妓楼・4

 

 

昔のはなし

 

 

 蔵前という地名はそのまま、戸地の性質を現している。全国に散在する幕府の直轄地、いわゆる『天領』から江戸へ送られてくる米が積み上げられた蔵が並んでいた。そしてその周囲には旗本・御家人たちに支給される家禄・給与としての米を金銀に換える、若しくはその権利を担保に金銭を前貸しする、札差たちの店が並んでいた。

 幕府から特権を得て営業する御用商人である札差には『座』という営業権の管理組合があり、その繋がりは強い。金持ちが集まれば自然と付き合いは派手になり、見栄を張り合うことになる。地理的に近い吉原で紋日の祭りが派手に行われる都度、その『張り合い』は馴染みの遊女の名を借りて繰り広げられる。

 仲の通りに桜木を移植する花びらき、玉菊忌の灯篭、などなどらに添えられる寄進札には遊女と見世の名しか記されていないが遊客たちは皆、その背後に居る馴染みの旦那を知っている。誰が一番、いま羽振りがいいか、それで手に取るように分かる。その評判が札差としての信用に繋がらないこともないから、彼らの散在は一種の広告、宣伝費だとも言える。

 蔵前に並ぶ札差のうちただ一軒だけ、花びらきや灯篭の奉納に参加しないところがある。金がないのではない。むしろ逆、新興ながら老舗を圧迫する勢いで業績を伸ばしている富家だ。

 それが参加しない理由は予算の問題ではなくて。

 

「格ってもんがよぉ、あんだぁ」

 

 男には紋日の見栄の競演に参加する心算があった。自分から何も言い出さないオンナに向かって自分から、お前の名前で一番大きなのを奉納してやるぜと囁く。

 うとうとしていたオンナは何を言われているのか咄嗟に理解できなかった。普通の桜じゃ面白くないな、お前に似合う珍しいのを探そう、とまで言われて、ああ花びらきのことかと思いついた。

 御衣黄桜とかお前らしい。花が散ったらここの庭に植えようぜ、と、金髪の男は楽しそうに囁く。姫初めを独り占め、年末年始の多忙を乗り越えて久しぶりに会えたオンナを昼間から揚げ詰めのいつづけ、明日の夜まで一緒に居られるぜと抱きしめながら、オンナを喜ばせたくてそんなことを思いついたのに。

 オンナは喜ばなかった。喜ぶどころか呆れた様子で、バカかてめぇと罵られてしまう。

「キャバッローネのイケてるボスになったんじゃねーのかよ。寝ぼけてんなぁ、ヘナチョコぉ。裏通りの小見世にゃそんな、出品権利が、あるわきゃねぇだろーがぁ」

「……え?」

「ありゃ五町の、表店だけの祭りだぁ」

 表町と呼ばれる、大通りに面した格式の高い見世に抱えられた遊女だけが桜木を寄進することが許される。大見世や中見世の呼び出し昼三の看板遊女たちが。、もちろんそれは義務でもあって、旦那の手当てがつかなに遊女は自腹を切らねばならず泣きたい気持ちで、辛いことだろう。

「ウチはなぁ、そーゆーのとは、カンケーねーんだよぉ」

 湯屋や商家、裏茶屋といった素人店に混じって小見世が散在する裏通り。西や東の河岸ほどに乱雑な訳ではないけれど、公許の女郎屋としては底辺に近い。

「そーゆー華やかなのは、別世界なんだぁ。揚げ代だけは便乗値上げするけどなぁ」

「……」

「なんだぁ、のツラぁ?」

「……楽しみに……」

 していたのにと、悲しいほど残念そうに呟く幼馴染を、ばぁかと銀色のオンナは容赦なく笑った。笑ったけれど、その後で。

「いいぜ、大見世に、馴染みの女、作っても」

 意外なくらい優しい声で、オンナはそんなことを言う。

「廓の中でふたまたかけねーのが掟だけど、まぁ、もともとオマエみたいなのが、こんなとこ通ってんのがおかしーんだからよぉ。大門でとっ捕まえてふん縛ったりしねーから安心しろぉ」

