

 起きたのはこのベッドから。向かった先も同じ浴室。その仕草は本当に昔と同じで、男の気持ちを和ませた。

ゆりかごの後の眠りを、失った十四年間、自分が『遅れた』時間をキリキリ、胸が軋むほど口惜しく思って、苦しんでいるけれど。

あの銀色を抱いているとその怨念が少しだけ薄れる。容姿やセックスの味は多少変わったが、変わっていないことも多い。記憶どおりの仕草や反応は愉快で、救いでさえあった。

「な、ぁ。そっち、よ、ごして、ねぇ、か……?」

 バスルームに続くドアウがほんの少し開く。隙間から、姿は見せないまま、オンナがそっと尋ねる。男は肌触りのいい綿毛布を持ち上げて確認。

「大丈夫だ」

「そっ、かぁ」

 この大胆で豪胆なオンナは、昔も同じコトを男に訊いた。同じ口調で、同じくらい不安そうに。

「粗相したって折檻しやしねぇぞ」

 らしくない気弱さが面白くてくすくす、笑ってしまう自分の反応にさえ既視感があった。

「生理現象だ。仕方ねぇ」

「生理現象だから余計、恥ずかしいんじゃねぇかぁ」

 そんな会話にも覚えがある。処置をしてそっとバスルームから出てきたオンナも、同じコトを思ったらしく。

「ナンか、今の、前にもあったよな?」

 そんなことを尋ねる。あったなと男は答えて毛布を持ち上げてやる。男の方も、らしくないほど紳士的な仕草だった。

「あー、うん。いい。控え室で寝る」

 なのに拒まれて男が眉を寄せる。

「あぁ?」

 凄んでみせる。低く掠れた威圧的な声で。

「だ、ってよ……。生臭いだろ……?」

 男の剣幕にびびりつつ、オンナはベッドに近づこうとはしない。

「お前、マジ、犬並みだからなぁ。よく気づくからよぉ、鼻につくだろ?」

 それは月経の血ではなく、殺人の返り血の話。そもそも娼婦は月が出ている時は商売をしに来ないから、その関係の出血を嗅いだことはこのオンナの破瓜と今回だけ。

「血の匂いで、殺されたヤツの性別とか年齢まで当てるじゃねーか。近くに居たらよぉ、臭ぇだろ?」

「来い」

 厳しい声を意識して出した。おずおず、という様子でオンナが素足で絨毯を踏みしめ近づいてくる。若猫のように跳ねて浴室に消えた動きとは別人のようだった。

「臭くなったら蹴れよぉ?」

 心配そうにオンナは男の隣に戻ってくる。シーツの上で距離をとろうとするのを、男の腕が巻きついて阻む。距離をとらせるどころか細く薄っぺらい腰を引き寄せ、自分のと重ねた。

「めでてぇな」

「ナニが。お前の頭かぁ?あいてっ」

「てめぇのハラだ。あがってなくって、良かったじゃねぇか」

「おぉーい、そこまでまだババァじゃねぇぞぉー!」

 オンナが吼える。遠慮がちにしているより、怒鳴り散らしている方がらしくて、男はまた、笑う。

「齢は関係ねぇ。売女にゃ多いだろ。壊れてるのがよ」

「……、あぁ。まぁ、なぁ……」

 そっちの真面目な話しかと、オンナは表情を改めた。確かに娼婦には多い。避妊薬の服用過多や、性病に繰り返し罹患して慢性になってしまうことがありがちで。

「ボンゴレの地価に繋がれてた時はぁ、オス卒業したジジィどもに嘗め回されんのが主だったし」

 オンナは単純で正直。男のことを愛しすぎているせいで誘導尋問にすぐに引っかかる。思い出したくないと言って拒んだ過去を、無意識に喋ってしまう。

「十八になって、ロリジジィどもにウケなくなって廓に叩き売られたけどよぉ、わりとすぐ、二ヶ月か三ヶ月ぐらいで跳ね馬に見つかってよぉ」

「……ふん」

「務めがきちぃ時ゃ勝手に身揚がりしてっと、後で帳場に揚げ代払ってくれてた。アイツのお陰でお職(売り上げ一番の売れっ妓)だったからよぉ、色々帳場も気ぃ使ってくれて、けっこー、甘やかされてた、かもなぁ」

