妓楼・2
吉原の裏通りに面した場所には小見世が並ぶ。並んだ小見世の隙間から横丁の路地に入り込むと、そこには花屋、風呂屋、小間物屋に食べ物、雑貨を売る素人屋が店を構えている。どこの店も清掃が行き届き軒先にちょいと季節の花や人形を、飾っているのが廓内らしい眺め。
廓内の食べ物屋は菓子と寿司と蕎麦が多い。中でも寿司は大抵が仕出し屋も兼ね、ちょっとしたオードブルの盛り合わせも出前をする。
それらは台に載せられ運ばれてくるため、食べ物の出前を廓では台の物と称する。寿司台、蕎麦台、菓子台という種類がある。また価格でも分類され、宴会用のオードブル盛り合わせの場合は大台が一分(一両の四分の一。二〜三万)、並台が二朱(一部の半分)。酒もつけるとかなりいい値段になる。
そんなものをとる客は小見世には少なくて、もっと腹にたまって安価な寿司か蕎麦に人気がある。中でも保存がある程度きく押し寿司は廓の名物で、季節によって鯵やコハダと寿司飯を押した箱寿司を売り歩く。
「寝てんの、泣いてんの?」
竹寿司の息子も以前は肩に寿司の箱を載せ、界隈を売り歩いた。その声がよくて年増女郎たちには人気があった。明るくて素直で朗らかで正直で、こんな町には珍しい美質を備えた少年だった。
「ディーノさん、ボンゴレ本部に乗り込んできたのな。なんと黒のスーツ着込んでさ。あの人がスーツ着てるの見たのって九代目の葬儀以来じゃね?あーゆー格好もよく似合うよな。いい男って、なに着ても格好いいのなー」
そう言う本人も相当の線をいく男だ。二十歳を超えて少年時代の繊細さはなくなってしまったが、荒削り精悍に仕上がった横顔は若々しいオスの野生的な魅力を湛えていて相変わらず年増オンナにもてる。
最近ではそれに子供が加わった。剣術の腕を認められ、大名屋敷の武官として採用されて、若様の武術師範をしている。一介の町人身分から一芸を認められての侍づとめは、廓内で生まれた子供から思えない大出世。廓の男の子たちは竹寿司の息子に憧れもして、勇気付けられてもいる。その『出世』がボンゴレという闇組織に腕を認められ身を売った見返りだとは知らずに。
「あの人ここんとこ、オレにすっげーアタリきつかったのな。んでも昨日は挨拶したら会釈してくれて、そんでオレ、あんたヤられちゃったんだなぁ、ってさぁ」
わかった、と、囁きながら、若い男は部屋に入ってくる。布団の中で横になったオンナは起きている様子だったが、入るなとも言わなかった。
「無理やりだった?悲しかった?でも泣いてもイマサラだろ。元気だせって。寿司でも食って。起きろよ、ほら」
手に持っていた箱膳を枕元に置いて、若い男はその横に座った。身分上、今は実家に帰っても箱寿司の振り売りは手伝わない。けれど人目につかない店の掃除や皿洗いは自分から手伝う、相変わらずよく出来た息子に父親は甘い。その口利きで二階を借りたいという近隣の小見世の番新が部屋に居るときは、店の仕事のついでに食事を差し入れてくれる。
それがまったく手をつけられないと、息子に連絡が入ったのは今朝。父親は二階を借りた番新を息子の恋人の一人だと思っている。二階はもともとこり息子の部屋だった。そこを使わせてやってもいいかと言い出す相手が他人でないだろうという推測は、ごく当たり前のもの。
「食わねーの?腹へってねーの?んじゃオレだけで食うぜ。だってここオレの部屋だもーん」
ナニがだもーんだ、と、布団の中で銀色のオンナは思った。かちゃかちゃ、箸を使う音。健康な咀嚼音。煮物の出汁のいい匂いが厚い布団の中にまで届いて、それに、若い男がさりげなく漏らしてくれた話の、詳しいことも知りたくて。
「あ、起きた?オハヨー」
むくりと起き上がったオンナに、夕刻には不似合いな声を若い男は掛けた。にこにこしながらおしぼりを差し出す。オンナがそれで顔を拭い手を拭い、衝立の陰で浴衣の寝巻きを黒襟の部屋着に着替え、寝乱れた髪を束髪になおして出てきた時には布団は片付けられ、オンナの分の膳の上の盃に、オンナが好きな真っ赤な葡萄酒が満たされていた。
「乾杯しよっか。二度目の御開通〜」
「……コロスぞ、てめぇ」
「凄むなよ。自業自得だろ」
しらっとした顔で、そう言う山本武の真っ直ぐな視線には湿っぽい同情がない。この残酷な剛直が知っている別の男に似ていて、銀色はこの竹寿司の息子を以前から、かなりお気に入りだった。我流だった剣術の初歩を教えてやったのもオンナだ。オンナ自身は我流を極めていたが、それは流派を噛み砕いて得た洗練のカタチで、素晴らしい価値があった。