「……スクアーロ?」

「今からなら、三回こなして馴染みになれるんじゃねーか?お前ならそう焦らされも待たされもしないだろぉ。ってーか、そのツラで笑って金積めば、初会馴染みだって大抵のは、ウンって言うんじゃ……、なんだぁ?」

 じっと、薄闇の中、それこそその『顔』に間近で、ひどくつらそうな表情で見つめられて、オンナは言葉を途中で止める。

「どーしたぁ、景気のわりぃツラしやがってぇ?」

「そんなこと、冗談でも言わないでくれ」

「あぁン?」

「お前と、花見を、楽しみたかったんだ……」

「……、ぷっ」

 残念そうな金髪の男を、腕の中のオンナが笑う。酷いな、と男は囁きながらオンナを抱きしめた。かわいそうにと、心から思いながら。

「そーゆーの、オレぁパスだぜ、お坊ちゃん。人目のあっとこにゃ出て行きたくねーよ」

「お前はいつもそう言うよな、スクアーロ。一度も、どこにも、出かけてくれないな……」

 遊女は廓からは出られない。が、大門の内にも色々な店はある。美味い食事をさせる料理茶屋もあるし、大丸や三越と契約してその商品を仕入れる呉服屋もある。

「オレと一緒に居るのを見られるのがイヤなのか?」

 そういう店へ遊びに行こうと誘ってもさそってもこのオンナは動かない。殆ど見世から出ずにすごしている。座敷持ちたちは見世の狭い風呂を嫌って湯屋へ行くことが多いのに、このオンナはいつも見世の一番風呂に入って、髪結いも廻り髪結いを呼ぶから、本当に外に出ない。

「逆だぁ。てめぇがあんま、俺と一緒のこと、見られねー方がいい。年寄りどもは、執念深ぇからなぁ」

「スクアーロ」

「せっかく出世したんだろ。ちったぁアタマ、使え」

「高嶺の花だった、お前は」

「そりゃ、大昔の話だぁ」

「今でも俺にはあこがれの相手だぜ。ずっと。なぁ、もう、こんな風に、抱きしめて喋れるなんて、嘘みたいなんだ」

「おいおい、さんざ好き放題しといて、なぁにイマサラ、寝言いってやがる」

「明日もするぜ、たくさん」

「好きにしろぉ。てめぇが買ったカラダだぁ」

「本当にな、今でも、まだ、半分信じられねーよ。嘘みたいだ。お前がまさか、金で買えるなんて」

「……寝るぜ、おやすみ」

「お前の不幸せにつけこんでる、俺は卑怯な男だ。でも本当にお前を愛してる。だから、せめて、お前がちょっとでも楽に暮らせるように、してやりたいって、心から思ってる」

「なら」

「ん?」

「明日の朝、鯛茶漬け食わせてくれぇ」

「いいぜ」

 オンナのおねだりに男は軽々と応じた。軽々の筈で、それは本当に些細なことだった。腕の中で目を閉じ眠ってしまったオンナを抱きながら、男はその『安さ』かどうしても、悲しくて切なかった。

 

 

 あそこの見世の子たちは色艶がいいなぁ、と。

 近隣で噂される、理由は分かっている。単純なことだ。栄養状態がいい。見世の内証というのは吝嗇なもので、賄いの食事は米の飯の他には汁と佃煮くらいしか出さない。

金回りのいい遊女は自分の小遣いで外から食べ物を取り寄せ食膳に彩を添えるが、それの出来ないぱっとはない妓やまだ小遣いのない仕込みっ子たちは空腹を抱えていることが常態だった。

けれどその見世だけは違う。

「こんちゃー。今日はいくつ、置いていったらいいスか?」

 午後の四時、昼見世の仕舞う時間に決まって、勝手口に顔を出す近所の寿司屋の息子。肩に担いでいるのは一つが四十八文の箱寿司。一箱を十二等分して、一欠けらを四文(100円強)のバラ売りもする。価格も量も、コンビニのお握りといったところ。が、この見世ではバラでの売買したことがない。