「……」

 男が黙り込む。目が据わりかけている。オンナは男の腕の中で腹を据えた。言いたいことは言ってしまおうと思った。

「悪く思わねぇでくれよ」

「……」

「馴染んだ客は何人か居るけどよぉ、みんな優しかったぜ。奴らに八つ当たりすんなよぉ。売ってあるのを買ってくれただけだぁ。みんな優しかったぜ」

 痛い目に会わなかった訳ではないけれど、時間キメで肉体を切り売りして使われるような本当の娼婦に比べれば、小見世とはいえ色恋沙汰の要素が絡む揉め事は甘っちょろいうち。廻しをとらされる紋日には毎回、仕舞い札を出されて賑やかな廓内で一人、酒を飲んで早寝していた。廓に三千人といわれる女郎の中でも、そう多くがそんな境遇に恵まれる訳でもない。

「……ツラはそこそこだからな……」

 男が呟く。腕の中のオンナが売れっ妓だった話を聞かされた感想がそれなのは実にこの男らしかった。顔はそれなりにいいから、という発言は裏返せば顔以外、つまりカラダは肉付きが足りなくて、こんなのが売れ行きがいいのが信じられないと、そういう失礼な意味。

「お陰で、生きてこれた」

「……」

「俺の馴染みと喧嘩しねーでくれよ」

「……まだ続いてンのか」

「自前になったって言ったろ。年季明けで一旦、全部と、手ぇ切った」

「……ふん」

「けっこー、ギョーカイの奴ら多いんだけどよぉ」

「跳ね馬と、それから?」

「ツラ合わせても知らんふりしとけよぉ。喧嘩って向こうに迷惑かけねぇでくれぇ。それがよぉ、お前のタメでもあるぞぉ。売女に昔馴染みが居るのなんざ当たり前で、まともなオトコは、気にしねーもんだろぉ?」

「足りない頭で気にしてたのはそれか」

「気にしねぇよなぁ」

「ふん」

「しねぇって言えよォ、なぁ。お前のタメだってぇ。オレもぇお前のナンでもねーんだからよぉ。カンケーねぇだろぉ?な?」

「キャバッローネと、後は?」

 男の問いかけは感情的なものではなかった。

「……」

 むしろ落ち着いていた。が、今度はオンナが黙り込む。

「弟子とか言ってた若いのもだな?」

「……」

「ツラに返事かいてあるぜ」

 男の腕の中で俯くオンナの顔が見える筈もないのに男がブラフをかける。馬鹿なオンナは肩先を揺らす。白状したも同然。

「教え子のガキに手ぇ出したか。行儀わりぃぞ」

 非難がましい台詞を口にしているくせに男は笑い声。行儀の悪い、性悪な女は嫌いではない。やるじゃねぇかという感嘆もないではなかった。少なくとも、キャバッローネの金髪だけで居られたよりも、ずっと面倒はない。

 一対一の関係が長く続けば、正妻でないとしても内縁関係、囲われていたということになる。商売女であっても専属と認識されてしまえば面倒なことになる。

マフィアの男に女遊びは許されている。が、継続的な関係を築いてしまった女を粗末にすることは、真っ当なマフィアーソのすることではないという、ことになっている。妻以外の妾であったとしても、そうして他人の所有物に興味を持つことはご法度。

 キャバッローネの金髪の、持ち物になられていたら面倒なところだった。複数の馴染み客ならそれよりは問題がない。ないと思ったが、一応、オンナに向かってイヤミを言っておく。