「オレの言うこときかねーから酷い目にあうんだぜ。別れる切れるにもやり方があるだろ、ここでは。色男(女郎のお気に入りの客)のつもりだったのに金蔓だったみたいな扱いされて、黙ってられる筈ないのな、オトコがさ」
しかもその扱いは、恥辱は公開されている。何年も逢瀬を重ねた一番の馴染だったのに引退と同時に手を切ろうとされて、金の跳ね馬は傷つきもしたが怒りもした。
「ディーノさんってさぁ、お預け、慣れてないヒトじゃん。オレは獄寺が盆と正月だから、寂しい時は時分の指咥えてしゃぶってんのも慣れたもんだけどさ」
跳ね馬のディーノのような煌く美青年ではないが、隠れニヒル系のいいオスに育ってきた若い男が正直すぎることを言った。
「しかもオレと違って、世間が広いじゃんあのヒト。蔵前の付き合いってすっげー派手じゃん?その度に小見世女郎にふられたんだってよとかって、札差仲間に後ろ指さされんの、考えただけで気の毒じゃん」
「……てめぇ、あの駄馬の味方する気か?」
「オレはあんたの側だぜ」
膳の上にはコハダのなますに小鮎の南蛮漬け。野菜と鴨ロースの焚きあわせを冷やしたもの、刺身は初鰹を豪快に生き造り。天ぷらは塩もみして水気を抜いたゴーヤの薄切りとエビの掻き揚げ。それに寿司の盛り合わせにデザートのメロンまで、彩りよくを通り越してやや乱雑な印象を与えるほど盛り付けられている。刺身は膳に載りきれず、別の鉢で二人分を供されるほどに。
吸い物はシロウリで、葛を加えたとろりとした食感と土生姜の薬味がさっぱり、鰹とよくあった。
「味方だからホントのこと言ってんだろ。手ぇ切りたいなら仮病使えってあんなに言ったじゃん。せめて半年ぐらい、病気って言い張って須崎の寮(別宅)で療養とかしてたら、ディーノさんは心配するだろーけど面子は潰れないし、腹も立たないのにさ」
若い男は確かに最初からその手段を忠告し続けていた。
「許されねーよ、仮病も療養も」
「費用は出してやるって。年季の明け祝いに」
「金のハナシじゃねぇ」
「ツナには、オレが頼んでやんのに」
「ボンゴレに、ンなつまんねーことで借りつくるんじゃねぇ」
「つくるも何も、俺もーどっぷり、そこの一員なんだけど?」
それも並の構成員ではない。十代目を襲名した沢田綱吉の雨の守護者にして指折りの側近。既に出会った時の少年ではない。それもこれも、この『オンナ』が仕舞い揚がりの暇つぶしに少年に剣技を仕込んでくれた、おかげ。
馴染み客が女郎の揚げ代を支払って、姿を見せないことをそういう。紋日は節句の行事日であることが多く、得意先への挨拶回りや接待で忙しい跳ね馬に金だけ払われて徒然をかこつことが伊勢膳の銀色には多かった。
「あんたオレの恩人なのな。マジ、オレ、自分がこんなになるとは思わなかったモン」
腕もあがった。そうしてそれには買い手がついた。予想外に高く買ってもらえて、キレイな恋人も出来た。けれど、それとこの銀色とは別の話。恋人は骨の髄から裏社会に馴染んでいて、相手が玄人なら浮気のうちには入らないと本気で思っている。あまりにも嫉妬をしてもらえず、山本武は落ち込むこともあるほど。
「はい」
真っ赤なワインが空になったのを見て山本がデキャンタを手に取る。受け取り、こくこく、というカンジでオンナはそれを飲み干す。
「なんだぁ?」
にこにこ、それを眺める山本にオンナは眉を寄せた。唇が天ぷらの油で少し光っているのが可愛いと、若い男はますます頬を緩める。ゴーヤを薄切りして塩もみし、エビと一緒にあげてた天ぷらはこの銀色の夏の好物。天汁をつけずゴーヤに残った塩気だけで食べるが、独特の野菜の苦味とエビの身の甘みが実に調和して、ゴマの香りがする衣ともよくあって、美味い。
「そんな真っ赤な酒ばっか飲んでんのに、なんでアンタに色がつかないのかな、って」
思ったと若い男が笑う。バカかと、オンナは鼻を鳴らす。
「どーだった?」
「美味いぜ」
「メシじゃねーよ。ディーノさんとさ、どーだった?」
「……」
さすがに、そんな無神経な質問は思いがけなかったらしいオンナが小鮎の南蛮漬けに伸ばしかけた箸を止める。甘酸っぱい南蛮漬けのタレには薄切りの玉ねぎがこれでもかというほどマリネされしんなりと小鮎に添い、唐辛子の赤が鮮やかで食欲をそそる色合い。
「何ヶ月ぶりだっけ?久しぶりだよな?オレにもダッコさせてくれないぐらいだもん、まさか他のを、客にはとってないよな?」
自分は辛口の清酒をひやで飲りながら、じっと銀色を見つめる若い男の視線がオンナの肌を這う。触れられたような気がしてオンナは無意識に箸を持った手で襟を掻き合わせた。
「色客だって、信じてたのに、いきなり振り捨てられて」
「……タケシ?」
「怒ってんのがディーノさんだけと思ってた?」