「あら、タケシ君、こんにちは。今日はなに?」

「鯵と小鯛と、いつものチラシっス」

「アタシは小鯛をいただくわぁ。他も適当に五枚くらい、置いていってちょうだい」

「はい、毎度ぉ」

 元気よく答えて竹寿司の息子は、一階の膳所へ通り適当な箱膳の上に箱寿司を置いた。夕の六時から始まる夜見世に供えて、二階に座敷や部屋を持てない新造やかむろがそこで食事をする。その時に、箱寿司を一人につき三欠けまでは自由に食べていいことになっている。引け四つが鳴った後にも残っていれば、それも食べていい。稼ぎの少ない下っ端たちには有り難い振る舞い。

 それはもちろん、内証が金を出すのではない。二階の座敷持ちの馴染み客にとびきり金回りのいいのが居て、竹寿司への注文は全て、その馴染み客へ勘定書きが廻されることになっている。十日ごとの締めで、仕入れのついでに蔵前の店舗へ参上して請求書を差し出すと、その場で手代が現金を渡してくれる、実にいい客だった。

「うえ、上がっていいスか?」

 小見世といっても敷地はそれなりに広く、庭をぐるりと取り巻く形で二階が作られている。客用ではない、台所から二階へ上がる階段の手前には、『物売り上がるべからず』という注意書きが貼り付けてあるけれど。

「いいわよん。今日は昼見世で客が揚がったから、スクちゃんまだ、休んでるかもしれないけどぉ」

 小鯛の箱寿司を、まぁおいしそうと眺めながらオカマの年増が許してくれて、少年はトントン、わざと足音をたてて二階へ上がった。上等の女が起居して客を迎える二階は一階とは木口からして違う贅沢な造り。大通りの大見世の豪華絢爛さに比べればみすぼらしいものだというが、そんなところに縁のない少年の目にはこの小見世の二階も竜宮城のように見える。

「あの、スクアーロ、さん」

 目当ての襖の手前で荷をおろし、廊下に膝をつき、そっと声を掛ける。

「竹寿司です。いつもの持って来ました。置いて行きますね」

 蔵前の札差の旦那から、こちらは前金を預かって日に一度、夕食用の采を持ってきている。栄養がある美味いものをと言われ、殆ど毎日、重箱に宴会用の料理をちまちま、彩りよく詰めて。

「……入れ」

 眠っているかもしれないと言われてそっと声をかけた少年は、いつものようにそう言われ嬉しそうに襖を開ける。この見世の一番いい座敷は八畳と六畳の続き間。それに四畳半の控えの間がついている。

控えの間は客用の表廊下ではなく従業員用の裏廊下に面していて、少年はもちろんそこから訪問する。そうして部屋の主人は華やかな表の間ではなく、薄暗い四畳半に居ることの方がおおい。

「こんにちは。ここに置いていきます」

 座敷持ちの銀髪の美女は眠ってはいなかった。窓の桟に腰をかけて、詰まらなそうにタバコを吸っていた。手入れの行き届いた中庭ではなく洗濯物が干されて雑草も生えた裏庭を眺めながら。

「ご苦労さん」

 キセルを口から離し、ゆるく合わせた懐からぽち袋を取り出して少年に手渡す。少年は嬉しそうに笑う。毎日のことだがそれでも、やっぱり嬉しい。中身はいつも、100文銭が一枚。チップにしてはいい金額だが、何よりも渡してくれるとき、一瞬だけ触れる指先の白さが少年を喜ばせる。

 袋の暖かさも。あの真っ白な胸の体温が移ったのだと思うと、頬がうずうずとしそう。

「ありがとうございます。じゃあ」

 無駄口を叩かない少年は頭を下げ、襖を閉めて残りの荷を肩に担ぎトントンとまた階段を降りていく。少年の背後でからりからりとと襖の開く音が聞こえた。毎日『配達』されてくる仕出しのおかずのご相伴にあやかるべく、二階の別の女たちが部屋を出てくるのだと、色町に馴れた少年には分かっている。