「面倒くせぇな」

その面倒、というのは、自分のものにする手続きのことを男は言ったのだった。

「すて、る、かぁ……?」

 オンナはそれを全く理解しない。

「棄てられてぇのか、てめぇは?」

 男はそんなオンナを言葉で嬲りだす。

「られ、ても、しかた、ねぇなとは思ってる。……思ってる、けどよぉ、もちょっと……、なぁ……」

「なんだ」

「もちょっと、後にして、くれよ……。まだ……。ずっと待ってたんだぜぇオマエのこと。もーちょっと……。ちょっとだけ、鰆らせて、くれよォ」

 鼻声まじりの湿った哀願が耳に心地よかった。十四年も玩具にされてきたのならダメになってるかもなと思っていたオンナのカラダが正常に機能していることを知って、なんとなくふっくらとした気持ちになったところにそんな声を聞かされ、オトコは実に満足だった。

 だから。

「そんなことを考えてんじゃねぇ」

 あまり長くは苛めないでおいた。

「世話になったな、って挨拶して廻るのがうぜぇと思ってるだけだ」

 オレのオンナが世話になった、と。

自分が留守をしていた間に受けた『後援』なら、そういうギリを果たせばチャラになる。向こうにする気がなくってもしてしまうつもり。面倒だが、しなけれはならないことだろう。

「挨拶……?」

 意味を全く理解せず。

「ジジィんとこ、行くのかぁ?」

 そんな馬鹿げたことを言い出すオンナを、殴る代わりにぎゅうぎゅう腕で絞め上げて、苦しいと悲鳴を上げさせ許してやった自分のことを、心が広いと、オトコは正気で思っていた。

 

 

 さらに。

 

 

 その日の昼食には好物が届いた。

「ルッスのローストビーフかぁ。うわぁ、懐かしいなぁ」

 オンナが嬉々として切り分ける。ばら色のそれに粒マスタードをたっぷり、それとラムのソーダ割で昼食を済ませる。実にいい気持ちだった。食後にシャワーを浴びて、そして。

「新聞の縮小版、持ってこいって言え」

 軟禁された部屋の『外』と、連絡をとっているオンナに告げる。疲労は回復、心身ともに復調。となるとこの男の、案外な『真面目』さが目覚める。自分が失った十四年間の流れを把握しようという態度は、それを受け入れきったということだった。

 そうして。

 自分を軟禁している沢田綱吉に対して、自分から差し入れの要求をするというのはある種の意思表示。こちらには交渉の余地ありと、向こうは解釈するだろう。

「十四年分かぁ?後先、どっちにする?」

 銀色が問い返す。一度に揃わない場合、最近から読むか昔のを優先させるかと尋ねている。

「昔が先だ」

「おぅ、分かった」

 男の望みを伝えるべく銀色は内線へ向かう。ボンゴレ本邸の通信は防諜の関係上、全てが有線。背中を向けたオンナの後姿を、男はじっと眺めていた。

「もしもしぃ、ヤマモトかぁ?オレだぁ。頼みがあんだけどよぉ、新聞の……」

 脱がして抱き寄せれば手ごたえの寂しさに男にため息をつかせる細い腰。だが着物を着ている姿はすらりと美しく、かなり格好がいい。膝下までの襦袢に薄物の単衣を重ねて、青磁色のそれが素肌と襦袢とて微妙に透け方が違う様が美しい。髪の色とよく似た銀色の帯まで、揃えて贈った男が誰なのか、男は敢えて考えないことにした。

そそられるまま、歩み寄る。足音は絨毯に吸い込まれて、電話に夢中のオンナは気づかない。

「あぁ、食ったぜぇ。ルッッスにさぁ、美味かったって、オマエから伝えてくれぇ。……あぁ。……、うん。……分かってる。感謝してる。……、はは」

 愛弟子、と、なにやら小声で楽しそうに喋る相手が許せずに。

「……、っ、ヒ……ッ!」

 受話器を持っていない腕の、肘を掴んで振り向かせざま、薄物の襟に手を入れをふっくら膨らんだ懐に侵入。襦袢の上からぎゅっと握る。そういう時期のせいか普段より張って手ごたえがいい。欲情して膨らんだ時の感触に似ていた。

「てめ、おいっ!離せぇ、チカン、エロヤローッ!」

 オンナは嫌がって暴れて抵抗する。何も考えずにジタバタ暴れては大声で怒鳴り散らす。床に転がった受話器に声が拾われていることなど、少しも気づかずに。

「い、ってぇって、オイッ、やめ……、ちょ、マジ……、ヤメロ、よぉ……。イヤって……」

 背中から床に押さえつけ、腕を廻して胸の膨らみを弄ってやる。暴れていたオンナがやがて大人しくなって、声も高く、透明に震えだす。

「い、っ、て……、ぇから……、ヤメ……」

 哀願する肉付きの薄い唇に、男は右手の親指を突っ込んで舐めさせた。

「ん……」

 オンナはわりと素直に吸い付いて舌を絡めだす。

「潮が満ちてる真っ最中ってのは発情期じゃねぇ筈だが」

「ちゅく……、ん、ン、ふ」

「ヤりゃしねぇから安心しろ。……残念か?」

 胸を弄られてオンナは最初、本当に痛がっていた。が、やがてその痛みが、ピリピリ、微妙な刺激になり始める。凝りをほぐされていくのは気持ちが良かった。痛いから触るなというのは嘘ではなかったが、包み込むように揉まれているうちに肩から力が抜け、それの脱力が全身に広がっていく。

「ん……、ン……、ッ」

 大人しくなってきたオンナの唇から指を引き抜き、絨毯の上に向けに姿勢を戻して、男は細い腰に跨った。見上げてくるオンナは怯えて不安げで、でも、ほんの少しだけ、何かを期待しているように、見えた。

「ヤりゃしねぇ」

 安心させるように、重なりながら、男が囁く。

「マッサージしてやる」

「……ああぁ」

「なんだ」

「思い出したぜぇ、今ぁ。あんときゃナンかの、手当てしてやる、とかだったけど、よぉ」

「ん?」

「だまして脱がせて、ヤリやがったの。まさか忘れたのかよテメェ」

「だったか?」

 男の記憶はかなり怪しかった。てめぇもー死にやがれぇと、オンナはそんな遠慮のない悪罵を大声で、絶叫。

「バージン、ゴーカン、したことぐれ覚えとけ……ッ!」

「してねぇ」

「した……、ッ、ひン……ッ!」

「してねぇ」

 それははっきり覚えていると、薄物の襟をはだけさせ襦袢の上から、ツンとたちあがった乳首を抓みつつ、自信満々に男が言う。

「てめぇが濡れてからヤった」

 だから強姦ではないと、正気で言い放つ男に。

「死んじまえぇ、。バカ、やろ……ッ」

 負けて目を閉じ、甘く喘ぎながらオンナが言った。

「そのうちにな」

 男は答える。案外と真面目な声で。

「どうせ一番、前に行かされる」

 戦争が始まれば、と、男がそう、言っているのをオンナは理解した。有り得ないことではない。突然戻って来たボンゴレの若い御曹司は、既に当主の地位についた若い十代目にとっては目障り。戦争の中で危険の高い場所へ場所へと行かされ『始末』されるだろうことは予想できる。

「そのうちまた、居なくなってやる。それまで好きにさせろ」

 男は淡々と話した。が、オンナはひどい衝撃を受けてしまう。切れ長の目が丸みを帯びるほど見開く。その表情があんまり痛々しくて、見ていられずに、男はオンナの目元を掌で覆った。

「……なぁ」

 もう一度、気分を出して改めて、重なって来る男に自分から腕を廻しながら、目隠しされたままのオンナが口開く。

「なんだ」

「連れてけよぉ、今度はぁ……」

 オンナの声にも、それほどの感情は篭らず、男と同じく淡々に近い。

「何処でもいい。終わるンでも眠るンでも、どっちでもいいから、つれてけぇ……。独りになりたくねぇ……」

 願われて、男は黙って考えた。オンナには見せずかなり真剣に。そして。

「だめだ」

 優しく告げる、男の掌の、内側が湿った。