 もちろんそれは金を出している札差の投手も承知のこと。だから一人前ではなく、重箱にぎゅうっと詰め込んでいるのだ。大事にされてんだなあの人、と、少年は感心している。男と女のことはまだよく分からなかったが、あのキレイな人とほんの一言二言でも、話しをするのがやっと子供ではなくなった時期の少年の、毎日の楽しみだった。

 

 

 紋日に女郎を買い切って、でも登楼しないことを仕舞いと言う。仕舞いをかけられた妓は張り見世の座敷に仕舞い札という短冊を麗々しくかけられ、その日は見世に出て客をとらない。仕舞いは客が実際には来ないので、それをかけるのは一人とは限らない。大見世の人気絶頂の花魁であれば紋日には豪商の名がずらりと、札に書かれて何枚も並ぶ様子が珍しくない。

 裏通りの小見世では仕舞い自体が珍しく、その日もかけられていたのは銀色のオンナ一人。いつものことで、紋日はこのオンナにとっては休日。お茶をひいて内証から睨まれるのが嫌さに馴染み客に手紙を書き綴り、必死で引きとめようと務める同僚たちからは妬まれ羨ましがられるほど、それは幸せなことだった。

 けれど。

「いいぜ、上げてくれ。どうせヒマだし、相手が欲しかったところだぁ」

 銀色の一番客はその札差だったが、それだけが馴染み客という訳ではない。愛想は悪いが性格はそう悪辣でもなくて、馴染むと面白い上にこの器量だ。定期的に通ってくれる客は何人も居た。

「スクちゃん」

 咎める視線で、通りかかったルッスーリアは銀色の美女をたしなめる。昼間から寿司を取り寄せ手酌で飲んでいるせいで酔いにうっすら足を取られて、蕩けだしそうな目尻を銀色は向けた。

「そんなことして、知らないわよ、跳ね馬に知られたら怒られるんじゃないの。来ないからって裏部屋はお行儀が悪いわよ」

「オマエが黙ってりゃバレねーよ」

 そんな話しを、まだしているうちに、紋日で忙しい一階から客は二階へ上がってきた。

「いいというのが何かの間違いなら、帰る」

 客は物分りがいい。

「紋日というのを忘れていた。土産を渡しに来ただけだ」

 半身だけ二階の手すりから見える位置で、こんな小見世には珍しく袴を履いた武家姿の男が表情を変えずに告げた。銀色の馴染み客たちは皆、その一番客を承知している。桁違いの金持ちである蔵前の札差と張り合う気はさらさらなく、紋日はその札差の仕舞いだから尋ねても無駄足になると知っていた。けれど。

「よーぉ、幻騎士。大阪どーだったぁ?」

 直参旗本であるその客は大番筋四百石とりの当主で、六年に一度、は勤番として大阪城や江戸城の警備に就く。去年の秋、行ってくると女に律儀に挨拶して江戸を離れていた。

「メシは美味かった。女はまぁまぁだった」

「ははっ、聞かせろよ」

 旅の話をと、機嫌よく銀色のオンナは客を座敷に招く。男は少し遠慮して戸惑ったが、やはり懐かしかったのか、ルッスーリアに会釈して袴をさばいて座敷に通っていく。

「……仕方ないわね……。今日は十月十日ですものね……」

 その日だけは正気で居るのが辛いらしくて昼間から手酌で酒を酌み、痛みを紛らわしてふらふらしている仲間にオカマは同情した。

「ま、バレなきゃ、なんて言うことは……、収穫祭だし……」

 秋の収穫に感謝する秋祭りの日だ。蔵前の札差たちは忙しい。出入りの大旗本や幕府の主要役職者たちに進物を持参しなければならない。

「忙しいわね、きっと、跳ね馬は」

 大丈夫だろうとルッスーリアは思った。実際、去年もその前も大丈夫だった。けれど。

 ヤバイ時分にかぎって、たまたまという、ことはある。